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2021年03月29日

夏時間の憂鬱(三月廿六日)



 あまり覚えていないけれども、チェコに来て一年目は、夏時間が終わるのも、始まるのも、どちらも最初の経験で、それを辛いと思った記憶はない。しかし、目新しさが消えると、全く歓迎できないものになった。秋の夏時間の終わりはともかく、春の始まりに関しては夜が一時間、つまりは睡眠時間が一時間短くなるわけで、この時期の体調不良の原因になっていた。
 それがここ数年、夏時間の廃止がEUの議題に上るようになり、実現も近いと思われていたのだが、最後の一歩が遠い。気が遠くなるほど遠い。本来なら二年前、遅くとも去年には、夏時間と、標準人のどちらを一年中使うかが決定され、時間の変更のない生活が訪れているはずだったのだが、イギリスとEUが、離脱の手続きをまともに進められない醜態をさらし、中国から輸出されたウイルス対策に忙殺された結果、話し合いが行われず、また一年夏時間が使われることになってしまった。

 それでも、去年は自宅監禁生活の衝撃が大きく、直前まで夏時間になることを忘れていたし、職場に出ることを禁止されていて、無理して急に起床時間を一時間早める必要もなかったから、大きな影響はなかったような気がする。体調不良にならなかったという意味ではなく、自宅監禁生活に比べたら、影響は小さかったということである。
 今年も、職場が指定する検査を受けられず、在宅勤務、すなわち自宅監禁生活を余儀なくされ、その対応でどたばたしていて夏時間のことはすっかり忘れていたのだが、思い出すとうんざりだという気分を拭い去ることはできない。今年は自宅監禁生活になれた分だけ、夏時間の体調に与える影響が大きくなるような気がする。いやはや憂鬱なことである。

 それにしても、国全体の時計を一時間、進めたり戻したりするなんて手間のかかることを誰が考え出して実行したのだろう。必要なところだけが、夏の間だけ始業時間を一時間早めるぐらいにしておいてくれれば、すぐにでもそんな企業や役所はなくなっていただろうと思うのだけど、国全体、いやヨーロッパ全体で導入したものだから、簡単に廃止もできなくなったのだ。全く持って迷惑な話である。
 まだ夏時間も始まっていないというのに、明日の夜中に始まるかと思うと、頭がくらくらするような気がする。ということは、精神的なものなのだろうか。憂鬱だと筆も進まなくなるので、短いけど、今日はこの辺でお仕舞い。
2021年3月27日24時。








posted by olomoučan at 07:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2021年03月27日

陰謀論に組みしてみよう(三月廿四日)



 世の中には、2011年の東日本大震災の原因は米軍の新兵器の実験だとか、放射線量をゼロベクレルにしなければ安全だとはいえないとか、ちょっと考えればありえないことがわかる、頭が悪いとしか言いようのない言説が飛び交うことがある。今回の武漢風邪の大流行に関しても、中国が生物兵器として開発していた人口のウイルスだとか、中国ではすでに2019年の夏にはワクチンの政策が始まっていたとか、震災のときの話よりは、ありえそうな話である。

 中国に対して強硬な姿勢をとり始めていたアメリカのトランプ大統領の再選を阻止し、それに追随した安倍総理大臣を健康問題で辞任に追い込めたのだから、この大流行は中国にとって追い風だったのは間違いなかろう。ただ、流行当初の混乱振りを見ると、意図的にウイルスをもらしたようには見えない。もちろん、その疑いを消すために、あえて混乱しているふりをした可能性もあるけれども、生物兵器というには、今回のウイルスは性能が物足りない。
 敵性国家の国力を下げたいのであれば、犠牲者になるのは、高齢者ではなくて、若者にしなければならないはずだ。100年前のスペイン風邪は、2年目に入って変異が起こって、20代から30代の労働の中核をになう世代の犠牲が増えたなんて話も聞いたことがあるけれども、今回もそんな都合のいい変異が自然に起こるとは限らない。

 ということで、以下は、妄想である。仮にこのウイルスが中国が人工的に作り出したものだというのが事実だったとして、どんな目的のために作り出した可能性があるのかということを、考えてみようというお話である。外に出したのが意図的だったのか、事故だったのかということは考えないことにする。
 最初に思いつくのは、多分誰でも思いつくだろうけど、中国なりの高齢化対策の切り札だったのではないかということだ。感染させては困る高齢の要人にはワクチンを接種しておいて、排除したい人にはワクチンと称して別のものを注射することもできるし、その上で、ウイルスを広げることで、自然に高齢者の人口が減っていくように見える。誤算があるとすれば、若い人の犠牲も出てしまったことだろうか。病気を抱えている人の中に犠牲者が多かったのは、医療費削減の観点から、狙ったものであろう。

 そして、仮にウイルスの感染症の犠牲者をある程度制御できる技術があるとしたら、中国のウイルス開発がこんなところで終わるはずがない。現在、ウイグル人に対する人権侵害で、世界中から批判を、人権侵害の度合いに比べれば軽いものだけど、批判を受けている。国内の少数民族に対する人権侵害なんて、少数民族がいなくなれば成立しないものだ。それで中国が行っている政策の一つが、中国への同化政策、ウイグル人の中国人化政策である。ただそれがまたウイグルの民族性、文化を破壊するものとして批判されている。
 ならば、少数民族が感染しやく重症化し死に至りやすいウイルスの開発をしていたとしても不思議はない。たまたま反体制派の少数民族の居住地域で悪質な感染症が発生したなんて体裁を作れれば、憶測はされても正面から批判されることはなかろう。いや、反体制派がウイルスを開発したとして責任を押し付けることも、信じられるかどうかはともかくとして、可能になる。

 さらに、いや、これ以上の妄想はやめておこう。中国にそこまでのウイルス改変技術があるとは思いたくないし、ただ、中国という国は、一般の人々を数としてしか見てなかった共産主義国家の生き残りであり、歴史的に見れば、食糧不足のときには、人間の数を減らせばいいといわんばかりの対応を取る王朝もあったところである。自国民を犠牲にしながら、これぐらいの事はやりかねないような気もする。
2021年3月25日24時





夏の災厄 (角川文庫)











posted by olomoučan at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2021年03月26日

政治とスポーツ(三月廿三日)



 EUが、経済優先という言い訳で看過し続けていた、中国政府によるウイグル人に対する人権侵害に関して、経済制裁、とはいっても個人を対象にしたもので、ロシアに対するのと比べればあってないような制裁だけれども、とにかく制度的な人権侵害の存在を認定して制裁を科すことを決定した。アメリカ、カナダも追随したんだったかな。香港の民主化弾圧や、台湾に対する長期にわたる圧迫などを考えると遅すぎるという気もするが、これで中国は、中国政府がなんといおうと、世界が認める人権侵害国家となったわけだ。

 ヨーロッパで人権侵害国家とみなされているのは、ベラルーシである。ルカシェンコ大統領のやっていることが、ロシアのプーチン大統領と比べてどうなのかというのは、よくわからないが、石油を握っているロシアに対しては、経済制裁をするといっても腰の引けたものになるEUも、そんな制約のないベラルーシに対しては強気の制裁を続けていて、東の外れとはいえヨーロッパの一部なのに、政治的には村八分状態に置かれている。以前、確かプラハで行われたヨーロッパ諸国を集めて行われた会議に、ベラルーシだけが独裁政権であることを理由に招かれていなかった。
 ロシアは正式にだったか、オブザーバーだったか忘れたけれども招待されて参加していて、それに不満なウクライナの反ロシアのグループが、腐った卵だったかトマトだったかをロシアの代表に投げつけるという事件を起していた。とにかくベラルーシは、かなり前から政治的には、悪い意味で特別扱いを受けていたわけだ。

 それに対して、スポーツの世界では、スポーツに政治は持ち込まないという、オリンピックの理念を名目にして、ベラルーシの選手やチームはこれまで通り国際大会に参加し続けている。それだけではなく国際大会の開催も禁止されておらず、今年のアイスホッケーの世界選手権は、ベラルーシとラトビアで共同開催されることになっていた。
 それが、昨年の大統領選挙を巡る不正、反体制派に対する弾圧などに不満なヨーロッパの人権派の人たちが、ベラルーシの反体制派の求めに応じて、大会のスポンサーに圧力をかけて、ベラルーシでの開催を拒否させようという運動を始めた。その動きに、スポンサーのシュコダ社が乗って、主催者のIIHFに、ベラルーシで開催するならスポンサーを降りるという通告をした。その結果IIHFは、ベラルーシから開催権を剥奪し、最終的にはラトビア単独での開催ということになった。

 一応安全上の理由という名目上の理由は立てられているが、この開催地の変更は政治的な決断であることは否定できまい。アイスホッケーの世界選手権が、反体制派を支援する人たちに政治的に利用されると同時に、アイスホッケー協会、ひいてはスポーツがベラルーシの国内政治に口を出したことになる。いや、ヨーロッパの良識派たちがスポーツを通して口を出したというほうが正しいか。
 このことの是非を云々するつもりはないが、スポーツに政治を持ち込まないということは、逆に言えばスポーツが政治に口を挟まない、スポーツを政治的に利用しないということでもあったはずだ。その理念を破る前例がここに生まれたわけである。ならば、人権を守ることを第一義として活動している人たちに、次に期待されるのは、人権侵害のひどさではベラルーシどころではない中国で行なわれる国際大会の開催地変更を訴えることだろう。

 当然、オリンピックもその対象になるから、IOCのオフィシャルスポンサーなんかに対して不買運動を展開して、北京オリンピックの開催中止を求めなければならない。本気で世界から人権侵害をなくそうと考えているのなら、それぐらいのことは期待してもいいよなあ。やってくれたら、この手の正論好きの人のことを見直してもいいのだけど実現はしないだろうなあ。親玉のEU自体が中国に対しては、経済的なことを考えて及び腰だしさ。
 東京、北京と中止になれば、オリンピックを開催し続ける意味があるのかという議論も巻き起こるのだろうけど、何があっても惰性で次の大会が行われ続けるということになりそうだ。うーん、うまく落としどころを見つけられなかった。
2021年3月24日24時30分










posted by olomoučan at 08:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2021年03月20日

キラキラネーム(三月十七日)



 ヤフーでこんな記事を見つけて読んでしまった(リンク先はヤフーではなく出稿元のもの)。ユーチューバーなるものには全く興味はないのだが、名前の付け方、漢字の読ませ方は気になるところである。記事では、読みにくい名前全体を問題にしているようだが、難読の名前でも読み方を聞いて納得できるものと、納得できないものがある。いわゆるキラキラネームは、後者の読み方が納得のできないものを指すのだろう。確か呉智英が「暴走万葉仮名」と名付けていたのがこれだと思う。

 ヤフーのコメント欄にもいろいろ自分の体験を書いている人がいたけれども、以前に比べると、小説の中なんかでも、漫画の登場人物じゃないんだからと言いたくなるような名前が増えているような気がする。芸能界なんかだと以前からその手の名前をたまに見かけることがあったことを考えると、親の自己顕示欲が子供の名前に現れたと考えるのがいいのだろうか。子供にとってはたまったものではないだろうけれども。
 この手の当て字の名前を全て否定する気はない。森鴎外の子供たちの名前のように、外国語の名前に漢字を当てて付けられた名前でも、漢字の読み方が納得できるものであれば、特に気にはならない。一般的な音読み訓読みが組み合わされたものであれば、文句はないのだ。しかも鴎外の子供の場合には、名前の音自体が、「オト」とか「マリ」とか、日本語に存在する音の並びであることも、違和感を持てない理由になっている。「マクス」はどうかなと思わなくもないけど、「真樟」という字を見るとあってもおかしくない気がしてくるから、鴎外はやはり流石である。

 最近のこの手の当て字名前の中で、個人的に読ませ方が気になるのは「心」だろうか。この字を名前で使うこと自体が以前は一般的ではなかったと思うのだが、一字名で「こころ」と読ませるものならまだ納得がいく。名前ではなく号のようにも聞こえるけど、「○心」で音読みの「しん」を使うのも理解できる。だけど、いくつかの小説の登場人物の中には「ここ」とか「こ」とか読ませているものがあって、それだけで登場人物の魅力が失われるような気がした。ギャグ漫画なら何でもありだけど、真面目な話で重要な登場人物がこんな名前だとついていけなくなる。
 もちろん、「心」よりもはるかにひどいのはいくらでもある。しかし、そんなのは脳が受け入れるのを拒否するので、覚えていないのである。つまり文章に取り上げることもできない。幸いにして、外国にいるおかげで、そういう名前の人と個人的には会う機会はないのだけど、会ったときにどんな反応をすればいいのか悩んでしまう。名字なら、読めなければ聞けばいいし、というよりは、いくつか読み方が考えられる場合には、聞いておかないと困ったことになる。「やまざき」と「やまさき」、「なかだ」と「なかた」など、どちらで読むかこだわっている人も多いしさ。

 また、例によって枕が長くなってしまったのだが、チェコ語には、この手のキラキラネームのようなものはないのかと言うと、なくはないのである。漢字がないので当て字のひどい名前というのはないのだが、チェコ語の名前の体系から完全に外れた名前を付けようとする親がいるのである。チェコではカレンダーのそれぞれの日の下に、その日の聖人の名前が書かれている。一般にはその名前の中から子供の名前を選ぶのだが、外国の有名人やドラマの登場人物の名前を子供につけて喜んでいる親もいるんだとかつて師匠が愚痴っていた。
 その名前が英語起源、ドイツ語起源の名前なら、国際化の名の下にあまり問題にされることはない。以前は名前も翻訳していたので、チェコ語で使う名前と、ドイツ語で使う名前が違うなんてこともよくあったのだが、最近は普通に英語っぽい名前、ドイツ語っぽい名前を使っている人も多い。ただ普段は、その名前のチェコ語形から作られたあだ名で呼ばれることが多いだろうけど。

 問題は、ラテンアメリカあたりのテレノベラとよばれる安っぽいつくりのドラマの主人公の名前を付けられた子供たちで、師匠が教えてくれたのは、エスメラーダだったかな。こんなのチェコ語のバージョンも存在しないし、チェコ語の中では浮いてしまって子供がかわいそうだと言っていた。
 最近は、日本語のできる知り合いが、チェコの役所から「キララ」とかいう名前をつけたいという親がいるんだけどという相談を受けて、日本語の名前としてどうなのという質問がこちらにまで回ってくるなんてことがあった。漫画かなんかの登場人物の名前なんだろうけど、とりあえず普通の名前ではないよと答えておいた。それにしても、男の子だったのだろうか、女の子だったのだろうか。命名が認められたのだろうか。
2021年3月18日20時30分。









posted by olomoučan at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2021年03月18日

ピルスネル、お前もか(三月十五日)



 いつの頃からだっただろうか。もらった名刺に「再生紙を使用しています」なんて文句が印刷されるようになった。それで私たちの会社は森林の保護に力を入れていますよとアピールしようとしていたのだろうけど、それなら名刺自体を廃止するなり、配る数を減らすなりしたほうがはるかにましだろうにと思ってしまった。いや、名刺を再生紙で作ること自体に文句をつけるつもりはない。ただ、それを自慢げに名詞に刷りこむ感性が理解できなかったのだ。
 この手の、自分の正しさを声高に主張する(少なくともそのように感じられる)行為には正直な話、嫌悪感を覚えてしまう。かつて割り箸が森林破壊の原因として槍玉に挙げられていたころに、自前の箸を持ち歩くことを自慢していた連中にも、同じように黙ってやれよと思ったものである。最近なら、ちょっと前に流行った、チャーチルなど歴史上の偉人を、人種差別主義者だったとして糾弾するブームにも、自分は人種差別主義者ではないと弁護するための行動としか思えず、騒いでいる連中こそが人種差別主義者なんじゃないかとさえ感じたものだ。

 だから、自分の正しさを疑うことを知らないくせに、つねに自分の正しさを確認したがり、その正しさを大声で自慢したがる連中とは、できればお近づきにはなりたくないのだが、困ったことにチェコ最高のビール会社であるピルスナー・ウルクエルまでが、世界的な流行に巻き込まれてしまった。チェコのビール業界は、世界的な流行には背を向けてわが道を行くのが素晴らしいところだったのに、アサヒに買収されたのが原因だろうか。
 テレビを見ていたら、みょうちくりんなピルスナーのコマーシャルが流れたのだ。その詳細と考えはこちらのページを見ていただきたいのだが、自然保護の観点から、ビール瓶のラベルなどを変更したというのである。自然保護などとおためごかしなことは言わずに、デザインを変更したとだけ発表すればよかったのに、興ざめとしか言いようがない。

 変更点は、まず瓶の上部の細くなっている部分から王冠まで包むように貼られていた金色のアルミ箔を廃止して、紙のものに変えたこと。これで年間48トンものアルミを節約できると自慢している。またアルミ箔がなくなることで、洗浄の際にはがれるラベルが全て紙製のものになり、まとめてリサイクルに回せるともいうのだけど、色と糊の付いた紙ごみを資源として再利用するのにどれだけの環境コストがかかるのだろうか。
 王冠は、ネックラベルのデザインの変更でむき出しになり、樽作りを象徴するデザインに変えられているだけで、瓶の下部の中心となるラベルには、再生紙を使用すると主張するいう名刺の愚を犯している。そのラベルの上にあった小さなラベルは廃止され、工場の門をデザイン化したものなどが瓶に直接描き込まれることになっている。

 こんな中途半端なことをするぐらいなら、王冠は仕方がないにしても、ラベルは、原材料等を表示するものを除いて、全部廃止すればよかったのにと思う。瓶は回収して再利用されるわけだから、外側にラベルが貼られていることは、洗浄のための手間、何よりも必要な水の量が増えることを意味する。世界的な水不足も叫ばれる現在、ペットボトルに直接印刷して使い捨てにするのと、瓶を回収して洗浄して再利用するのと、トータルで環境にかかる負荷はどのぐらい違うのだろうか。いずれにしても、ラベルがないほうが負荷が軽くなるのは言うまでもない。
 ヨーロッパ流の環境保護の議論で、不満でならないのは、部分的な個々の環境負荷については取り上げられても、例えば使用中だけでなく、生産から破棄された後の処理までにかかる全体的な環境負荷についてはほとんど話題にならないところである。肥沃な畑をつぶして太陽光発電とか、食用作物をバイオ燃料用の作物に転換するとか、全体的に考えると全体的な状況の改善にはあまりつながらないような気がするのだけど、具体的な数値を出して説明してくれないものだろうか。

 そう考えると、緑色の瓶にラベルが貼られていなかったハートランドビールは、時代をはるかに先取りしていたのだなあ。専用の瓶を使用して、ラベルの代わりに直接瓶に意匠を描きこむというのは、昔のやり方で、逆に先祖がえりだったという可能性もあるけれども、それならそれで、温故知新という言葉できれいにまとめることができるだろ。
2021年3月16日22時30分。










posted by olomoučan at 07:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2021年01月06日

日本大丈夫か(正月三日)



 箱根駅伝の結果を伝える記事を読んでいたら、沿道に観客が並んでいるのを非難するような報道が目に付いた。特に高齢者が多いことを咎める声が大きいようだけれども、老い先短い人たちが冥土の土産に年に一度の楽しみの駅伝を観戦することまで、攻撃の対象にするなんて、日本人の非寛容性も、また一段とエスカレートした感じである。沿道で応援するお年寄りを口汚く罵る連中がみんな外出を自粛しているとも思えないし、マスコミも含めて自分のことは棚に挙げて批判しているに違いない。

 恐らく、一番問題なのはマスコミの報道のあり方で、必要以上に人が外に出ることの危険性を強調し、恐怖を煽るのがいけない。事実をして語らしめるというか、チェコですら簡単に手に入る実際の感染状況の危険度を示す数字は出てこず、陽性と判定された人の数だけを元に、危険だ危険だと騒いでいるだけのようにしか見えないのが日本の報道である。
 感染状況を判断する際に、重要なのは検査での陽性者の数ではなく、症状が出て入院する必要のある人の数と割合であり、重症化して集中治療を受けている人の数と割合である。またどんな規準で入院と自宅療養を分けているのかという情報も必要になるし、検査における陽性者の割合も重要なはずだ。これらの情報なしに、感染状況が悪化しているといわれても、どこまで信じていいものやらわからない。

 医療が逼迫しているという記事も目にするが、残念ながら具体的な数値は目にしたことがない。日本全体にどれだけ入院のための病床があって、そのうちのいくつが武漢風邪の患者用に振り分けられていて、どのぐらいふさがっているのかなどの情報なしに医療の逼迫を語られてもなあ。チェコでは流行が拡大した時期に、大き目の病院の本来は感染症とは関係ない科を閉鎖して、武漢風邪専用の病棟に改装することで増やされたものも含めて専用の病床の総数を出し、そのうちいくつ空いているのかすぐわかるし、地方ごとのデータもあって逼迫の具体的な状況がわかるようになっている。
 もちろん、人的な意味で逼迫しているというなら、通常業務に加えて検査の業務が加わっているわけだから、病院の仕事が増えているのは言うまでもない。また、医療関係者が感染したり、隔離を余儀なくされることで人手不足に陥る可能性もあるが、現時点で一体どれぐらいの医療関係者が、仕事にかかわれなくなっているのかという情報も見たことがない。多いとか増えているとか当たり前のことでお茶を濁すのは報道する側の怠慢である。新たに感染する人もいれば快復する人もいるわけで、数字は日々変化しているはずである。

 そして、武漢風邪の流行が本当に危険なのかどうかを示す数字、例年と比べて死者の数が増えているのかどうかという情報も日本の報道では見たことがない。チェコでは、春の流行期には例年と変わらないか、少し少ないかだったようだが、秋の大流行が始まってからは死者の数が急増し、10月11月は例年の2倍以上になっているというデータが出ている。それは武漢風邪関係の死者だけで増えているのではなく、病院が一般の患者の受入を停止したことや、病院に行くことを避ける人が増えたことなども原因となっているらしい。

 こういう具体的なデータがあれば、医療が逼迫しているというか、崩壊寸前だといわれても十分納得がいくし、検査における陽性者率が50パーセントを越える日もあるチェコの感染状況がやばいことになっているというのにも異論はない。だからといって、非常事態宣言が続くのには賛成しかねるし、現在の厳しい規制に関しても、そこまで必要かという疑念を消すことはできない。
 チェコではニュースで感染状況や医療の状況が報道されるたびに、この手の具体的な数値が提示されるのだが、日本でもそうなっているのだろうか。ネット上の記事を読む限りではそうは見えないのだけど。

 日本で非常事態宣言を求める声が上がっているのも、正直理解に苦しむ。非常事態宣言なんて、行政上必要な手続きを簡略化することを可能にするものである。つまりは政府にフリーハンドを与えるようなものだということがわかっているのだろうか。
 チェコでも他のヨーロッパの国でも、感染対策の規制を自由を侵害するものだとして抗議するデモが行われている。その自由の侵害を憲法上理論的には可能にするのが非常事態宣言なんだけどねえ。日本では、普段は政府のやり口を権力の濫用だと批判している連中が、非常事態宣言を求めるのだから意味不明である。

 命が一番大切だというのは、真実ではあるのだろうが、乱発すべき言葉でもあるまい。国民の命を守るということが感染症の拡大を防ぐために、人々の自由を侵害することとイコールで結びつくわけでもない。いや、経済活動の停止によって職を失い貧困に陥る人も多いだろうことを考えると、感染対策を強化することによって失われる命もあるはずだ。そう考えると日本では「命が一番大切だ」とか、「命を守る」という言葉が軽く使われすぎている気がしてならない。チェコもバビシュ首相が乱発して誰も気にしなくなっているような気がするけど。
2021年1月4日21時。










posted by olomoučan at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年11月08日

アメリカ大統領選挙(十一月五日)



 世界中が注目するアメリカの大統領選挙の開票作業が始まったものの、予想通りまだ終わらない。チェコテレビでも火曜日の夜から選挙特別報道として夜を徹して開票の様子を伝えていたが、朝になっても結果が出ないのは明らかだというのに、徹夜して番組を見続けていた人も多いようだ。やはりチェコ人って選挙が好きだよなあ。
 それはともかく、1980年代に初めてアメリカの大統領選挙を見たときから疑問に思っているのは、何でアメリカではこんなややこしい方法で大統領の選挙が行なわれるのだろうということである。今でも覚えているのは、初めてアメリカの大統領選挙について、テレビで見たときに、アメリカでは大統領を直接選ぶのではなく、選挙人という大統領を選挙する権利を持っている人を選ぶのだという説明である。

 その時はへえと思ったのだが、同時に、選挙人の選挙の後選挙人が大統領を選ぶ選挙が行なわれるものと思っていたらそんなことはなかった。選挙人はどちらの候補者に投票するか事前に表明しているから、わざわざ選挙人による投票をする必要はないのだという説明があっただろうか。それでも、選挙の結果、一つの州の選挙人は必ず一人の候補者を選ぶ選挙人しか当選しないのは理解できなかった。
 選挙人に投票して、得票数の多いほうから当選者を決めていくのであれば、得票数によって順番がつけられ、上から当選者が決まっていくはずである。その場合、当選者がどちらかの候補者の選挙人だけということはありえない。結局、選挙人を選ぶ選挙というのは、建前、もしくはまやかしであって、その実態は候補者による州を対象とした陣取り合戦だということを理解したのは、かなり時間が経ってからのことだった。うちのは、西部開拓時代に作られた制度を後生大事に使い続けているだけだと言っている。

 それはともかく、その後、大統領選挙で投票したい人は、有権者登録というものをしなければ行けないという話を聞いて驚いた。日本なんて、チェコもだけど、住民登録さえしてあれば、住民票のある自治体の有権者として認定されて、何もしなくても選挙の案内が届くのと比べると、有権者に対して不親切な制度である。
 アメリカ人というと、自分の義務は棚に挙げて、権利権利とうるさい人たちだという印象があるのだが、権利の一つである選挙権を行使するのに、余計な手間がかかる制度を許容しているのが不思議だった。権利にうるさいからこそ、自分の権利は自分で守れとか、権利を行使したければ、そのための行動を取れということなのだろうか。

 今回の選挙では、郵送による投票の数が多いことがニュースになっていたが、これも疑念の対象になる。選挙の際には普通に行われるはずの本人確認に関して、どのようにして行なっているのか、そもそも実施しているのかどうかさえわからなかった。こんな適当さなら、有権者登録の際にもあまり細かい確認はしていないのではないかとさえ疑ってしまう。
 トランプ大統領の肩を持つ気はないが、チェコでこのレベルの投票システムだったら、不正はやりたい放題だろうなあと思ってしまう。大統領も前回の選挙の経験があるのだから、選挙のやり方、特に郵送での投票や期日前投票という問題になりそうな部分の改正をすればよかったのに。そうしていれば、今の不正投票だという主張に多少は説得力があったはずである。

 とまれ、アメリカの大統領選挙に関しては、以前も、どこかの州で表の数え直しがあった結果、勝敗が変わったとか、後で確認したら本当の勝敗は逆だったけど、就任してしまったから仕方がないなんて、真偽も定かではない話を聞いたことがあるが、アメリカの有権者はこの選挙制度に満足しているのだろうか。政党内の候補者選びから始まる大統領選挙を、エンターテイメントのイベントのように捕らえている人が多いのかもしれない。選挙中、選挙後の舌戦も含めて楽しんでしまうということか。流石は娯楽の国アメリカである。今回の娯楽イベントは、トランプ大統領が裁判とか言っているから、いつもより長引きそうだし、アメリカの人たちも満足できることだろう。
2020年11月6日12時。











posted by olomoučan at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年10月21日

科学アカデミー(十月十八日)



 またまた学術会議、いや学術会議を巡る報道の話になるのだが、まとめてやつけてしまう。だって、単なる諮問機関でしかない、国民のほとんどが存在すら知らなかった学術会議のことを、外国の科学アカデミーに相当するとかいう、思わず、目を疑ってしまうような報道、誰の発言だったか忘れたけど、があったんだよ。それはチェコの科学アカデミーに失礼すぎる。

 チェコの科学アカデミーは、諮問機関などではなく、理系から文系にまたがるあらゆる分野をカバーする研究機関である。研究分野ごとにいくつかのセクションに分かれており、研究者たちは傘下に設立されたそれぞれの研究所に属して基礎研究を中心とした研究活動を行っている。所属する研究者の数は、数千人にのぼる。
 北海道大学のスラブ研究所や、東京大学の史料編纂所のように、独自の教授、准教授などを擁しているが、違いは他の大学に属していないという点で、言ってみれば、大学から教育機関の側面を排除して、研究機関としての役割に特化させたような組織と言ってもいい。その意味では研究分野は限定され、規模も小さいけど、日本の日文研なら似ていると言われても腹は立たない。実際にはその日文研のような研究機関をいくつもまとめて統括するのが科学アカデミーである。

 外国の研究機関との共同事業も行っているし、外国から期間を定めて研究者を招聘することもあるし、逆に送り出すこともある。学会などのイベントの主宰もするが、この辺もすべて普通の大学でも行っていることである。ただし、科学アカデミーには学生が存在しないので、授業は行われないが、所属する研究者が、他の大学に求められて非常勤の形で授業を持つことはある。研究成果の社会への還元は行っているのである。
 同時に、まだ学者としての地位を確立できていない若手の有能な研究者を、研究員として採用して育成している。大学の講師が授業や、学内の雑務で研究の時間がなかなか取れないことを考えると、研究環境としてはこちらの方が上かもしれない。ただし、採用されるのはなかなか難しく、研究分野ごとに定員が決まっていて、欠員が出た場合に、公募で採用を決めるんだったか、契約期間内の研究業績で次の契約が決まるなんてのもあったかな。准教授、教授への昇進の条件も大学とほぼ同じで、教授は審査に通れば、大統領によって任命されることになっている。

 知名度も、学術会議とは雲泥の差で、大学教育を受けた人であれば、その存在を認識しているはずだし、ニュースで説明なしで科学アカデミーという言葉を使っても、ほとんどの人が何を指しているのか理解できるレベルにある。だからこそ、2018年の大統領選挙において、個人としてはまったくといっていいほど知名度のなかったドラホシュ氏が、元科学アカデミー所長という肩書きの知名度のおかげで、一躍ゼマン大統領の対抗馬にのし上がることが出来たのである。
 こういうチェコの科学アカデミーと、大学の教授たちが任命されるらしい日本の学術会議が似ても似つかない存在であることは言うまでもない。同時に科学アカデミーに相当する存在というのが、ありえない発言であることも、納得されよう。それとも、チェコ以外の国の科学アカデミーは、日本の学術会議的なのか? そんなアカデミーなんて必要ないと思うけど。

 それから、首相を擁護して学術会議を否定しようとする人たちの中には、外国の科学アカデミーは寄付に頼って運用されていて国費は使われていないと主張する人もいたけれども、それもなあ。少なくともチェコの科学アカデミーは国立である。寄付を受けつけていないわけではないだろうが、それだけで運営できるような小さな組織ではないのである。お金にならない基礎研究が中心だから、企業からの寄付も集まりにくいだろうし、国費で運営するのが妥当というものである。
 他の国の科学アカデミーも、おそらくはチェコのものと大差ないと思うのだけど、寄付だけで運営されているというのはどこの国のアカデミーなのだろうか。具体的な国名が挙げられていないと、信憑性が感じられなくなり、何も知らないくせに思いつきで発言しただけなんじゃじゃないかと疑ってしまう。

 学術会議をめぐる議論は、首相を批判する側も、擁護する側も、どちらも不確かな、いい加減な情報が多い。だからこそ、どちらにも賛成できないのだし、真相は首相が部下に適当に処理しといてといったら、適当に6人だけ選んで任命しないことにしたというところじゃないかとも思う。政治資金の問題ではなく、例の秘書が、秘書がなんて言い訳は通用しないから、事情の説明もしないんじゃないかと。学術会議側の内紛って可能性もなくはないかな。まあ事情なんて特に知りたいとも思わないけどさ。
 学術会議になんて、すでに教授になりおおせてしまった人たちの集まりに出す金があるなら、恵まれない環境で頑張っている若手研究者を支援するのに使った方が、学問の自由を守ることにつながりそうである。
2020年10月19日23時。











タグ:日本 チェコ
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2020年10月20日

学問の自由2(十月十七日)



 このブログにしばしば登場するコメンスキー研究者のH先生も学問の自由を侵害された人である。すでに書いたこともあるはずだが、自分でもどこに書いたか覚えていないし、このテーマでまとめて書いたわけではないので、繰り返しは避けないことにする。
 H先生の場合には、いわゆる正常化の時代に、大学卒業後(当時は学士課程はなく5年間の修士課程のみだった)、博士課程への進学を、本人の政治信条を理由に禁止された。それで仕方なく高校の教員を務めながら、個人で独自に研究を続けていたという。さすがの共産党政権でも、個人で余暇を使って進める研究までは禁止できなかったのである。ただし論文の発表は本名では出来なかったらしい。

 普通、反体制を理由に大学での研究、研究の発表を禁止された学者というのは、体制側で体制に都合のいい研究を発表していた学者に対して反発するものだと思うのだが、H先生はそんな視野の狭いことは言わない。逆に、体制側に立って活動していた学者がいたおかげで、コメンスキー研究が禁止されなかったのであって、ひいては先生が個人的に研究を続けることも可能になったのだとおっしゃる。それに、中央のプラハで共産党に都合のいい研究が発表され続けたおかげで、地方では比較的自由に研究できたという面もあるらしい。
 H先生は、最終的にはチェコよりは多少は規制のゆるかったスロバキアのブラチスラバの大学で、博士課程に受け入れられ、無事に博士号を取るのだが、受け入れてくれた教授も一般的には体制側と見られている人で、H先生を受け入れたことで、解任まではされなかったけれども、何らかの処罰を受けたらしい。言ってみれば、学会全体で、あるかなきかの学問の自由を綱渡りをするようにして守ってきたようなものである。その恩恵を先生も受けたと感じられているのか、体制側に立った学者を批判することはないのである。体制側にいた学者に頼まれて、共産党が廃棄を求めた資料を引き取って保管したなんてことも仰るのを聞いた覚えがある。それが大量で運ぶと置き場を見つけるのが大変だったんだとも言っていたかな。

 H先生の学問の自由への侵害は、民主化されたはずのビロード革命後にも起こっている。先生のもう一つのライフワークである、第二次世界大戦後のチェコスロバキア軍によるドイツ系住民の虐殺に関して、研究成果をまとめて刊行したものの、その成果は、チェコ史の暗部でもあるために、社会にはあまり受け入れられず評価されることもなかった。それを学問の自由の侵害という気はない。
 先生は、その研究がチェコ人の歴史を汚すと考えた人たちから、研究をやめるようにという脅迫を受けたらしいのである。それは面と向かってのものではなく、勤務先の博物館に電話がかかってきたり、博物館の建物に投石が行われたりするという陰湿な形で行われた。さらに博物館長を退任されたあとは、後任の館長に博物館の資料を使わせないという嫌がらせを受けた。先生が収集した資料もあるというのにである。共産党政権下でも自らの学問を守りぬいた先生が、こんな脅迫や嫌がらせにに屈するわけもなく、研究を続けられた。

 そして、虐殺されたドイツ系の人たちの遺骨が、当初埋められた場所から掘り出されて、証拠隠滅のためにオロモウツの墓地に隠されていることを突き止めるなどの業績を上げられ、ドイツ政府から勲章が贈られた。先生は、名誉を求めて研究を続けてきたわけではないと言い、業績が評価されて勲章をもらったことが嬉しくないとは言わないけれども、一番嬉しかったのは、遺族から感謝されたことだと仰る。そして、ありえないことだけれども、チェコ政府が勲章をくれると言い出したとしても、今の政府、大統領からはもらいたくないので断ると付け加えた。
 そう、この気概こそが、不羈の精神こそが先生の学問の自由を守ってきたのだ。相手が首相であろうと大統領であろうと間違っていることは間違っていると断言し、気に入らない相手からの評価などどうでもいい、もしくは邪魔でしかないと考える。恐らく先生が高く評価されて喜んだのは、政治家ならハベル大統領にほめられた場合だけだったのだろう。

 この先生の学問の自由に対する姿勢と比べて、任命されなかったところで学問、研究ができなくなるわけでもない政府の学術会議のメンバーに任命されなかったからと言って、学問の自由を持ち出して大騒ぎする連中のいかに矮小なことか。任命されなかった人たちの名誉のために弁護しておけば、本人たちは、大きな問題にする気はなかったのに、マスコミとその報道に飛びついた愚かな政治家達が大騒ぎをしているだけのようにも見える。

 首相が気に入らない人間だったか、反政府の立場をとる人間だったか忘れたけれども、とにかく政府にとって都合の悪い学者は教授に任命されない時代が来かねないなどと、制度上不可能なことを言う政治家もいたけれども、それがかつては自民党の中枢で活躍したこともある小沢だったというのが皮肉である。本人の政治的判断力の劣化を示しているのか、政権与党の一員だったときにこの手の制度改革を考えていたことを意味するのか。
 とまれ、教授の任命に関して、学問の自由を侵害しているのは、文部省の腐れ官僚どもが私立大学に無理やり天下りして教授のポストを得ることや、私立大学が何の研究業績もないマスコミの人間を教授として受け入れる(受け入れさせられる?)ことのほうであろう。修士課程、博士課程で真面目に研究を続けて、地道に業績を積み重ねてきた人のつくはずのポストを横から奪い取り、研究を続けられない状態に追い込むことにつながるのだから。大学側からの要請でなんて自分でも信じていないうそをつくんじゃない。この手の教授の任命を阻止できるなら、首相が任命権を持つのも悪くないとは思うけどさ。
2020年10月18日24時。










タグ:日本 H先生
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2020年10月19日

学問の自由(十月十六日)



 繰り返しになるが、菅首相が学術会議のメンバーの任命拒否をした件に関しては、批判する気も擁護する気もない。日本の首相としてふさわしい行動だったのかどうかは、法律をもとにしての議論が不毛なものになっている以上、有権者が選挙で判断を下すべきことであろう。判断の材料となるのは、この件だけではなく、首相としての行動すべてになるだろうけど。
 それにしても、政治家が暴言などの問題を起こすと、たいていの場合には辞任も求める声が上がるわけだが、有権者の選挙によって選ばれて就任した国会議員や自治体の首長などに、病気などの特別な理由なしに、自分の都合で勝手に辞任する権利はあるのだろうか。その政治家が政治家としてふさわしくないと考えるのなら、辞任を迫るのではなく、リコール運動をするか、次の選挙で落選させるかするのが、選挙に基盤をおく民主主義の正しいあり方ではないのか。

 それはともかく、首相を批判する側が、学問の自由の侵害を理由に挙げていたのにはあきれてしまった。お前らの言う学問の自由ってのは、たかだか学者の会議のメンバーに任命されるかどうかで左右されるような安っぽいものでしかないのか。その程度の学問の自由ならなくてもかまわない。世間知らずの学者が任命されなかった悔し紛れに発言するのならまだ、理解できる気はするけど、政治家がそんな発言をするのは政治家としての資質を疑いたくなる。

 そもそも学問の自由というのは、どんな学問、研究をしていても、それだけを理由に処罰されることはなく、その研究を禁じられることもないということであろう。そして、学問の自由と、その学問、研究、ひいては研究者がどのように評価されるかは全く別問題である。自分の学問が、国に、もしくは世間に評価されないことを僻んで、学問の自由がないなどと叫ぶのは自由だけど、飲み屋で酔っ払ってならともかく、素面でやるのは恥さらしでしかない。
 それを、現代芸術に関して表現の自由とうるさい人たちもそうだけど、自分の都合のいい方向に拡大解釈する人が多いのが問題である。現代芸術を公費で支援する必要があるという人の存在は否定しないけれども、個人的には、現代芸術には赤瀬川源平の1000円札コピー以上のものは存在しないし、そんなわけのわからないものに金をつぎ込むぐらいなら、文化財保護とか遺跡の発掘と保存に使った方がはるかにましだと思う。それは学術会議とやらにつぎ込まれているお金も同様。

 学問の自由に関して、もう一つ考えておかなければいけないことは、政治的な理由で学問や研究を禁じられないということである。かつての共産党政権下のチェコスロバキアでは、この学問の自由がかなり制限されていた。その時代に実際に学問の自由を奪われていた人たちを直接知っている人間としては、今回の件で軽々しく学問の自由を口にする連中にはむかっ腹が立って仕方がない。

 我がチェコ語の師匠は、大学で勉強することは許されたが、本来希望していた英語学を学ぶことはできなかった。それは、学力の問題ではなく、当然経済力の問題でもなく、地主だった母親がかつて農業の集団化に抵抗して土地の供出を拒んだ過去が咎められたのだった。敵性原語である英語を共産党政権に反対したり、亡命したりする可能性の高い人間に大学で専門的に学ぶことは許されなかったということらしい。
 師匠は、英語を勉強するために共産党に入党しようかとまで考えたと言っていた。入党すれば許可が出るかもしれないと関係者から言われて悩んだらしいのだが、農地を接収されて亡くなるまで共産党への怨みつらみを消さなかった母親を裏切ることはできなかったという。このことは、言い換えれば共産党員、もしくは共産党員の子弟であれば望む分野の勉強をすることができたということでもある。共産党幹部の子弟だと多少学力が足りていなくても好きな学科に進めたともいう。大学進学自体を禁じられた人たちもいたから、師匠は大学に入れただけでも恵まれてはいたのだと言ってはいたけどさ。

 師匠が、それでも外国語、特に英語とのかかわりを持ちたくて、チェコ語専攻でも外国人へのチェコ語教育を研究分野に選ん出くれたおかげで、わがチェコ語がここまで上達したと考えると複雑なものもあるのだけれども、政治的な理由で十分以上の学力のある学生が自分の希望する分野に進めないのは間違っている。同時に必要な学力の備わっていない学生が入れる大学があったり、学力の代わりにスポーツの能力で体育学部以外の学部に入れるってのもおかしいと思う。
 長くなったのでまたまた続く。
2020年9月17日16時。










タグ:日本
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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