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2019年11月10日
ベルリンの壁(十一月八日)
我々、1980年代末に高校を卒業して大学に入った世代にとって、ベルリンの壁は戦後の冷戦の象徴であり、その崩壊は冷戦の終わりの象徴だった。だからベルリンに旅行した人が、自ら壁を崩してお土産として持って帰ってきたという話を聞いてうらやましく思ったし、ベルリンの壁の破片をお土産として売るお店があって観光客が自分で崩そうとするのを邪魔してたなんて話を聞いて、ドイツ人の商魂のたくましさにあきれるとともに、日本で言われているほどドイツ人って真面目でお堅いというわけでもないのかと思った。思い返せば、自分の中にあったドイツという偶像が壊れ始めた最初の事件だったのかもしれない。
そのベルリンの壁の崩壊から今年の11月9日でちょうど30年ということで、チェコテレビのニュースでも取り上げられ、ここ何日か毎日のように当時を振り返るニュースが放送されている。8月のプラハの春のときほど多くはないし、これからすぐに、11月17日のビロード革命の発端となるデモの起こった日の特集に取って変わられるのだろうけど、昨日の夜のニュースで今まで知らなかった事実が報道されていて衝撃的だった。
元心情左翼なので、90年代に日本で出版された旧ソ連圏の共産主義諸国崩壊に関する本はあれこれ購入して読んだ。そのおかげで、社会主義の誇る計画経済というものが最初はともかく、大半は計画倒れにおわっていたため、国の経済がほぼ破綻した状態にあり、ゴルバチョフの登場がなくとも、東側諸国は、遅かれ早かれ、崩壊していただろうことは知っていた。ただ、東ドイツの状況がここまでひどく、西ドイツとの間でここまでひどいことをやっていたとは思わなかったというのが、ニュースを見ての感想だった。
一つ目の驚きは、東ドイツが深刻な経済危機にありながら、何とか命脈を保ちえていたのは西ドイツからの借金のおかげだったという話である。公式に共産党によって階級の敵に認定されていたブルジョワの権化西ドイツ政府から支援を受けていたのである。これを人民に対する裏切りといわずして何を言うのか。西ドイツ政府も、当時西側では東側諸国をテロリストを支援する国家として敵視していたはずなのに、裏でつながって支援していたとは。
この西ドイツの、借金という形とはいえ、東ドイツに対する資金援助が行なわれていなかったら、破綻した東ドイツをソ連が支えきれなくなって、ベルリンの壁の崩壊がもう少し早くなった可能性もあるのかもしれない。そうすれば、チェコスロバキアのビロード革命も1988年に起こっていて、チェコ史における8のつく年の伝等に並んでいたかもしれないのである。残念。
そして、東ドイツ政府は、さらなる資金獲得の方法を発明する。それが、人身売買のような、人質をとって身代金をとるような、一国の政府がこんなことをしてもいいのかといいたくなるようなものだった。さすがは諜報機関でテロリストを育てて西側にばら撒いていた国である。東ドイツの求めに応じて金出していたらしい西ドイツもどうかと思うけど。
東ドイツの国民にとって、いくつかあった西側に亡命する方法の一つがベルリンの壁を乗り越えて、西ベルリンに入ることだった。もちろん、厳重に監視が張り巡らされていたから至難の業であったのだろうが、このベルリンの壁を乗り越えての亡命は、検問所を無理やり通り抜けるという話もあったかな、小説や、漫画、映画などさまざまな形で描かれているが、警備隊に銃殺された人もいれば、途中で捕まって強制収容所に放り込まれた人もいるらしい。
東ドイツが目をつけたのは、この国に留まることを望まない亡命に失敗した人たちだった。国にとっても不満分子を国内に抱え込んでおくことは負担だということを考えたのか、西ドイツに取引を持ちかけたらしいのだ。収容された人を西ドイツに引き渡す代わりに、金をよこせと。これを人身売買と見るか、人質に対する身代金と見るか、難しいところである。
短いニュースだったので、一人当たりいくらと決まっていたのか、人によって金額が上下したのかもわからないし、誰を買い取るかを決めていたのが、どちらの国だったのかもわからないのだけど、衝撃的な話だった。東ドイツも誰彼かまわず売っぱらったのではないだろうし、西ドイツとしても引き取る人は選びたがっただろうから、そのつど協議していたと考えるのが自然だろうか。
冷戦の末期、東西ドイツの再合併以前から、現在まで続く西から東への資金援助が行なわれていたのである。東西ドイツが、鉄のカーテンを挟んで、実はずぶずぶの関係だったというのは、ほかにもあれこれありそうだ。
2019年11月8日24時30分