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2019年11月30日

「桜を見る会?」(十一月廿八日)



 最近、ネット上で見る限り、日本では「桜を見る会」とかいうのが問題になっていて、マスコミと野党が大騒ぎしているようだ。理解できないのは、左翼系の野党がこの疑惑を追及することで何をしようと考えているかで、もし、この程度の疑惑で自民党の政権を倒せるのであれば、冷戦終結前に何度も政権交代が起こっていたはずである。本気で政権の獲得を目指しているのであれば、別なやり方があるだろうにと、かつての心情左翼としては思わざるを得ない。

 今のままでは、有権者に、批判するのが存在価値である共産党と同一視されてしまうだけである。政権批判に関しては共産党のほうが年季が入っている分、旧民主党勢力よりも的確だし説得力もあると考えると、共産党以下の存在になってしまいそうである。民主党の成れの果てと呼ばれるのもむべなるかなの迷走ぶりに見える。
 この件で、安倍首相を弁護する気はない。首相が政治を私物化しているのは、すくなくとも私物化している部分があるのは確かだろう。問題は私物化しない政治家が存在するとは思えないことで、仮に安倍首相と野党の政治家の間に違いがあるとすれば、それは私物化しているか、していないかという根本的な違いではなく、どの程度という量の差、質の差でしかない。だから、どんなに批判をしても、目糞鼻糞のののしり合いの域を出ないのである。

 しかも、調査の結果明らかになった事実ではなく、なんだか怪しいという疑惑で失脚させようというのは、スターリン主義時代の共産党政権内の権力闘争を思わせる。チェコでも野党が強硬にバビシュ氏の辞任を求めていたが、あれは警察が刑事事件として捜査を開始したからであり、EUがバビシュ氏のアグロフェルト社との関係を問題だと認定したからである。
 こういう基礎的な事実があるから、そのあとの単なる疑惑での辞任要求にも説得力がないわけでもなかったのである。それでもANOとバビシュ氏への支持が下がらないのは、既存の政党の政治家がバビシュ氏と同じようなことを繰り返してきたことを有権者が知っているからに他ならない。日本の野党も有権者に同じように見なされているのだろう。

 旧民主党は自民党のひどさにつけ込むことに成功して政権を獲得したものの、実務能力のなさが露呈して政権を失うことになった。有権者としては、同じ腐っているなら、批判するだけで現実的な実務能力のない民主党より、自民党の方が多少はましだと判断しているのだろう。そうなると本気で政権獲得を目指すのなら、実務的な政権運理能力があることを有権者に示さなければならないはずだ。そして、それは些細な疑惑を針小棒大的に拡大して批判することでは達成できない。今のままでは、共産党を除く左翼が消えてしまうということにもなりかねない。
 左翼系の野党がするべきことは、安倍首相の桜を見る会と、民主党時代の桜を見る会を比較して、民主党時代の方がましだったと主張することではない。そんなことをしたって、水掛け論に終わるのは目に見えている。数の多寡も、どんな人が呼ばれたかも本質的な違いならないし、批判しようと思えば、どうにでも批判できるものである。

 そんな不毛なことをする暇があるなら、左翼の好きそうな言葉でいうと、建設的なことをしないと意味がない。チェコ語で「ブドバテルスキー」という形容詞があることを知ったとき、建設的な議論なんていうときの「建設的」という言葉は、実は共産党政権化の東側で使われていた言葉が左翼によって翻訳されて日本語でも使われるようになったのではないかと思いついたのだけどどうだろう。

 話を戻そう。桜を見る会に関して建設的な対応というと、吉田首相が始めたときの経緯から、初回から今年の会にいたるまでの招待された人や、その数などを調査して、政府が主催する会として、問題がないかどうか分析した上で、今後どうするべきかを検討することだろう。左翼側独自の提言をまとめてもいいし、自民党に共同であるべき桜を見る会について話し合うことを提案してもいいだろう。それができれば、有権者も多少は左翼の野党を見直すと思うのだけど。
 左翼っての、右翼以上に、自分たちに甘いところがあって、目的は手段を正当化するなんて論拠で、正しい目的を持つ自分たちの行為は棚に上げて、間違った目的を持つ政敵の行為はぼろくそに批判する。それを改めて、民主党政権時代にやったことの反省と、これも左翼が好きな総括をする必要もあろう。桜を見る会なんて例の事業仕分けの対象になって、廃止なり縮小なりされていてもおかしくないのに、どうして継続されたのかというのも知りたいところである。

 今の安倍政権がひどいというのは確かだろう。ただ、野党を見ていると、政権交代が起こったからといってマシになるとも言い切れないのが日本の一番の問題だと言ってもいい。チェコのバビシュ政権と状況は非常に似ている。野党よりはマシという一点で、与党の支持が下がらないのである。政権交代が起こるかかどうかはともかくとして、左翼が立ち直らない限り日本の政治状況がよくなることはありえない。個人的には、リベラルという言葉使うのをやめるべきだと思う。日よってそんな言葉使うから、共産党までリベラルだという意味不明な言説までが登場して、一般の有権者だけでなく支持者まで混乱させているのだから。
 まとまりがつかないけど、今日の戯言はここまで。
2019年11月29日23時30分。


昨夜ネットがつながらなくなったため、今朝更新。






タグ:日本 左翼
posted by olomoučan at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2019年11月29日

スラビア終戦(十一月廿七日)



 チェコから唯一ヨーロッパのカップ戦の本戦に出場しているスラビア・プラハが、チャンピオンズリーグのグループステージで最下位に終わりヨーロッパリーグの春の部にも出場できないことが決まった。バルセロナ、ドルトムント、インテルと、スペイン、ドイツ、イタリアの上位チームと同組になるという組み分けに、勝ち点0で終わるんじゃないかとか、ぼろ負けの連続になるんじゃないかなんて心配もしたのだが、多くの予想を覆すような頑張りだったようだ。
 組み合わせに恵まれていれば、グループ勝ち抜けも狙えたんじゃないかとも思わなくもないけど、選手やファンにしてみたら、この三チームを相手にできたのは、勝ち負けを抜きにして最高の経験だったはずだ。興業的にも客を呼べる対戦相手ばかりだったしさ。ということで、10年ぶりのスラビアのチャンピオンズリーグ出場は、グループステージで勝ち点2、最下位に終わった。まだドルトムントとの試合が残っているけど、勝ち抜けのかかる相手にアウェーで勝ち点を取れるとは思えない。

 10年前は、確かもう一つ旧東側の国のチームが入っていて、そことの3位争いを制して、ヨーロッパリーグに回ったはずだが、あの時と比べても、今回のスラビアが残した印象ははるかに上で、もう少しで、スパルタが90年代、2000年代の初頭に残した成績に追いつけるんじゃないかなんてことを考えてしまう。実際にはそのもう少しが、ものすごく大変なんだろうけどさ。

 今日は、インテルと最後のホームでの試合だったのだが、始まる前はスラビアがやってくれそうな予感はあった。U19のチームの選手たちが、インテルを圧倒して4−1で完勝したのである。外国人っぽい名前の選手が、ハットトリックの大活躍だったらしい。今回はこれをAチームの試合の結果だと勘違いするようなことはなかったのだが、予兆としてはこれに勝るものはない。
 前回プルゼニュがチャンピオンズリーグに出たときも、このU19の大会が行われていたと思うのだけど、特に話題になった記憶もないから、特に好成績を残してはいなかったのだろう。今回は、バルセロナにもインテルにも勝ったわけだから、将来が楽しみになる。とはいえ、主要な選手たちはAチームに上がる前に外国に買われていくのだろうけど。

 試合前の状況を整理しておくと、4試合終えてスラビアは勝ち点2で最下位。3位のインテルは勝ち点4。スラビアが3位になって、ヨーロッパリーグに進むためには、イタリアで引き分けることに成功したインテルに勝つしかない。引き分けでも理論上の可能性は残るが、ホームで負けたドルトムントに勝たなければならなくなる。ドルトムントがインテルに負けなかったら、この試合引き分けでもよかったのだけどなあ。

 この勝たなければならないというのが、スラビアには結構重くのしかかる。チェコリーグレベルならどんどん得点できるけど、チャンピオンズリーグでは、とにかくゴールが遠いのである。これまで4試合でたったの2得点。だから勝てるとすれば1−0の場合だけで、相手に先制されたらよくて引き分けなので、敗退はほぼ決定というのが試合前の予想。
 そして、恐れていた通りインテルに先制されてしまう。前半のうちに、一度は同点に追いつくものの、勝たなければいけないスラビアが攻勢に出た結果、カウンター食らって失点して試合に負けたというのが簡単なまとめである。監督によれば、ミスが多くてここまで最低の出来だったらしいけれども、それも勝たなければならないというプレッシャーのせいだったのだろう。

 この試合は1−3でインテルが勝ったのだが、一番注目を集めたのは、ビデオ審判だった。インテルは5つゴールを決めたのだが、2つはビデオ審判によって取り消され、スラビアがPKから挙げた得点もビデオ審判の判定のおかげだった。
 テキスト速報でちらちらと試合の流れを確認していたのだが、1点取られたあと、しばらくして0−2の表示になって終わったと思ったら、1−1にスコアが変更された。速報をやっている人の入力ミスかとも思ったのだが、実は、インテルのゴール前での攻防で、スラビアのオライエンカが倒されたのを、審判は反則ではないと流してプレーを続行させた。その後のインテルの攻撃をスラビアがしのいでキーパーのコラーシュがボールを抑えたところまではよかったのだが、パスを出したディフェンスの選手がミスしてボールを奪われてしまいそのままゴールも決められてしまう。
 この時点で速報の表示が0−2になったようだが、ビデオ審判が介入し、発端のオライエンカが倒れたシーンの確認が行なわれ、インテルのゴールは取り消し、スラビアにPKが与えられた。ソウチェクが決めて同点に追いついたのだけど、このときはスラビアにはまだ運があるから、いけるかもしれないと期待したんだけどねえ。
 試合終了直前には、テキスト速報の表示が1−4になった。それ自体はまたカウンター食らったのかで仕方がないとは思えたのだが、しばらくしたら1−3に戻った。これもビデオ審判が、ぎりぎりのオフサイドを指摘した結果、ゴールが取り消されたようである。後で映像を見た限りでは、撮らなくても文句は出なさそうな、本当にぎりぎりのオフサイドだった。バルセロナでのメッシのオフサイドといいスラビア、つきがないわけではないのである。

 とまれこれでホームでの試合は3戦3敗となった。その代わり、アウェーでは2試合とも引き分けて貴重な勝ち点を稼いでいる。ドルトムントでの最終戦も引き分けの可能性がなくはないのか。それにしても今のスラビアに全盛期のコレルかラファタのような点取り屋がいたらなあと思わずにはいられない。そうしたら本気でグループステージの勝ちぬけが期待できたのに……。この辺はチェコ代表についても同じなんだけどさ。決定力のなさに悩まされているのは日本のチームだけではないのである。
2019年11月28日23時。











2019年11月28日

お蔵入り映画の日3(十一月廿六日)



承前
 七本目が始まったのは午後8時。この夕食後の一番いい時間にミロシュ・フォルマンの作品を持ってきたのは、チェコテレビも視聴率を多少は意識しているということだろうか。選ばれた作品は、「火事だよ! カワイコちゃん」という邦題で日本でも公開されたらしい「Hoří, má panenko」である。この邦題については、黒田龍之助師が「センスを疑いたくなる」と『チェコ語の隙間』で評している。

 1967年末に国内で公開された、この映画が後に禁止された理由は、フォルマンがアメリカに亡命したことだと思っていたのだが、チェコ語版のウィキペディアによると、亡命ではなく、クンデラと同様に合法的に出国し、アメリカに移住したということになるらしい。クンデラの場合とは違って、チェコスロバキアの国籍を剥奪されることはなかったから、以後もチェコの映画関係者と協力して仕事をすることができたし、「アマデウス」の撮影をチェコ国内で行うこともできたのだという。それでよかったのか、共産党政権、と叫びたくなるような事実を確認してしまった。
 クンデラが小説を書いても、外貨稼ぎにはならないけど、フォルマンの映画のためにチェコの映画関係者が仕事をすれば、外貨で謝礼がもらえるというのも、経済的に行き詰りつつあった東側の国の国としては考慮しなければならなかったのかもしれない。その結果というわけでもないだろうけど、チェコでは今でも外国の映画撮影に多額の補助金を出してまで誘致している。外国の映画撮影隊が、チェコ国内で使うお金の十分の一が政府から補助されるんだったかな。

 では、仮にフォルマンが原因ではないとするなら、禁止された理由は内容ということになるのだろうか。田舎の山村の消防士たちの都会へのあこがれと、それによって引き起こされる舞踏会でのドタバタ劇はそれほど問題になったとは思えない。問題になったとすれば、参加者がくじを引いてもらえることになっていた賞品が、会場の電気が消えるたびに盗まれて数を減らすというシーンだろうか。ここには、機会があれば盗むという共産党政権下のチェコ人の民族性が描き出されているわけだが、政府としてはそれを認めるわけにもいかなかったのかな。
 でも、合法的だったとはいえ、外国に出てしまったフォルマンの存在感を消すために、作品をお蔵入りにしたと考える方が、やはり自然だろう。


 八本目は、現代チェコ文学最高の作家ボフミール・フラバルの作品を、イジー・メンツルが映画化した「Skřivánci na niti」。日本でも「つながれたヒバリ」という題名で知られている。制作されたのは1969年で、関係者の前で上映された後すぐにお蔵入り決定。その内容が問題にされたようである。チェコ語が拙かったころに見ても、いいのかと言いたくなるような風刺というか、共産党関係者の悪いところをそのまま描き出したシーンが多かったから、上映禁止だったという話を聞いてすぐに納得したのを覚えている。
 当時のロマ人のあり方とか、共産党員の不正を上に報告したら、上の人も一緒になって不正に加担するとか、見どころはいろいろあるのだけど、一番印象に残るのは、最後のネツカーシュ演じる若者が、視察に来た共産党の大物(役職までは覚えていない)に、何気ない質問をしたら、その場で捕まって、炭鉱送りにされたシーンである。なんで、何が問題で捕まったのかよくわからなかったんだけど、軽い、一見何の問題もない言葉であっても、共産党に悪く取られたら逮捕される理由になるという、当時の共産党政権下の現実を見事に描き出したシーンだった。

 原作のフラバルと監督のメンツルという組み合わせは、チェコの映画界における黄金コンビとでもいうべき存在なのだが、ここに繊細な若者を演じさせたら右に出る者のいなかった若き日のネツカーシュが主演として加わったらもう最強で、この三人の組み合わせで「つながれたヒバリ」と「厳重に監視された列車」の二作が世に送り出されている。


 この日最後の作品は「Kladivo na čarodějnice(魔女への鉄槌)」。以前にもどこかに書いたが、シュンペルク周辺で勃発した魔女狩りの様子を描いた作品である。監督はオタカル・バーブラ。この人は「ヤン・フス」や「ヤン・ジシカ」などの歴史的な人物を描いた長編映画の監督としても知られている。監督としてのキャリアを始めたのは第二次世界大戦前のことで、ヒティロバーなどの「ノバー・ブルナ」の監督たちよりも上の世代になる。
 監督のバーブラは、第一共和国の時代からビロード革命後の資本主義の時代まで、そのときどきの政権と対立することなく、長期にわたって監督として作品を送り出してきた人物である。出演している役者の中にも特に共産党政権と問題を起こしたことで知られるような人物は存在しない。そうなると内容が問題だったということになる。

 魔女裁判がテーマのこの映画では、魔女として認定、もしくは指名された人を捕らえて、拷問などの様々な手法で、魔女であることを自白させる様子が描き出されている。捕らえた資産家の財産を没収して、それで宴会を開いている様子も出てきたかな。それはともかく、罪もない人に言いがかりをつけて、あらゆる手段を使って自白を強要するところが、1950年代のチェコスロバキアに吹き荒れたスターリン主義を思い起こさせるというクレームがついてお蔵入りになったらしい。
 この作品が禁止された事実は、スターリン主義の否定から始まって「プラハの春」に行きついた自由化を、否定し「正常化」された共産党政権が、スターリン主義に回帰したということを示しているのだろう。秘密警察の暗躍する魔女狩りの時代、つまり階級の敵を見つけてレッテルを貼りつけ弾圧する時代が戻ってきたのである。
 この作品も、完成は1969年だが、「プラハの春」の自由化の中で企画が立てられ撮影も進められた考えてよさそうだ。


 この最後の「魔女への鉄槌」が終わったのが、12時半ごろだっただろうか。好きな人は最初から最後まで見通したのだろうなあ。それはともかく、関係者が問題を起こすと、撮影済みの作品であってもお蔵入りにしてしまう日本のテレビ業界ってのは、共産主義政権下のチェコスロバキアにおける検閲と同じレベルの自主規制をやっているわけだ。こんな連中に報道の自由とか何とか偉そうなことを宣う資格はあるのかね。監督や出演者の人格と作品の評価は別物だとして、いくら抗議が来ようとも放送するのが報道の自由ってやつじゃないのかね。まあ、演技力よりも人気を優先して、アイドル上がりやらモデル上がりやらを起用する日本の映画やドラマにそれだけの価値があるかどうかは別問題だけどさ。
 日本には、表現の自由、報道の自由が侵害されているとして騒いでいる人たちがいるようだけど、実態はメディアの側が自由を求めていないというのが正しいように見える。報道の自由があろうがなかろうが、スポンサーからの経済的な圧力やら、政治的な圧力やらがかかるのは当然のことだろう。問題はメディアの側にそれを跳ね除けるだけの気概があるかどうかだが、日本のマスコミには期待できそうもない。
2019年11月27日17時。




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タグ:映画

2019年11月27日

お蔵入り映画の日2(十一月廿五日)



承前
 四つ目は、日本ではすでにフランスの作家になってしまったクンデラの同名の小説を映画化した「Žert(冗談)」。完成は、1968年だが、「プラハの春」がワルシャワ条約機構軍に踏みにじられた8月下旬以降のようだ。この作品は1969年に一度は公開されているから、即座にお蔵入りしたわけではない。それが、最終的に禁止された理由は、恐らく原作者で脚本にもかかわっていたクンデラの存在である。
 クンデラは、もともとバリバリの共産党員で、第二次世界大戦直後のインテリの若手作家が左翼に傾倒するなんてチェコスロバキアに限らず世界中のどこでも起こったことだが、さらにスターリン主義者でもあったらしい。ただ1968年の「プラハの春」のころにはすでに転向を済ませており、「プラハの春」を秘密警察に頼らない世界初の共産党政権として高く評価し、チェコ人のソ連軍の弾圧に対する抵抗運動を、チェコ民族のフス以来の抵抗の歴史の中に位置づけた上で、チェコ人ほど他民族の圧政に対して抵抗してきた民族はいないなんて発言を残しているらしい。
 こんな発言を、スターリン主義の時代にやっていたら、正常化を主導したスロバキア人のフサーク同様、民族主義者のレッテルを張られて投獄されていたはずである。個人的にはこういうクンデラのほうが、小難しい小説理論を書くクンデラよりも、親近感を持ちやすいのだけど。もちろん正常化の時代のフサーク政権にとっても歓迎できることではなく、クンデラは作品の発表の場を失っていくのだが、同時にこの映画の放送も禁止されたと考えておく。
 1975年にクンデラが、フランスの大学の招聘に応えて、チェコスロバキアを出た時点では亡命ではなかったようだが、その3年後にチェコスロバキアの国籍を剥奪される。一般の亡命者が国を捨てたのに対して、クンデラは国に捨てられたのである。その捨てられたという意識が、クンデラをしてチェコへの帰国、チェコ国籍の再取得を拒否せしめているのかもしれない。

冗談 (岩波文庫) [ ミラン・クンデラ ]





 五つ目の禁じられた作品は、『火葬人』というタイトルで原作の日本語訳も出版されている「Spalovač mrtvol」。直訳すると「死体を焼く者」ということになる。火葬場で仕事をしている主人公を、チェコ最高の名優ルドルフ・フルシンスキーが怪しさたっぷりに演じきった作品で、チェコ映画の中でこれが一番好きだというチェコ人も多い。猟奇的な殺人犯人を主人公とする映画のようなので、現時点では手を出しかねている。
 完成したのは1968年だが、公開されたのは翌年の1969年。公開直後に、上映禁止となってお蔵入りしてしまった。チェコ語版のウィキペディアによると、公的な禁止の理由は内容があまりにも病的だというものだったらしい。フルシンスキー演じる殺人犯が病的だったのは確かだけれども、そんな理由で禁止していたら、ホラーとかスリラーなんてジャンルの映画は軒並み禁止になってしまう。
 実際には、映画の時代背景が、1930年代末のボヘミア・モラビア保護領の成立した時代で、主人公たちが、ナチスの支持者に変わっていくのが、1969年当時のチェコスロバキアの状況をなぞっているように思われ、禁止されたのだという。当時は、「プラハの春」を支持していたはずの共産党の指導部が、軍隊の侵攻を受けて変節し、ソ連の指導の下でいわゆる「正常化」に向かっていたわけだから、言われてみれば納得できなくもない。
 このウィキペディアの記事を見つけるまでは、重要な役を演じているブラスタ・フラモストバーの存在が、禁止につながったのかと思っていた。この人も、憲章77に署名したことで演劇の世界から追放されて、ビロード革命後に復帰している。秘密警察に協力を強要されたけれども、密告したのは自分のことだけなんて話もあったなあ。とにかく「プラハの春」が弾圧されて以後も、体制に抵抗し続けた数少ないチェコ人の一人であった。10月の始めに92歳で亡くなったばかりである。
 今回はチラ見をしながら、最後の部分だけはあるていど集中して見た。見たんだけど、気が付いたら死体が増えていて、棺桶の中に収められているという印象しか残っていない。フルシンスキーの嬉しそうな顔も夢に出てきそうと言えば出てきそうか。チェコの人は、例外を除くと、これをコメディーとしてみるらしいのだけど、ちょっと無理だなあ。
 監督はスロバキア出身のユライ・ヘルツ。

火葬人 (東欧の想像力) [ ラジスラフ・フクス ]






 六本目は「Ucho(耳)」。他の作品が見たことはなくても題名だけは聞いたことがあったのに対して、これは存在すら知らなかった。主役のペア、夫婦かもを演じているのは、ブルゾボハティーとボフダロバーという共産主義の時代から活躍する二人。チラ見した限りでは、共産党政権内の権力闘争を描いた作品のようだった。
 ブルゾボハティー演ずる男は、失脚寸前の高官なのかな。これまでやってきた悪事の証拠になりそうな書類を夜中にトイレで焼いている間に、その書類に関わる過去の出来事を回想するという形で話が進む。ながら見だったせいか、途中で現実なのか回想なのかわからなくなることも多かったが、共産党体制下ではしばしば投獄、もしくは死を意味した失脚を恐れる気持ちは読み取れたような気がする。
 完成したのが1970年で、即座にお蔵入りが決まったようだから、党内の権力闘争を描いたところが問題にされたのだろう。全体主義体制下の権力闘争というのは、薄氷を踏むようなものだったのだ。それを描き出した作品の上映を許可することが、自らの失脚につながりかねないと考えると、許可を出せる人はいなかったのだろう。
 監督は「ノバー・ブルナ」を代表する監督の一人カレル・カヒニャ。オタ・パベルの原作を映画化した「黄金のウナギ」と「美しき鹿の死」あたりは、日本でも知っている人がいるかもしれない。

 終わらなかったのでまた明日。
2019年11月26日17時。







美しい鹿の死 [ オタ・パヴェル ]











タグ:映画

2019年11月26日

お蔵入り映画の日1(十一月廿四日)



 1989年までの共産主義体制下のチェコスロバキアでは、戦前の日本と同様に厳しい検閲が行われていたことを知っている人も多いだろう。その検閲のせいで、制作はされたもののそのままお蔵入りになった映画や、公開はされたもののテレビでの放送を禁止されたものなど、チェコスロバキアでは長きにわたって見ることができなかったチェコスロバキア映画というものが存在する。
 お蔵入りになる理由はいろいろあるが、一番多いのは監督、出演者に問題があるという事例だろうか。特に監督や主役級の俳優が亡命した場合には、問答無用で放送禁止にされていたらしい。「トルハーク」がその素晴らしさのわりに見たことがないというチェコ人が多いのも、重要な役を演じたマトゥシュカが亡命したため、ビロード革命まではテレビで放映されなかったからである。

 もちろん、内容に問題があってお蔵入りになる映画もないわけではないが、チェコスロバキアの場合にも戦前の日本と同様、脚本の時点で検閲が入り、撮影中も共産党の人間が監視役として送り込まれていたから、完成した後で上映禁止になった映画はそれほど多くないはずである。ただし、例外がある。
 チェコスロバキアにおけるスターリニズムが終焉を迎えた1960年代も後半に入ると、「プラハの春」につながる自由化の動きが映画界にも波及し、映画の脚本に関しても検閲があってないようなものになる。その結果、この時代に制作された映画の中には、内容を問題にされて上映禁止、放送禁止にされたものもいくつかある。
 中には撮影に入った時点では、検閲が緩かったのに、完成したときには正常化が始まっていたために、そのままお蔵入りしたものもあるし、外国の映画祭には出品されたものの、国内では日の目を見なかったものもある。外国での評価の高いチェコスロバキア映画における「ノバー・ブルナ(新しい波)」に属する作品は、ほとんどが一時的な自由化、規制緩和の中で生まれたものなのだ。

 今日、廿四日が、ビロード革命のさなかに検閲が廃止された日なのかどうかは知らないが、チェコテレビでは、「検閲の終わった日」と銘打って、朝から夜中まで放送禁止にされた映画を、ところどころドキュメントなんかを挟みながら、放送し続けた。全部見たわけではないけど、どんなのが放送されたか紹介しておこう。


 朝九時から、このイベントの最初の作品として放送されたのは、日本でも特に女性の間にファンが多いらしい「Sedmikrásky(ひなぎく)」である。この作品が制作され公開されたのは1966年で「プラハの春」の自由化の走りともいうべきものなのだが、1967年の時点で、国会の審議で取り上げられ、上映禁止を求められている。このときは完全な上映禁止には至らなかったが、配給先やテレビでの放送などが大きく制限されることになった。
 70年代に入ると、監督のヒティロバーがテレビでの仕事に関して、共産党体制ともめ、六年もの間テレビ、映画業界での仕事を禁じられている。これが、この「ひなぎく」を最終的にお蔵入りにしたと見ていいだろう。その後、ヒティロバーは、秘密警察からの圧力を受けながらも最後まで協力を拒否し、憲章77に反対するアンチ憲章への署名も拒否した。個人的には、「ひなぎく」という作品よりも、ヒティロバー本人に対する賞賛の気持ちのほうが大きい。お近づきになりたいとは思わんけどさ。

ひなぎく [DVD]





 二つ目の作品は、「Případ pro začínajícího kata」。あえて訳せば、「新人首切り役人の事件」とか、「首切り役人の仕事始め」なんてことになるのかもしれないけど、実はこれスイフトの『ガリバー旅行記』をもじったものらしい。原作にあたるものが風刺的な作品だから、映画も当然風刺にあふれていたのが共産党政権に嫌われたのだろう。
 作品が完成したのは、「プラハの春」が終結して正常化に向かいつつあった1969年。何度かの上映を経て1970年には、バランドフの配給作品から外されお蔵入りすることになる。その一因としては、監督のユラーチェクが、ソ連軍によるチェコスロバキア侵攻に反対する姿勢を撤回しなかったため、務めていたバランドフ映画製作所を解雇されたことが考えられる。
 またユラーチェクは、後に憲章77に署名しているが、映画監督で署名した人はほとんどいないはずである。そのせいでチェコスロバキア国内では仕事ができなくなり、仕事を求めて西ドイツに出国したらしい。その後帰国しているから、亡命ではないようだが、仕事を求めて西側に出られたというのも不思議な話である。一般の人が亡命しようとすると、殺してでも阻止しようとしたくせに、有名人で体制と強調できそうにない人の場合には、亡命しろと言わんばかりの対応を取っていたのが、当時の共産党政権なのだ。
 ユラーチェクは、1989年の5月に亡くなっているから、ビロード革命後にこの作品が再度上映されたり、テレビで放送されたりするのは残念ながら見ることができなかったようだ。

ガリバー旅行記 (角川文庫)




 三つ目も1969年に完成した「Smutečný slavnost(葬祭)」。強制的に移住させられた元パルチザンの農民を描いた作品は、完成した時点で内容に問題があるということで、お蔵入りになったようだ。元パルチザンが共産党員として活躍するという話なら、問題なかったのだろうけど、共産党ともめて生まれた村から強制的に移住させられ、亡くなった後も、生家のある村で葬儀をおこなったり墓に入れたりするのも拒否された男を描く作品だというから、これは共産党政権には認められんよなあ。
 監督のズデネク・シロビーは、その後も監督として仕事を続けているが、一番有名な作品は、ビロード革命後、チェコスロバキアの分離直前の1992年に制作された「Černí baroni(黒い男爵たち)」であろう。これはビロード革命後に企画され撮影が始まった最初の映画の一つで、共産党政権初期に存在したPTPと呼ばれる軍の部隊を描いた作品である。PTPというのは、出自や職業、思想性などの理由で、いわゆる階級の敵に認定された人たちを集めて強制労働に従事させたものだが、表面上は軍の一部隊の体裁をとっていた。
 この作品については黒田龍之助師の『チェコ語の隙間』に詳しい。ただし登場人物のスロバキア語への考察がなされているため、チェコではなくスロバキアの部分に収録されている。

 長くなったので、残りはまた明日。
2019年11月25日20時。



チェコ語の隙間―東欧のいろんなことばの話













2019年11月25日

ホテルとサッカーの話(十一月廿三日)



 金曜日の夜、何かのイベントの一環でNHホテルで夕食をとって帰って来たうちのが、帰ってくるなり、「スラビアのバスが停まっていた」と言う。ホテルの中にも「スラビアは二階」という表示がなされていたらしい。今日土曜日の夕方にすぐ近くのアンドル・スタジアムで、シグマ・オロモウツとの試合が行なわれるのだ。前日にオロモウツに入ったチームが、一番近いホテルのNHホテルに宿泊するのは当然といえば当然なのかもしれない。

 実はスタジアムのNHホテルとは反対側にも、スタジアムの客席の建物に接する形で、ゴールという名前のホテルが入っているのだが、スラビアにとっては、オロモウツには珍しい大手チェーンのホテルを選ぶほうが自然なのだろう。以前オロモウツでサッカーの代表が試合をしたときも、確か、両チームともこのホテルに滞在していたし、卓球のチェコオープンの会場も隣接するスポーツクラブだから、選手たちや関係者はこのホテルを利用しているようである。
 トラムやバスなどの公共交通機関を使うと、交通の便はよくないが、街のはずれのほうにあって駐車場も大きいから、車や貸し切りバスで移動する場合には便利な場所にある。旧市街からも歩いて10分ほどでつくから、荷物がなければ観光にも問題はない。だからスポーツイベントの関係者や、団体旅行の宿泊先として選ばれることも多いようである。

 個人的には、オロモウツに住んでいるから当然ではあるけど、レストラン以外は利用したことはない。ただ、知人が利用して、ロビーで話しこんだ際に、忘れてしまったマフラーを取りに戻ったら、受付の人が親切な対応をしてくれたことがある。一度だけ観光ガイドを仕事としてやったときの団体客が泊まっていたのもここだった。このホテルのイベント会場で行なわれる学会に出席するために日本から来たという人とお酒を飲みに行ったこともある。
 ヨーロッパ各地にあるホテルだけに、よその町で利用したことのある人にとっては、買って知ったるホテルで安心して利用できるという面もあるのかもしれない。最近オロモウツに来る日本人の中に利用する人が増えている印象もある。このホテルができたころには、こんな大きなホテルオロモウツでやっていけるのかと心配したものだが、オロモウツを訪れる人の数自体が大きく増えているのだろう。このホテルができてからも新しいホテルがいくつか開業している。

 サッカーの試合のほうは、残念ながらテレビでの中継はなかったのだが、シグマが頑張って0−0で引き分け。これでスラビアは開幕以来17試合で負けなし、14勝に引き分けが3つである。失点がたったの3というのも信じられない数字である。そんなスラビア相手に、最近点が取れないオロモウツが得点など挙げられるわけがなく、前半の最後のほうでスラビアのマソプストが退場になって、後半は一人多い状態だったにもかかわらず引き分けにおわった。今年も上位争いはできそうもない。
 創立百周年で、ブリュックネルが80歳になる年なんだからと、開幕前は期待したし、開幕直後はそんな悪くなかったと思うのだけど、ここしばらく勝てない試合が続いている。順位もずるずると下がって現在10位、久しぶりに昇格してきたチェスケー・ブデヨビツェにも抜かれてしまった。このまえ直接対決でも完敗だったしなあ。
2019年11月24日22時。












2019年11月24日

クリスマスマーケット(十一月廿二日)



 十一月の半ばから出店の準備が始まって、一部の店ではすでに営業を始めていたオロモウツのクリスマスマーケットだが、この週末から公式にオープンするらしい。今日はそれに先立ってホルニー広場の市庁舎の天文時計の前に立てられたクリスマスツリーの装飾の点灯式が行われた。このクリスマスツリーは、毎年オロモウツ地方の山の中から切り出してくるのだけど、オロモウツだけでなく、他の町でも同様のことをしていることを考えると、かなりの数の木が森から消えることになる。環境保護団体あたりがいちゃもんをつけないのが不思議であり、不満である。

 個人の家庭で購入するクリスマスツリー用の木は、最初からその目的で専用の育木場(へんな言い方だけど)で育てられているから、まだましにしても、街の中心の広場に立てられるようなものは、大きさも成長にかかる年数も桁違いである。それを毎年たった4週間のクリスマスマーケットのために切り出し、運び込むのは効率が悪すぎるとは思わないのだろうか。
 チェコは近年針葉樹林がキクイムシに襲われて、多くの木が枯死するという事態が発生している。そんな虫害にやられた木を使用すればリサイクルにならなくはないけど、下手にそれをやると害虫の生息域を広げてしまうことになるし、強風で折れてしまう恐れも健康な木を使うとき以上に大きくなってしまう。

 一時期、毎年毎年クリスマスツリーに使われる木が大きくなっていた時期がある。木を切り出した山の中からプラハやオロモウツまで苦労して運ぶ様子がニュースになることも多かった。それが、強風でクリスマスツリーがぽっきり折れて、マーケットの出店や買い物客に被害が出るという事故が何度か起こり、巨大化競争は終わりを告げた。オロモウツのクリスマスツリーは、今年は特に小ぶりの物になっているが、これは単に市庁舎が改修工事中で、大きなものを立てる場所の余裕がないからに過ぎない。
 大きさが変わらなくなった代わりというわけでもないのだろうけど、最近は装飾の過剰化が進行していて、やりすぎなまでに派手なものが増えている。オロモウツのものも、正直、装飾にスイッチを入れる前の状態の方が風情があっていい。美意識の違いといえばそれまでだけど、クリスマスツリーに取り付けられた電気で光る装飾が明るすぎて、木の変わりに鉄骨かなんかをそれなりの形に組んで、装飾をつけても変わらなさそうである。

 公的な資金を、宗教に期限のある行事に無駄に使っている典型例だと思うのだけど、政教分離にうるさい人はチェコにはいないからなあ。こんな大きな街の無駄に大きく無駄に派手なクリスマスツリーと違って、地方の小さな町のなかには、経済的な事情からか、市庁舎の前や、教会の近くに植えられている背の高い針葉樹に飾りをつけてクリスマスツリーにしているところがある。飾りも電気で光るものよりは、周囲の街灯の光を受けて光るものが多い。
 大きな街でも、広場に木を植えて育てたほうが、森林保護の観点からもいいし、クリスマスマーケットなんて光にあふれているのだから、クリスマスツリー自体が必要以上に光を発する必要はないと思うのだけどなあ。

 クリスマスマーケット自体は、年末の風物詩になっているから、やめてしまえなんて野暮なことを言うつもりはない。ただ年々規模が大きくなっている(ような気がする)のはいい加減にしてほしい。この時期になると、毎年職場への行き帰りが面倒になる。すでにホルニー広場、ドルニー広場に出店が立ち並び始める時点で、広場を思うように歩けなくなる。マーケットが始まったら、朝は準備する人の、夕方は夜と言いたくなる暗さだけど買い物客の合間を縫って歩かなければならない。
 おまけに今年は、うちのほうまで来るトラムがとまっていて、トラムを使って混雑を避ける手もない。トラムの線路ではなく道路の改修工事中なので代替バスさえうちの近くには止まらない。健康のためにマーケットの開かれている広場を避けて歩くぐらいしかできることはない。雪が降り出すまではそれで何とかしよう。

 それにしても、以前はこのクリスマスマーケットの開始を告げるクリスマスツリーの点灯は、12月5日の聖ミクラーシュの日に行なわれていたと思うのだけど、マーケットの期間を長くしろという業者の圧力に負けたのかねえ。ミクラーシュと点灯が重なっていた時期は、混雑がとんでもないことになっていたから、それを避けようとした可能性もあるか。
2019年11月23日21時。











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2019年11月23日

ロビイストという名の詐欺師(十一月廿一日)



 ロビイストというものの存在については、すでに1980年代に、アメリカの政治と日本の政治を比較する新聞記事かなんかで読んだ記憶がある。その記事は、アメリカの政治を称揚して、日本の政治はこのままではいけないと主張していたのだが、どう読んでもロビイストという存在が政治家に寄生する寄生虫のようにしか理解できず、日本のほうがマシじゃないかと思ったんじゃなかったか。いくつかの記事を読んだときの記憶がごちゃ混ぜになっているかもしれないけど。

 そのときは、ロビイストというものの存在を知っただけで、具体的にどんなことをしている、どんな連中なのかというところまでは知らなかった。そしてチェコに来て、ロビイストというものの実態を知ることになるのだが、文字通り政治家に寄生する詐欺師だった。これがアメリカと同じだというつもりはないが、同様の傾向はあるはずである。こんなのを日本にも持ち込もうなんて主張していたやつらは頭がおかしいとしか思えない。
 政治家の側も、ロビイストの存在を悪用して、自らの汚職の罪を他人に擦り付けたり、汚職自体が成立しないようにしたりしているから、合法的に汚職をするためのシステムだという印象も持ってしまう。日本の場合には、例の「秘書が……」という言い訳が出てくるわけだけど、議員と秘書に間には密接な関係がある。それに対してロビイストの場合には、表面上は直接の関係がない。だから発覚しにくいという面がある。日本で政治家の汚職の発覚が多いのはロビイストがいないおかげだと、独断と偏見をもとに断言しておく。

 さて、チェコのロビイストというと、二人の大物の名前が挙がる。プラハの市政、とくに交通局を食い物にしていたイボ・リティク氏と、ロビイストとしての活動よりも、ベトナム人の女性を車で跳ね飛ばして逃走し、政治的な影響力を駆使してなかったことにしようとしたことで知られているロマン・ヤノウシェク氏である。どちらも市民民主党、とくにプラハ市長で疑惑のデパートともいうべきだったパベル・ベーム氏との関係の近い人物である。市民民主党は、この手の過去を何らかの形で清算し限り、バビシュ氏を追い落とすのは難しいだろう。

 同じ市民民主党でも、元首相のトポラーネク氏の側近として活動していたのが、マレク・ダリーク氏である。最初に話題になったのは、トポラーネク氏が、いろいろと疑惑のある実業家の金で、イタリアのどこかにバカンスにでかけたときに同行していたというニュースだったかな。このときはそれほど大きな問題にはなっていなかった。
 次にニュースになったのは、当時アメリカ資本の傘下にあったトラックメーカのタトラに対して、軍用車両を軍で採用するように首相に話を付けてやるから、金を出さないかという交渉を持ちかけたというニュースだった。アメリカの経営陣がこれをばらしたんだったかな。最初は首相の代わりに賄賂を要求したと大騒ぎになったが、トポラーネク氏が関与を否定し、それが認められた結果、どういう経緯で認められたのかは不明だが、詐欺罪で裁判を受けることになった。

 この手のロビイスト、政治家もそうだけど、の特徴として、あれこれ理由を付けて裁判を長引かせ、判決が出てからも、あれこれ理由を付けて収監されるの延期しようとするのだが、このダリーク氏は比較的素直に、裁判を受け収監された印象がある。ひどかったのはヤノウシェク氏で知り合いの医者に診断書を書かせて、何度も収監を延期したり、病気療養名目の仮釈放を求めたりしていた。
 とまれ、ダリーク氏は、2017年に懲役4年か5年の判決を受けて、ズノイモの刑務所に収監された。それが最近、模範囚だということで、刑期の短縮が認められ、半分の2年か2年半で釈放されることになった。刑務所内での行動が模範的で他の囚人たちにいい影響を与えたのなら、釈放に反対する理由はない。おそらく保釈ということで、残りの刑期中に犯罪を犯したら問答無用で再収監ということになるはずだし。

 とここまでは、元犯罪者が見事に更正して社会復帰が認められたいい話だったのだが、それに水を差すような疑惑が漏れてきた。本来チェコの刑務所に収監された人たちは刑務所内で労役にたずさわる。ただ、模範囚など一部の囚人は、刑務所と協力関係にある工場など、刑務所外で労役をすることが認められている。ダリーク氏もこの例外にあたり、ズノイモ市内のペンションで仕事をしていたというのである。
 そのペンションではこれまでも何人かの囚人を受け入れており、そこで労役を果たしたこと自体は大きな問題ではない。問題は、その刑務所外での労役が、ダリーク氏の場合には収監直後から始まっていることと、刑務所の職員の監視がなされていなかったことである。ペンション内ではオーナーが監督の義務を負うという契約になっていたようだが、四六時中監視することができるわけもなく、ダリーク氏がその気になれば、本来は禁止されている電話などを使っての縁者や関係者との連絡も取れたのである。

 さらに問題なのは、刑務所からペンションまで、ダリーク氏は一人で歩いて通勤しており、電話どころか直接の接触も可能だったことである。これはダリーク氏自身が直接的に悪いことをしたというわけではないが、ロビイストとしての影響力を駆使して、自分の労役がザル監視の下で行われるようにしたという疑惑は消せない。一番の問題は刑務所は何を考えてこんなことをしたのかということだけど。
 この疑惑のせいで、ダリーク氏の釈放が撤回されることはないという。ただ法務省ではダリーク氏に刑務所外での労役を許可した経緯などを詳しく調査して、問題がある場合には担当者を処罰し、このような問題が二度と起こらないようにすると言っていた。実効性はあまりないだろうけどさ。

 ちなみに、服役中に刑務所外で労役を務める例は多く、元政治家がサッカーのスタジアムで仕事をしていたり、元サッカー選手がパン屋でパンを焼いていたりする例があるようである。
2019年11月22日17時。




ちょっと修正(2021年1月1日)






2019年11月22日

USBメモリー復活?(十一月廿日)



 昨年末に取扱いに失敗して、読み込みができなくなっていたUSBメモリーは、その後も何度かいくつかのコンピュータで試してみたのだが、どのUSBポートにさしてもうんともすんとも言わなかった。この手の失われたデータを壊れたハードディスクやUSBメモリーからサルベージしてくれるサービスがあるのは知っていたので、どのぐらいお金がかかるのかちょっと調べてみた。
 驚いたのは、意外とお金がかかることで、たしかウン千コルナのオーダーだったと思う。そこまで出して救い上げるほどのものは書いちゃいない。それよりも印象に残っているのは、利用者の体験談というか、感謝の言葉というかが並んでいる中に、詩人の谷川俊太郎のものがあったことだ。そりゃあ、谷川氏の書いた文章なら、いくら出してでも復活させる価値はあるだろうけど、我が文章にはそんなものはない。

 多少価値があるとすれば(自分にとってだよ)、『小右記』の訓読文につけた語注ということになるかなあ。でも時間さえあればまた作り直すことは可能である。実際に何とか少しやる気を取り戻した今年の夏にはちまちまと復旧作業を始めることができたし。モチベーションが上がらなくて全然進まず、途中からは新しい部分の作業に変更することになったけどさ。
 このブログの記事は、文書として記憶媒体に保存されていないのは、寂しさを感じるけど、何を書いたかを確認するには、ワードの文書で探すよりネット上のブログで検索をかけたほうがはるかに速いし便利である。最初の二月分ぐらいはブログの管理画面から、テキストでダウンロードして保存したけど、あれこれ余計な装飾がついていて、面倒くさくて放置してある。

 使えなくなったUSBメモリーも、捨てるにも忍びなくそのまま放置しておいたのだ。職場のPC机の片隅に放り投げて、そこに置いたことも忘れていた。久しぶりに机の上を整理していたら、このもらいもののメモリーが出てきた。コンピューター関連の機器なんて意味不明なことが起こるのが日常茶飯事だからと、半分冗談でUSBポートにさしてみた。そしたらなんと、アクセスを示す緑色のランプが点滅し始めるではないか。自分でやっておきながら驚きのあまり声を挙げそうになってしまった。同僚のいないときでよかった。
 アクセスできるからと言って、中にファイルが生きていて読み込めるということにはならない。心配しつつ見守っていたら、勝手にUSBメモリーのフォルダが開いて、中にいくつかのファイルとフォルダがあることが表示された。適当なファイルをクリックしてみたら何の問題もなく開いてくれた。壊れてもう使えないと思っていたUSBメモリーの復活である。ただ、この復活が何かの間違いという可能性もあるので、中身を全部別のメモリーにコピーした。

 これが何日前だったろう。『小右記』関係の記事をこの前書いたときだから先週かな。それで、今もう一度さしてみたら、またまた何の反応もしない。何もしていないのにどうしてこういうことになるかなあ。とりあえず、コピーしておいてよかった。ふう。まあ、また半年ぐらい放置しておけば使えるようになっているかもしれないけど。とりあえずは、記念品としてモニターの下に置いておこう。
 問題は、一度は消えたと思ってあきらめた記事をどうするかである。愚痴交じりの再現記事を書いたから、今更乗せてもなあという気もするのだけど、比較のために載せておくのも悪くない。どちらもほとんど同じという可能性もあるから、まずはその確認からだな。面倒だから後回しにしよう。いや、今年のクリスマス進行の時期の穴埋めにするという手もあるか。今の自転車操業のままだと乗り切れない可能性が高いし。
2019年11月21日16時。










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2019年11月21日

卅年前のできごと(十一月十九日)



 ビロード革命のきっかけとなった学生デモがプラハで発生したのは、11月17日のことだが、それだけで共産党を権力の座から追い落とすことができたわけではない。プラハでのできごとがテレビなどを通じて広まるにつれ、共産党政権がデモもメディアもコントロールし切れていないことが明らかになり、チェコ各地で反政府のデモや集会が行われるようになっていく。

 何日のことかまでは覚えていないが、炭鉱が多く共産党の牙城とまで言われていたオストラバでは、反政府集会に参加した劇場の俳優たちが中心となって、共産党を支持する炭鉱労働者たちとの話し合いをして、見方につけることに成功したという話がある。我らがオロモウツはというと、学生たちが中心となって、箱の壁という抗議行動を行なっている。
 これはメッセージやスローガンを書いた段ボール箱を積み重ねて壁のようにするというものだが、壁が建てられたのは、共産党のオロモウツ本部の前だった。その建物は現在ではパラツキー大学の法学部の建物になっているのだが、前を通るバス通りが、11月17日通りという名前になっているのに関係がありそうである。チェコのあちこちの町にある11月17日通りは、ビロード革命の後になって解明されたもののはずだ。

 ただ、当時オロモウツには、ソ連軍の駐屯地があって、チェコスロバキア全体で二番目の規模で、都市に接しておかれたものとしては最大のものだったため、1968年の「プラハの春」の際のワルシャワ条約機構軍の侵攻を実際に体験した人の中には、まだ早い、もうちょっと待てと学生たちに自制を求める人もいたらしい。というか当時すでに大学で働いていた、師匠の旦那がその人である。結局ソ連軍は動かずオロモウツの抗議運動が軍隊によって踏みにじられることはなかった。
 ちなみに駐屯ソ連軍の本部が置かれていた建物はジシカ広場にあって、現在ではパラツキー大学の教育学部が入っている。灰色の陰気臭い建物で、改修すればいいのにと思うのだが、最初に立てられたときからその色だったのか、一向に変わる気配もない。その建物の前のマサリク大統領の銅像が立っているところには、スターリンだったかレーニンだったか、ソ連共産党のプロパガンダのための銅像が立っていた。ビロード革命の最中に、撤去され今ではどこかの倉庫の奥に眠っているはずである。鋳潰された可能性もあるけど。

 プラハでは、共産党政権と交渉するための組織、後の市民フォーラムの設立の準備が始まっており、19日には、バーツラフ広場の近くの劇場にハベル大統領を中心に何人かの反政府グループのリーダーたちが集まり、共産党に突きつける条件についての話し合いが行なわれている。ただ、参加予定だった人たちが全員参加できたわけではなく、会場に向かう途中のバーツラフ広場で治安警察に取り押さえられて連行された人も何人かいた。
 この時点では、共産党政権の内部でも、どのように対応するか決めることができていなかったのだろう。このとき治安警察が関係者を無理やり車に乗せて連行する様子が、取材をしていた外国のメディアによって撮影されていて、これがドイツなどの国外で報道され批判されたのも共産党政権が追い詰められていく一助になったはずである。

 ハベルたちの集まった劇場では、舞台の上に反政府グループの中心人物が登り、客席には一般の参加者たちが座っていた。舞台の上と客席とで掛け合いのようにして、条件を話し合い決めて行ったようだ。リーダー達だけで決めるのではなく、一般の参加者たちの意見も十分に反映させたこれぞ民主主義と言ってもいいような決定の仕方である。一般の参加者の中には共産党員だという人もいて、自分は共産党員だけれどもこの運動に賛成するとかなんとか発言している。
 なんでこんなことを書けるかというと、このときビデオカメラを持ち込んでいた人がいて、撮影されたビデオテープが現存しているのだ。それを機会あるごとにチェコテレビがニュースで流すのだが、画面の隅に、権利上の関係なのか何なのか「VHS」というロゴが入っている。ビデオに関しては、旧共産圏も独自規格を作ることはしないで資本主義の発明物に膝をついたのかと、最初に気づいたときには思ったのだけど、チェコで生産されたものだとは断定できないのだった。東側独自のビデオ規格があったわけではないのは確かだけど。

 ということで、「VHS」に対抗した規格はソニーの「ベータ」しかなかったのだ。うちは親戚のおっちゃんが仕事していた電器会社の製品を買ったので、ベータを使っていた。互換性とか、自宅で録画した番組を見るのにしか使っていなかったから、どうでもよかったけど、だんだんビデオテープを扱っているところが減って苦労したような記憶もなくはない。ソニーの製品にこだわる人って、みんなこんな苦労をしているのだろうなあ。と、脱線してしまったところで今日の話はおしまい。
2019年10月20日22時。



眠すぎて更新できないままに寝てしまった。










posted by olomoučan at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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