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2019年11月27日
お蔵入り映画の日2(十一月廿五日)
承前
四つ目は、日本ではすでにフランスの作家になってしまったクンデラの同名の小説を映画化した「Žert(冗談)」。完成は、1968年だが、「プラハの春」がワルシャワ条約機構軍に踏みにじられた8月下旬以降のようだ。この作品は1969年に一度は公開されているから、即座にお蔵入りしたわけではない。それが、最終的に禁止された理由は、恐らく原作者で脚本にもかかわっていたクンデラの存在である。
クンデラは、もともとバリバリの共産党員で、第二次世界大戦直後のインテリの若手作家が左翼に傾倒するなんてチェコスロバキアに限らず世界中のどこでも起こったことだが、さらにスターリン主義者でもあったらしい。ただ1968年の「プラハの春」のころにはすでに転向を済ませており、「プラハの春」を秘密警察に頼らない世界初の共産党政権として高く評価し、チェコ人のソ連軍の弾圧に対する抵抗運動を、チェコ民族のフス以来の抵抗の歴史の中に位置づけた上で、チェコ人ほど他民族の圧政に対して抵抗してきた民族はいないなんて発言を残しているらしい。
こんな発言を、スターリン主義の時代にやっていたら、正常化を主導したスロバキア人のフサーク同様、民族主義者のレッテルを張られて投獄されていたはずである。個人的にはこういうクンデラのほうが、小難しい小説理論を書くクンデラよりも、親近感を持ちやすいのだけど。もちろん正常化の時代のフサーク政権にとっても歓迎できることではなく、クンデラは作品の発表の場を失っていくのだが、同時にこの映画の放送も禁止されたと考えておく。
1975年にクンデラが、フランスの大学の招聘に応えて、チェコスロバキアを出た時点では亡命ではなかったようだが、その3年後にチェコスロバキアの国籍を剥奪される。一般の亡命者が国を捨てたのに対して、クンデラは国に捨てられたのである。その捨てられたという意識が、クンデラをしてチェコへの帰国、チェコ国籍の再取得を拒否せしめているのかもしれない。
五つ目の禁じられた作品は、『火葬人』というタイトルで原作の日本語訳も出版されている「Spalovač mrtvol」。直訳すると「死体を焼く者」ということになる。火葬場で仕事をしている主人公を、チェコ最高の名優ルドルフ・フルシンスキーが怪しさたっぷりに演じきった作品で、チェコ映画の中でこれが一番好きだというチェコ人も多い。猟奇的な殺人犯人を主人公とする映画のようなので、現時点では手を出しかねている。
完成したのは1968年だが、公開されたのは翌年の1969年。公開直後に、上映禁止となってお蔵入りしてしまった。チェコ語版のウィキペディアによると、公的な禁止の理由は内容があまりにも病的だというものだったらしい。フルシンスキー演じる殺人犯が病的だったのは確かだけれども、そんな理由で禁止していたら、ホラーとかスリラーなんてジャンルの映画は軒並み禁止になってしまう。
実際には、映画の時代背景が、1930年代末のボヘミア・モラビア保護領の成立した時代で、主人公たちが、ナチスの支持者に変わっていくのが、1969年当時のチェコスロバキアの状況をなぞっているように思われ、禁止されたのだという。当時は、「プラハの春」を支持していたはずの共産党の指導部が、軍隊の侵攻を受けて変節し、ソ連の指導の下でいわゆる「正常化」に向かっていたわけだから、言われてみれば納得できなくもない。
このウィキペディアの記事を見つけるまでは、重要な役を演じているブラスタ・フラモストバーの存在が、禁止につながったのかと思っていた。この人も、憲章77に署名したことで演劇の世界から追放されて、ビロード革命後に復帰している。秘密警察に協力を強要されたけれども、密告したのは自分のことだけなんて話もあったなあ。とにかく「プラハの春」が弾圧されて以後も、体制に抵抗し続けた数少ないチェコ人の一人であった。10月の始めに92歳で亡くなったばかりである。
今回はチラ見をしながら、最後の部分だけはあるていど集中して見た。見たんだけど、気が付いたら死体が増えていて、棺桶の中に収められているという印象しか残っていない。フルシンスキーの嬉しそうな顔も夢に出てきそうと言えば出てきそうか。チェコの人は、例外を除くと、これをコメディーとしてみるらしいのだけど、ちょっと無理だなあ。
監督はスロバキア出身のユライ・ヘルツ。
六本目は「Ucho(耳)」。他の作品が見たことはなくても題名だけは聞いたことがあったのに対して、これは存在すら知らなかった。主役のペア、夫婦かもを演じているのは、ブルゾボハティーとボフダロバーという共産主義の時代から活躍する二人。チラ見した限りでは、共産党政権内の権力闘争を描いた作品のようだった。
ブルゾボハティー演ずる男は、失脚寸前の高官なのかな。これまでやってきた悪事の証拠になりそうな書類を夜中にトイレで焼いている間に、その書類に関わる過去の出来事を回想するという形で話が進む。ながら見だったせいか、途中で現実なのか回想なのかわからなくなることも多かったが、共産党体制下ではしばしば投獄、もしくは死を意味した失脚を恐れる気持ちは読み取れたような気がする。
完成したのが1970年で、即座にお蔵入りが決まったようだから、党内の権力闘争を描いたところが問題にされたのだろう。全体主義体制下の権力闘争というのは、薄氷を踏むようなものだったのだ。それを描き出した作品の上映を許可することが、自らの失脚につながりかねないと考えると、許可を出せる人はいなかったのだろう。
監督は「ノバー・ブルナ」を代表する監督の一人カレル・カヒニャ。オタ・パベルの原作を映画化した「黄金のウナギ」と「美しき鹿の死」あたりは、日本でも知っている人がいるかもしれない。
終わらなかったのでまた明日。
2019年11月26日17時。
タグ:映画