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2020年10月18日

学術会議?(十月十五日)



 すでに旧聞に属するのかもしれないが、日本のネット上で気になるニュースとしては、学術会議にまつわるものがある。一時は誰も彼も、それこそ猫も杓子もという感じで、それぞれ好き勝手な意見を述べていて、混沌とした状況だった。例によって、同レベルで語ってはいけないことを、ごちゃ混ぜにした議論が多く、マスコミ言論人や政治家のレベルの低下を如実に表していた。
 正直な話、こんな会議の存在は、騒ぎが起こるまで知らなかったのだが、当事者、学者とか政治家を除いて、騒ぎが起こる前から会議の存在を知っていて、会議が何をしているのか知っている人はどのぐらいいたのだろうか。マスコミで賢しらに見解を述べている人の大半も、実は知らなかったんじゃないかと疑っている。ようはその程度の、あってもなくても誰も困らない、誰も気にしない組織でしかないということだろう。

 だから、就任したばかりの首相が、推薦された人の任命を拒否したというニュースの見出しを見たときには、また面倒なことをはじめたものだと思った。どうでもいい組織なんだから誰がメンバーでも実害はないわけだし、この手の税金垂れ流しのための組織は、民主党が政権を取ったときに事業仕分けと称して、整理しようとしたらしいとはいっても、今でもいくつも残っているわけだしさ。税金も無駄遣いをやめるために廃止するなら、それはそれでかまわないとは思うけど。
 記事を読んで、任命を拒否したのが、全員ではなくてたかだか一部に過ぎないことを知って、何が問題なのかは理解したけれども、どうしてここまで大騒ぎする必要があるのかは理解できなかった。こんなささいなことで大騒ぎしても何か得るものがあるとも思えなかったし、だからといって任命拒否を支持する気もないし、首相の任命拒否の裏側に深謀遠慮を読み取ろうとするのにも賛成できない。せいぜいなんか気に入らないとか、担当の部下の提言にうなずいただけというのが関の山じゃないのか。

 ただ、批判する側にしても、擁護する側にしても、議論の展開の仕方に納得の出来ないところがいくつもある。この件に関して最初に問題にしなければいけないのは、首相が任命を拒否することができるのかどうかという点である。その際に、「違法だ」とか、「合法だ」とかいう言葉が使われることが多いのだけど、法律には素人の普通の日本語を使う人間の感覚で言えば、「合法」「違法」という評価を下すのであれば、判断の基準となる法律があるはずである。
 その法律に、「任命しなければならない」と書かれていれば、今回の件は違法だし、「任命しなくてもいい」とか、「任命されるとは限らない」と書いてあれば逆に合法になる。問題は、単に「任命する」とか、「任命される」とある場合で、これなら簡単にどちらとも言えないから、解釈の余地があって、議論になるのはわかる。ただ、これまであれこれこの件に関する記事を読んだ限りでは、「合法」「違法」の判断基準となる法律を引いたものは一つもなかった。

 チェコでも任命権が議論の対象になることがある。チェコでは大学教授は、大学における昇任審査に合格した上で、推薦を受けて大統領が任命することになっているのだが、ゼマン大統領が何度か任命を拒否したのだ。他にも総理大臣が推薦した大臣の任命を拒否したこともあるかな。どちらも政治問題になり、大領領の職権を逸脱していないか、つまり違法ではないかと議論がなされた。その際、議論の基本になったのは、大学に関する法律と憲法で、どちらも大統領は推薦された人物を任命するというようなことしか書かれていないため、任命を拒否できるかどうかで意見が分かれるのである。
 チェコの法律の専門家は、「任命する」とある場合には、「任命しなければならない」と解釈するのが一般的だとして、ゼマン大統領の任命拒否を違法だと考える人が多いようだが、反対の意見の人もいるので完全な結論は出ていない。ゼマン大統領自身は、自分は国会での議員による選挙ではなく、国民の直接選挙によって選ばれた大統領だから、これまでの間接選挙で選ばれた大統領よりも職権の範囲が広くて当然だという主張で、自らの行為を正当化している。ただし、この主張に関しては、法律にも憲法にも記載がないため、正統性を認める人はほとんどいない。

 話を戻そう。「合法」「違法」と判断をするなら、普通に考えれば法律を引用するのが当然なはずなのに、それがなされないということは、この学術会議の任命に関しては、そもそも規定した法律がないということじゃないのか。それなら今回の首相の任命拒否は、違法というよりは、せいぜい慣例を無視したというところだろう。それだけでこんな大騒ぎ。日本は平和だねえ。
 もちろん、法律家という人たちは、普通の日本人には理解できない日本語で話すことも多いから、「合法」「違法」というのを我々とは違った使い方をする可能性もあるけど、それならそうと説明するべきであろう。それとも、法律用語の多くがが普通の日本人には理解する気にもなれないものであっることを、認識していないのか。
 この件、もう少し続く。
2020年9月16日14時30分。











posted by olomoučan at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年10月02日

マスコミには何も期待できず(九月廿九日)



 マスコミの安倍首相に対する批判を読んでいると、どうも安倍首相の手によって戦前的なものがよみがえろうとしているというストーリーを作り出したがっているような印象を受けるのだが、今の日本で一番戦前と変わっていない存在は、どう考えても、政治家でも軍隊でもなく、マスコミである。戦前の日本が国を挙げて戦争に向けてひた走った最大の原因の一つは、マスコミの実よりは虚の多い過激な報道だった。

 日露戦争の際の報道に関しては、ジャーナリストの宮武骸骨が口を極めて批判している文章を読んだことがあるが、苦労してまとめた講和条約にあれこれいちゃもんをつけて、日比谷焼討事件を引き起こしたのも、マスコミの報道だった。その後も、夜郎自大的に根拠もなく日本を持ち上げ、アメリカなどのやり口を過激に批判することで、戦争やむなしの雰囲気を作り出したのではなかったか。軍部はむしろマスコミの作り出した雰囲気の前に引っ込みがつかなくなって、戦争に踏み切り、マスコミ受けのために景気のいい大本営発表を繰り返したようにも見える。
 戦後は、軍国主義から平和主義に衣替えをして、一見大きく変わったようにも見えるけれども、戦前の報道姿勢を反省もしないまま、表面だけ変わっただけに過ぎないのではないか。事実や論理よりも感情に訴えかけて、世論などと呼ぶのも申し訳ない、ある種の雰囲気を作り出すという手法は変わっていない。戦前は日本人の自尊心を煽ることで戦争すべきだという雰囲気を作り出し、戦後は戦争の恐ろしさと戦争に加担したという罪悪感を煽ることで、日本を世界にも例を見ない変な国にしてしまった。

 空気を読むとか読まないとか、肯定されたり批判されたりする日本人のメンタリティがマスコミによって一から作り上げられたというつもりはないし、日本の今のマスコミが日本人のメンタリティの中から出てきたのは確かだろうけれども、同時にそのマスコミが日本的メンタリティを強化した結果が今の日本である。雰囲気に飲み込まれて思考能力を失って悪事を働いても、誰も責任を感じることなく、当然自ら責任を取ろうともしない。だから不祥事で失脚させられた元官僚が恥知らずにもマスコミに登場し、大きな顔でえらそうなことをいえるのである。登場させるほうも登場させるほうだけど。
 その責任を取らない際たるものがマスコミで、虚報を垂れ流してもろくな訂正もせずに報道を続けている。たまに検証をすることもあるみたいだけど、自己弁護以外の何物にも見えない。だから、今年の春に各地で発生して問題になっていた、あれこれ自粛することを主張しながら、自分たちが他人に自粛を強要することは自粛しない奇妙な集団の存在なんて、マスコミの報道のあり方なしには考えられない。

 今年の春に大学が軒並みキャンパスを閉鎖して授業を休講、もしくはオンライでの授業に移行することになったのも、マスコミが作り上げた自粛するべしの雰囲気に飲み込まれた結果だといっていい。その学生たちの不満や苦境の原因を作った連中が、苦境や不満を賢しらに記事にするのはどうなのかね。

 それはともかく、他にも目を疑うような記事を読まされた。見出しからは、大学によるオンライン授業の活用の差、もしくはオンライン授業の質の差を問題にしているように読めたのだが、そこまで取材する能力がなかったのだろう。中心になっていたのは大学閉鎖期間の大学側からの欠席がちな学生へのアプローチの仕方だった。授業担当の教員が学生に電話をかけさせられる大学が高く評価されていたのだが、いつから日本の大学は教員が学生に電話するかどうかで評価されるようなちゃちなものになってしまったのだろうか。大学の先生たちもなれないオンライン授業に学生の管理までさせられて、ただでさえ少ないと嘆きの声が聞こえてくる自分の研究のための時間が減ってしまうことだろう。

 しばしば、マスコミをにぎわす記事に、日本の大学の世界レベルのランキングが云々というのがある。個人的には欧米規準で格付けされるこの手のランキングなんて、日本の大学の評価にそのまま使うのはある特定の分野を除けばまったく意味がないと思うのだが、そのランキングで日本の大学の地位が下がっているというので大騒ぎをするが日本のマスコミである。原因としては研究力が落ちているとか何とかそんな結論になるのだろうが、その一方でさらに研究者の時間を奪うようなことを推奨するのだから意味不明である。結局その場限りのご都合主義の批判でしかないのである。
 それにしても、いつから日本の大学はどれだけ学生の面倒を見るかという、本来の役割である研究とも教育とも関係のない部分で評価されるようになったのだろう。学費を出す親にしてみれば面倒見のいい大学に送り出すほうが安心ではあるのだろうが、今の学生たちはわずらわしいとは感じないのだろうか。

 どこぞの新聞社系の週刊誌の手抜き企画、大学別就職ランキングだったか、就職先一覧だったかが、なぜか当たってしまったのもよくないのだろう。あれで大学を勉強しに行くところではなく、就職させてもらいに行くところだと勘違いする人が増えた。日本の新卒一括採用で、本来勉強に費やすべき学生時代のかなりの部分を就職活動につぎ込む制度自体がおかしいのだろうけど、それを声高に批判するマスコミは存在しない。
 因みに手抜き企画というのは、自分たちでは取材もせずに毎年時期になると、大学に卒業生の進路をまとめて送るように連絡をして、送られてきたものを適当に表にしてお仕舞いというものだからだ。大学には謝礼もなければ掲載誌を送って来もしないらしい。入試の準備やら何やらで糞忙しいときに余計な仕事をさせるのに、依頼にこたえて当然、むしろ大学の名前が出るのだからありがたく思え的な態度に怒りを抱えている大学関係者は多いと聞く。

 東京医科大学を始めとするいわゆる「不正入試」は批判しても、多くの学生がスポーツ推薦で体育学部以外の学部に進学する異常さも、そのスポーツ推薦で進学した学生たちの学生としての姿も批判しようとはしないのがマスコミだからなあ、期待するだけ無駄なのである。念のために言っておけば、大学スポーツを否定するきはない。ただ、学力の足りない学生をスポーツの実績だけで入学させるなら、スポーツ関係の学部、学科を作れというだけの話である。

2020年9月30日16時。












posted by olomoučan at 06:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年10月01日

学生?にも失望(九月廿八日)



 大学の授業がオンラインになって、本来提供されるはずの質を満たしていないという理由で学費の返納を求めようとする学生たちにも賛同はしがたい。そもそも大学の学費なんて、授業の質に応じて上下するものではないし、授業に対して払っていると考えたら、特に私学の学費なんて高くて払う気にもなれない。あれは、1年間学生でいられるという身分を買うためのものだと考えるのが正しい。その学生の身分に授業がついてくるのであって逆ではない。
 オンライン授業の質と内容に不満があるなら、求めるべきは学費の返還ではなく、大学の対面授業の再開である。すでに終わってしまった学期については、オンラインでお茶を濁されて不満な授業に関してはやり直しを請求すればいい。学期中にやるのが難しければ、夏休みなどの長期休暇期間を使って集中講義の形で行えば問題はない。本当に学費分学びたいというのであれば、それが正解のはずである。正直それだけやっても、授業だけで勉強していたのでは学費の分は取り戻せないと思うけど。

 大学というのは高校までと違って、自ら学ぶべきことを見つけて学ぶ場である。だからこそカリキュラムにはゆとりがあってさまざまな選択科目を選べるのだし、それぞれの講義や授業でさらに深く学ぶための参考文献を紹介されたりもする。場合によっては先生の書いた本が教科書になることもあるけれども、その中には当然参考文献が挙がっているから、授業で学んだこと以上に学びを深めようと思えばある程度は個人でも可能である。もちろん理想は授業の後に自ら学んだことについて先生に質問したり相談したりできることだけど。
 だからこそ、学生であるなら、学びを求める学生であるなら、授業のオンライン化以上に図書館が使えなくなったことに対して憤るべきである。もしくは図書館が使えなくなっていること、オンラインで図書の閲覧ができるようになっていないことを理由に学費の返還を求めるのならまだわからなくはないが、そんな報道は寡聞にして知らない。

 それから、これは別の記事だったけれども、アルバイトが減った学生の窮状を訴えようとする記事を読んだときには開いた口がふさがらなかった。授業がない上にアルバイトに入れる日も減ってすることがないとか言う学生には、勉強はしないのかと問い詰めてやりたくなる。学生なんて、それが生活のためにアルバイトをしなければならない学生であっても、学問が本業でその合間にアルバイトを入れるものなはずなのに、アルバイトの合間にさえ勉強していない印象を受けてしまった。
 大学の授業も休講で、アルバイトもないのなら、自分の学びたいことを学べばいいのだ。仮にも学生であるなら大学の教科書以外にも何冊か専門書を持っているはずだし、専門書は一回読んだだけで理解できるようなものではないのだから、開いた時間を使って読み込むことで卒論の研究につなげるなり、卒論のテーマを決めるのに使うなりできるだろう。いや、卒論のテーマ、題目を決め書き上げつのために読み込まなければならない文献の数を考えたら、悠長にアルバイトなんかしている時間はあるのか。

 記事で取り上げられていた学生が何を専攻しているのかは覚えていないけれども、文学専攻であれば、「日本古典文学全集」とか「日本古典文学体系」とか、卒論とは関係なく気になる作品を読むのも学問の幅を広げてくれるだろうし、そんな本は持っていないし買う金もないと言うなら、国会図書館がオンライン公開している本の中にも古典文学の作品はあるわけだし、ちょっとジャンル違いで「国史大系」を読んでもいいじゃないか。『大日本古記録』も『大日本史料』も東大の史料編纂所がオンラインで無料で公開しているし、大学なんかなくても出来ることはたくさんある。もちろん大学の図書館が利用できるのが一番だけど。

 勉強しない学生が存在してはいけないと言うつもりはないけれども、この記事に登場した人は、金銭的に恵まれない中、何とか大学に進学して、大卒の資格を手にいい仕事を見つけたいと考えている人として描かれていた。少なくとも、記事を書いた人がそういう意図で書いたように読み取れた。ならば、大学を卒業することで満足するのではなく、出来るだけ多くのことを学んで、優秀な成績で大学を卒業する必要があるのではないのか。
 優秀な成績が、いい職を保証するものではないとはいえ、多くの知識を身につけることとともに就職の可能性を広げることは確かだろう。それなのに、バイトがないことを嘆くというのは、正直理解できない。まあ、この辺は本人の実際の考え以上に、記事を書いた記者の考えが現れていたのかもしれないけど。

 大学生には、脱線することはあっても、本質的には学ぶことを本業とするような存在であってほしいと思う。仮に大学の授業はサボったとしても、自分の学びたいことを学べるのが、学費を払って手に入れる時間なのだから。その意味では大学に求められるのは、学生がさまざまなことを学べる環境を整えることであって、無理やり卒業させることでも、授業に出ているかどうかをチェックすることでもない。
2020年9月29日23時。









posted by olomoučan at 05:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年09月30日

日本の大学に不満(九月廿七日)



 四月だったか五月だったか、日本の大学が軒並みキャンパスへの立ち入りを禁止して、授業をオンラインに切り替えた頃にも読んだ記憶があるが、最近もまたオンライン化した授業に不満な学生たちが学費の返還運動をしているという記事を読んだ。どちらも学生たちに対して同情的な記事だったけれども、学生たちにはまったく共感できなかったし、感染症の恐怖を過剰に煽って、日本全体にあらゆることを自粛しなければならないという雰囲気を植えつけて、大学を授業閉鎖に追い込んだマスコミが、どの口でほざくのかという感想も持った。
 だからといって、日本の大学が右に倣えですべて対面授業を中止してしまい、図書館の利用さえ制限してしまったことを肯定する気はない。むしろ大学の対応が軟弱だったからこその問題だと考えている。いや、実は期待していたのだ。どこかの大学が、本学の学問はウイルスごときには屈しないと宣言して通常の授業を継続するのではないかと。800もの大学があれば一つぐらいはそんな大学があってもよかろうに。

 報道されていないだけで、実は感染のひどくなかった地方の大学をには、通常の授業を行ったところもあるのかもしれないが、最高学府でございと威張っているのなら、首都圏の大学にそれぐらいの蛮勇を発揮するところが一つぐらいはあってほしかったし、マスコミに袋叩きにされながらも、方針を変えない強さを見たかった。今は私学ではあっても認可とか助成金で文部省に不当に縛られていて大学自治ってのがお題目になってしまっているから難しいのかなあ。マスコミに煽られた連中が、意味もわからないまま、大学に抗議に押し寄せるなんて可能性も考えると、リスクは犯せないということか。
 『マスター・キートン』の何巻だったかは忘れたけど、恩師のユーリー教授の第二次世界大戦中に空襲直後に授業を再開したなんてエピソードは、普通ではないからこそ心を打つのだろう。幕末明治期の食糧難にあえぐ長岡藩が支援された食料を売り払って教育のために投資したというエピソードが称揚されるのなら、感染症の流行時にも教育を止めないという大学の姿勢も批判されるべきではないと思うのだけど。

 また、一部の大学が、すぐにオンラインでの授業の導入を決めて実行したことを自画自賛していたのも正直幻滅でしかない。オンラインで対面授業と同じ成果が出せるというのなら、もともとその程度の授業でしかなかったということかと疑いたくなる。
 オンラインでの授業というのは、決して対面授業の変わりになるものではなく、緊急避難的に導入するのを否定する気はないが、それを素晴らしいといわれても困ってしまう。オンライン授業といえば、かつて地方に新たなに設立された私立大学が、教員の確保に困って、東京の大学の先生の講義をオンラインでやるというのを売り物にしていたのを思い出す。最近聞かなくなったけど、あれって運用がうまく行って、どこでも導入されて売り物にならなくなったから、話題にならなくなったのか、学生たちに不評で廃止されたのか、教員の確保に成功して不要になったのか。

 最悪なのは大学での勉強にとって最重要な施設である図書館の利用までできなくなったことである。オンライン化するなら、授業よりも図書館の資料をオンラインで閲覧できるようにしたほうがまだはるかに価値があったはずだ。
 他にも、国会図書館と交渉して通常は館内でしかオンライン閲覧できない資料を大学生にだけは、インターネット上で見られるようにするとか、ジャパンナレッジを大学外からのアクセスでも使えるようにするとかしておけば、授業に出られない代わりに自らの専攻分野の文献を読んだり、調べたりすることができるようになるから、大学が閉鎖された期間をある程度有効に活用できたはずである。

 繰り返すけれども、マスコミの作り出した雰囲気に負けてキャンパスの閉鎖を決めてしまった大学には幻滅しかない。いや、正確には、すべての大学が、同様の対応を取ってしまったことに幻滅を感じたと言ったほうがいいか。感染のリスクなんて大学の立地によっても、学生気質によっても大きく違うだろうに、赤信号みんなで渡ればの日本人気質が出たということだろうか。
 大学ぐらいは、その辺、毅然としていてほしかったと考えるのは、ないものねだりなのかなあ。それでも、一校ぐらい、学生に学ぼうという意志がある限り、キャンパスは閉鎖せずに授業を続けると宣言する大学があってもよかったんじゃないかなあ。大学に夢を見すぎかなあ。報道されないだけとか、批判を恐れて密かに授業を継続していたなんてところあったとしたら嬉しいけど、外国にいると情報が入ってこないのだよ。

 学生が学外で感染して袋叩きに遭った大学があることを考えると、感染対策を徹底した上で通常の授業を行った方が、考えなしも多い学生たちを野放しにして街に放つよりも感染対策としてはよかったんじゃないかなんて気もする。
2020年9月28日20時。





 学生時代に、どれだけ悪かったのかは知らないが心臓の病気で、薬としてニトログリセリンを持ち歩いている先生がいた。「大したことはないんだけど、いつ心臓が止まるかわからないから、止まりそうになったら飲むんだ」とか軽く仰っていたのには、学問を仕事とする人の覚悟を見せ付けられた思いがした。学内で発作で倒れて病院に運ばれたなんてこともあったけど、翌週には何もなかったように講義をされていた。









posted by olomoučan at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年09月04日

次は誰に?(九月朔日)



 安倍首相が辞任するということは、自民党の総裁も辞任するということで、これから自民党の総裁を選ぶ選挙が行われ、選ばれた人が次の首相に就任するということである。ネット上では、候補者と目されている人たちの名前が、いくつか踊っているけれども、自民党の政治家である以上は誰がなっても大差はなく、自民党の人たちが自民党にとって最良だと判断した人を、党の規則にのっとって選んでくれればいい。
 ありもしない世論などというものをでっちあげて、特定の候補を応援しようとするマスコミの雰囲気づくりに巻き込まれてはいけない。その先に待っているのは完全な衆愚政治である。理解できないのは、いくつかのマスコミが、世論調査という名の人気投票を行っていることで、その結果がメディアによって結構違うのも笑うけれども、世間一般の人気の高い政治家を自民党の総裁に、ひいては首相にというのは、普段大声で批判しているポピュリズムの発露にしか思えない。ただでさえ最近の日本の選挙は、人気投票に堕しているのだから、政党の党首選ぐらいは能力と政策を基準にして選ぶべきだろう。

 そもそも自民党内部の選挙について外野がとやかく言うのが間違っているのである。選ばれた人が首相にふさわしくないと思うのであれば、その過程ではなく結果を批判し、次の選挙で自民党に投票しなければいいだけの話で、それが本来の間接民主主義というものではないのか。それが気に食わないというなら、首相を直接選挙で選ぶように法律なり憲法なりを改正する運動をすればいい。個人的にはとんでもない人が選ばれる可能性が高まるので、避けてほしいとは思うが、そっちの方がいいと考える人がいてもおかしくない。

 さて、今回は安倍首相が任期途中での辞任となり、残りの任期だけを務める総裁を選ぶというのだから、80年代に大平首相が亡くなったときと同じような対応でもいいのではないかとも思う。任期が終わるまでは安倍首相の敷いた路線を踏襲する代行みたいな立場にしておいて、任期切れに際して改めて、通常の総裁選挙を行ったほうが、武漢風邪問題で大規模イベントの自粛強要が続いてもいるわけだし、無難じゃないか。その間を利用して立候補の意思のある人たちは、自らの政策をまとめて、自民党関係者に周知することもでき、有権者も時間をかけて熟考できるわけだし。

 党首選挙と言えば、再合併する民主党も党首を選ぶことになるから選挙が行われるのだろう。こちらは臨時のではなく正規の党首選になるのかな。出身政党や支援団体のしがらみを外れて、候補者の能力と政策を基準にして選ばれる選挙が行われてほしいと思うのは、自民党の党首選と同じ。ただ、以前の民主党の党首の選び方を見ていると、自民党以上にというか、普通の選挙以上に人気投票の度合いが高かったからなあ。おまけに政策の違いは無視してとりあえず数合わせに組んだ感じだから政策論争なんてやったら合併が反故になりかねないのか。

 誰が自民党、再合併民主党の党首になって、誰が首相になるかは、何を言っても左右のしようもないので、結果が出るのを楽しみに見守ることにしよう。これでは、分量が足りなさすぎるので、こんな人が日本の首相だったら嬉しいという願望をまとめておく。

 一番望まれるのは世襲議員でないこと。日本も貧富の差だとか、経済格差なんてものが問題になっていて、悪い言い方をすれば、貧乏人の子供は貧乏人、政治家の子供は政治家なんてことになりつつあるようだ。そんな閉塞感を打ち破るには、政治家の子供ではなくても、しっかり勉強して仕事をすれば国会議員、ひいては首相にまで成り上がれるという実例を見せるのが一番である。理想は田中角栄みたいに低学歴を売り物にできる人なんだけど……。経歴は田中角栄的で、政治能力も高く、金銭的な問題を起こさない人ってのは日本の政治家の中には求められないか。
 とまれ、その非世襲の首相には選挙区の世襲を禁じる法律を制定してもらいたい。親の七光りの通用しないところで一から苦労して議員に選出されるぐらいの能力は見せてもらわないと、政治家として、国会議員として信用に値しない。

 それから、まともな日本語能力の持ち主であってほしい。英語など所詮は外国語なのだから、使えたほうがプラスという評価はあっても、日本の首相としては使えなくても差し支えはない。ただ母語である日本語だけは、字幕なしに聞いても理解できるような文章で発声であってほしい。チェコ語の字幕を読みながら日本語を聞いていると、何言っているのかわからないというのはちょっと悲しくなる。
 日本語の正確性については、完璧である必要はないのだ。日本語担当のスタッフを雇ってできる限り正しい日本語で演説してくれればそれで十分。原稿のない質疑応答の場合には、多少崩れてもそれも個性ということになるが、準備原稿のある演説やコメントなんかでは日本語の言葉を正しく使ってほしいものだと、外国に住む日本語至上主義者としては思う。
2020年9月1日24時。









posted by olomoučan at 06:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年08月31日

安倍首相辞任(八月廿八日)



 安倍首相が病気が理由で辞任するというニュースはチェコにも届いた。昭和天皇の不予などで他人の病気を商売にすることに味をしめた下衆どもが、健康に不安があるという憶測の報道を繰り返し、政治家としてというよりは、人間として品にも知性にもかける連中が説明責任があるとか喚いていたので、体調がよくないのだろうとは予想できた。だから辞任の表明が意外だったとは言わないが、できれば避けてほしかったと思う。
 いろいろ問題があったのは確かだけど、安倍政権が久しぶりのまともに機能する政権で、東日本大震災の混乱の中にあった日本をある程度立ち直らせたというのも、また事実である。あれこれ批判していた人たちの中の誰にやらせても、ここまでの結果は出せなかったに違いない。ここはその功績を高く評価し、病をおして首相の重責を務めてくれたことに感謝の言葉を送るのが正しかろう。

 辞任が前回に続いて突然だとか、健康管理能力が欠けているとか批判する人もいるようだが、病気の進行なんて人間が管理できるものではない以上、病気による辞任が突然のものになりがちなのは当然である。任期中に病気で倒れて亡くなった場合にも同様の批判をする気だろうか。無理して首相を続けて病状が悪化して現職のまま亡くなった場合には、混乱は辞任の場合よりもはるかに大きくなるはずだ。それを避けるための辞任だと考えれば、無責任なのではなく、責任を全うしたと評価すべきである。
 マスコミとしては、現職のまま入院してくれた方が、長々と根拠もない憶説ばかりの報道を続けられるから美味しかったのにと考えているのだろう。その本性が図らずも現れたのが、辞任の仕方に対する批判だったに違いない。個人的にはスキャンダルで辞任する方が突然政権を投げ出す無責任さを感じるが、その場合はマスコミには自分たちが報道で追い詰めてやめさせたという達成感があるから、辞任したこと自体は批判しないのだ。

 安倍内閣の政治を評価するとなると、外国にいて日本の空気を感じられず、報道を通じてしか知れないので難しい。アベノミクスという経済政策も、賛否両論あって、いや与党支持者は称賛し、野党支持者は酷評していたから、実際のところは大成功でも大失敗でもなく、それなりの効果があった、もしくはそれなりの効果しかなかったということか。

 知人にあれこれ便宜を図ったとかで集中砲火にさらされていたのも、何の問題もないとは言えないけど、口を極めて批判しなければならないほど重大な問題でもなく、いわば陳情に毛が生えてしまったようなものである。批判していた側も含めて、同じようなことをやっている政治家は多いだろうし、報道するマスコミの側も陳情はしているだろうに、陳情して政治家を動かさなければどうにもならない、陳情すれば便宜を図ってもらえる制度の運営のほうを批判すべきじゃないのかね。
 安倍首相の悪かったところは、自分は何もしていないと断言してしまったところで、陳情を受けただけとか、皆さんもやってるでしょとか答えておいて、以後常にお題目だけに終わる行政改革に取り組めばよかったのに。それで首相をうそをついていると批判するマスコミが担ぎ上げていたのが、スキャンダルで詰め腹切らされたことを怨みに思っていそうな元官僚というので、批判の信憑性が薄れていたのには笑ったけどさ。

 外交だと、チェコスロバキアとの国交樹立百周年でスロバキアに来られたのは大きなプラス、ついでにチェコに寄ってくれなかったのはちょっと残念だった。全体的に言うと、日本の存在感は増したように思う。特にトランプ大統領の出現も利用して、中国や韓国、北朝鮮に対して、無意味な譲歩をせずに、きっちりと主張すべきことを主張していたのは、賞賛に値する。後任が誰になるにせよ、この路線だけは引き継いでもらいたいところだ。
 日本国内で井の中の蛙になっていると、対話路線とか相手のことを考えてとかいう一見正しそうな意見に賛成してしまいそうなるのもわかるが、一方的に譲歩させられるのは対話とは言わないし、相手がこちらのことを配慮しないのに配慮するのは相手を付けあがらせるだけである。チェコと中国の近年の関係を見ていれば一目瞭然で、EUに対してはチェコは主権国家なんだからとえらそうなことをいう連中が、中国の顔色を伺ってダライラマやら台湾やらに対応しているのは滑稽ですらある。

 内政干渉という言葉を、自国がする場合と、される場合とで、別の意味で使用するような国とはまともな外交関係なんて結べないし、結ぶべきでもない。経済優先とかで経済的な関係を深めていくと、そこからつけ込まれるから、慎重にした方がいいと思うんだけどねえ。手遅れになる前に手を切って外交上必要最低限の付き合いにとどめておくのが一番である。ドイツに真似するべきところがあるとすれば、第二次世界大戦中のことはすでに終わったこととして、追悼などの儀式は行なっても、それを現実の政治や国際関係の中には持ち込ませないようにしているところだけである。

 安倍首相は、首相は辞任しても国会議員は続ける意向のようだ。上にも書いたが、安倍首相のことはこれまでの首相たちとの比較では、かなり高く評価している。これで、国会議員を辞めるときに、地元の後援会の意向に反して後継者を立てなかったら、過去最高と評価してもいいところである。
2020年8月29日9時。











posted by olomoučan at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年08月30日

ひろしまタイムライン2(八月廿七日)



 昨日の記事を書くのに、確認のためにいくつか詳しめの批判をしている記事を読んでみたら、投稿されたのは、「大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」という文だけではなく、その後に列車の中で好き勝手に暴れまわるのを見ながら何もできないことを悔しがる様子も投稿されていたという。これなら、「朝鮮人」に対して怒りや、反感を感じてしまうというのはわからなくはない。
 ただ、こんな過去の出来事についての投稿を読んで、反感を現在の韓国人や北朝鮮人に向ける短絡的な人がいるとしたら、その人はこんな投稿を読まなくても反韓だっただろうし、こんな投稿ひとつで両国関係が悪化するというなら、それは最初から関係がよくなかったことの証明に他ならない。過去のことを取りざたするから関係が悪化するのではなく、現在の関係が悪いから過去のことにまでさかのぼっていちゃもんを付けるのである。
 注釈をつけたところでそれは変わらないし、むしろ、若い人たちに戦争について知ってもらいたい、考えてもらいたいというこの企画の趣旨に反するだろう。仮にもアクティブラーニングなんてものに意味があるとすれば、この投稿をきっかけにいろいろ自分で調べられることではないのか。注釈をつけてしまったのでは、知識を与えられるだけで自分で調べたり考えたりしないで終わってしまう。それではもったいなさすぎるというものである。

 当時日本にいた朝鮮半島出身の人たちについて調べれば、労働力として強制的に連行されてきた人もいれば、非合法に滞在していた人、合法的に滞在していた人もいたということがわかるだろう。さらに調べを進めれば、合法的に滞在していた人たちには、他の日本人と同様に選挙権が与えられていて、中には日本人の支援を得て国会議員になった人もいることがわかる。同時に、選挙権が与えられていたということが、完全に日本人と平等であったということでも、日本人社会に完全に受け入れられていたということでもないことにも気づけるはずだ。
 逆になぜ、「朝鮮人」が暴れていられたのかというところに興味を持てば、終戦直後の日本の警察や憲兵隊が戦犯扱いされることを恐れて、外国人に対する取り締まりを放棄した結果、無法状態になってしまっていたこととか、証拠となる書類を焼き捨てたり、形だけの転勤の手続きをしたりと保身に忙殺されていた連中がいることなんかもわかる。無法状態の中で、特に闇市と呼ばれた場所で、一般の日本人を外国人の暴力から守るのに活躍したのがやくざだったなんてことを知ると、暴力団と政治家の癒着なんてところまで進んで戦後の歴史の見方が変わるかもしれない。

 また、この投稿は中高生が担当していて、実際の日記の記述をもとに自分たちで調べたり実体験したりしたことも反映させて投稿を作成しているということを考えると、終戦直後に治安維持が放棄される中、広島に向かう途中で遭遇した可能性のある困難の一つとして「朝鮮人」の暴力について知って、それを同世代の子供たちにも知ってもらおうと考えたと理解したくなる。その判断を、差別的の一言で断罪してしまうのが、いい大人のなすべきことなのか。
 差別的だとか問題があると批判している人の発言の中には、終戦直後の日本で起こった事実を隠蔽しなかったことにしようとするような意図が見え隠れして、ひろしまタイムラインの投稿よりも、むしろ批判のほうが、本来反でも親でもないニュートラルな日本人に、現在の韓国や北朝鮮に対する疑念や反感を感じさせているようにも思える。専門家だとかジャーナリストだとか自称するのであれば、投稿が取り上げたこの手の暴力行為をどう評価するのか触れた上で、批判するのがすじというものであろう。

 ここで提起されているのは、現代にもつながる普遍的な、同時に答を見つけにくい問題である。抑圧、弾圧されていた人たちが、その抑圧から解放された際に、復讐とばかりに暴力的行為に出るのは、終戦直後の日本に限らず、ままあることである。ドイツなら強制収容所から解放されたユダヤ人のグループがドイツ人に配給されるパンに毒を仕込んで大量殺人を計画していたことが知られるし、チェコでもH先生が調査したプシェロフ郊外で起こったドイツ人の無差別虐殺事件など各地で犠牲者が出ている。最悪なのは、この手の暴力の対象となるのが、多くの場合、実際に弾圧を加えていた軍隊や警察、政府関係者ではなく、民間人だという事実である。
 論理的にも、法的にも、仮に復讐の暴力が軍人や警察などに向かったとしても、否定されるべきで、犯人は処罰されるべきだということは重々理解しているが、それだけでいいのかという気持ちもまた否定できない。自分がやるかと言われたら答えられないが、復習したくなる気持ち、八つ当たりしたくなる気持ちは理解できなくもない。だからといって特に一般の人に対する攻撃を肯定したくもない。結局自分の親しい人がやるなら肯定し、それ以外は否定するという判断を自分がしてしまいそうなのが嫌になる。

 だから、戦後直後の日本で起きた「朝鮮人」による暴力について投稿すること自体を批判している人がいたときには、専門家を称する人たちが、「復讐としての暴力」をどう評価しているのかについても書かれているだろうと期待したのだが、全くの期待はずれだった。書かれているのは今更繰り返されても心に響きようのない「正論」ばかりで、投稿を担当した人たちも納得してはいないだろう。NHK広島は事態を収拾するために謝罪はしたけど、投稿の削除はしていないようだし。

 最近アメリカを中心に黒人差別反対の抗議運動や、抗議としてのボイコットが盛んである。その趣旨には全面的に賛同する。賛同するけれども共感しきれないのは、抗議運動に暴動がつき物だからで、破壊された店舗や自動車の列を見ると、抗議運動自体も支持したくなくなる。そしてその考えが正しいのかどうか確信が持てずに落ち着かない。これはこれ、それはそれと別物扱いするのが正しいとは思えないし。

 戦後直後の日本から現在にいたるまで繰り返され続けている復讐的な集団暴力をどう評価するのかというのは、感情的な面まで含めれば、すべての人にとって正しい答なんて存在しないだろう。だからこそ、自分たちがどのようにして折り合いをつけているのかを語ることが、専門家とかジャーナリストの役目であり責任なのではないか。少なくともそれを読んで考えることで自分なりの結論を見つけ出す助けにはなる。それなしには今回のツイッター投稿の問題提起を正面から受け止めたとは言えず、言を尽くして批判したとて、逃げでしかなく何の意味も持たない。
2020年8月28日10時。












タグ:差別? 復讐
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2020年08月29日

ひろしまタイムライン1(八月廿六日)



 このNHK広島放送局が提供しているというツイッターについては、ジャパンナレッジのスタッフブログのようなもので触れられていたので存在は知っていた。恐らく、すでに身内にも戦争を実体験した人がいない人が増えているだろう若い人たちに、疑似的に戦争の悲惨さを伝えるための試みなのだろう。内容の説明を読むと、なかなか面白そうで、野心的な広島らしい試みだと思った。
 生来のSNS嫌いで、自分でツイッターを見ようなどとは思わないが、ジャパンナレッジのスタッフのように興味を持って追いかけている人は多いはずだ。子供のころから今江祥智の『ぼんぼん』など戦中戦後を描いた文学に親しみ、毎年八月になるとNHKで放送される戦争特集などを見てきた人間には今更目新しいこともそれほど多くはないのだろうが、そんな体験をしていない人たちにとっては、間接的にとはいえ、戦争を追体験できるいい機会で、戦争について学ぶきっかけになりそうである。

 だから、そのジャパンナレッジの記事を読んで何日か後に、ヤフーのニュースのところで「ひろしまタイムライン」という言葉を見かけたときには、ジャパンナレッジのスタッフと同じような感想を抱いた人が、紹介する記事を書いたのだろうと思ったのだが、さにあらず、差別を助長するようなことが書かれていると批判されていた。中高生が担当しているところもあるという話だったから、暴走したのをNHKのスタッフがチェックしきれなかったのかと記事を読んでびっくり。どこに差別を助長するような要素があるのかさっぱりわからなかったのである。
 どうも、「大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」とあるのが批判されているようなのだが、これ読んで「朝鮮人」に批判的になったり反感を持ったりする人がいるのだろうか。この時点では、読んだ記事に引用されていた文しか投稿されていないと思っていたので、意識は文中に使われている言葉に向かった。

 他の記事も読んでみると、「朝鮮人」という言葉を差別だと認識している人が本当にいるようで愕然とした。こういう地名を基にした言葉を差別用語にしていたら、そのうち使える言葉がなくなってしまう。戦前に使われた言葉でいえば「半島人」、終戦直後なら、この企画には使えないけど「三国人」のほうがよっぽど差別的に響きはすまいか。実際にはさらに侮蔑的な表現があったに決まっているのだから、「朝鮮人」というのは極めて穏当な表現にしか思えない。この手の差別認定が好きな人たちの論理に従っていたら、そのうち「韓国人」「北朝鮮人」「中国人」なんてのも差別語になりそうである。
 昔知り合いが日本からお土産に買ってきてくれた『図書館戦争』を読んで、「床屋」「魚屋」が差別用語扱いされているというのを知って、日本語を仕事として使うマスコミの連中の認識のあまりのひどさに絶望的な気分になったのを思い出す。一部の文筆家たちが言葉狩りだと憤慨するのも納得してしまう。差別意識というのは言葉そのものよりも、その使い方にこもることの方が多く、その気になれば、どんな言葉でも差別的に響かせられるものだ。

 昔、誰だった忘れたけど、SF作家が、これも朝鮮半島の国の呼称について、朝鮮だった国が南北に分かれたんだから、北朝鮮と南朝鮮というのが普通じゃないかと言い、その略称として北鮮、南鮮を使うのを出版社だったか、新聞社だったかに、差別的だとして拒否されたと憤慨する文章を読んだことがある。それなりの説得力はあったけど、戦後生まれで北朝鮮、韓国という呼称に慣れていた自分は、この作家の使う言葉を使おうとは思わなかった。ただ日本が李氏朝鮮を併合した事件が、何で「日朝併合」ではなく「日韓併合」と呼ばれるのだろうと不思議に思った。高校生だったからそこで止まってしまったけどさ。
 それから、確か儒学者で封建主義者と自称している(と記憶する)評論家の呉智英が、中国という呼称を拒否して支那という、世界中の言葉で中国を意味する言葉と同根の言葉を使う方が歴史的にも正しいと主張していたのも、確か支那は中国最初の統一王朝である秦に起源を持つ由緒正しい言葉だという説明もあってなるほどとは思ったけど、中国という呼称に慣れきっていたから、敢えて自分にとって新しい名称である支那を使う気にはなれなかった。支那を差別語というのは無理がありすぎるというのはその通りなのだろう。

 こちらに来て思うのは、中国の中華人民共和国の「中華」にしろ、韓国の大韓民国の「大」にしろ、大日本帝国の「大」と同じレベルの夜郎自大な自称に過ぎないのだから、外国である日本がその自己顕示欲の発露に付き合ってやる必要はあるのかねということである。日本の「大」に付き合ってくれた国があるとも思えないし、チェコ語にしてしまえば韓国も北朝鮮も、北と南は付くけど同じ「Korea」である。中国だって歴史的に王朝が変わろうが「Čína」で済ませてしまう。中国とか韓国という名称は、地域国家の略称ではなく王朝名のような扱いをしたほうがよかったのかもしれない。台湾の中華民国のようにさ。今更変えようはないだろうけど。

 我々の世代なら、差別を助長するとして糾弾された事件というと筒井康隆の断筆事件が真っ先に思い浮かぶ。あれは作家本人ではなくて、差別的とされた作品を教科書に採用しようとした出版社が批判されたのだったかな。毒のあるユーモアを売り物にする筒井の作品を教科書に採用するというのに腰砕けだった出版社の対応には、言論の自由とか表現の自由とかを金科玉条のように主張しているのが実はポーズでしかないことが明らかになって幻滅しかなかったし。
 この断筆宣言のおかげと言えそうなのは、少なくとも書籍の出版に関しては、差別用語という規制が多少緩んだように思われることで、差別用語とされる言葉が使われていることで復刊は難しいだろうと言われていた過去の名作が、巻末に但し書きを付けることで刊行される機会が増えてきたことぐらいか。今でも意に染まない書き換えを強いられて泣き寝入りしている作家はいそうではあるけど、言葉にレッテルを張るのには慎重になってほしいものである。

 なんてことを、「朝鮮人」が問題にされていると思っていたときには考えていたのである。その後、別の批判する記事を読んだら、また別な方向に思考が向かったのだが、それについてはまた今度。
2020年8月27日18時。








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2020年08月27日

日本左翼の終わり(八月廿四日)



 日本では、何年か前に、民主党が分裂してできた何とか民主党と、かんとか民主党が再び合併して民主党が復活するらしい。元左翼少年としては日本の左翼政治家の劣化ぶりに唖然とするしかない。いやもともと左翼の政治家なんてそんなもんだったのかもしれないけど、○○民主党の本家本元の自民党と同じ政治の論理で動き始めて馬脚が現れたというのが正しいのかもしれない。左翼を自認するのをやめた1990年代の半ばには、日本の左翼政党は、共産党を除けば、すでに自民党や、元自民党に取り込まれて壊滅状態だったし、共産党は左翼政党というよりはすでに宗教政党だったし。
 左翼と言いながら、社会党が自民党を追ん出た小沢一派と組んで、非自民党政権を成立させたのも、当時はヨーロッパ旅行中で帰って来てびっくりだったけど、ありえないと思ったし、自衛隊合憲を認めてまで自民党と組んで政権を取ったのには裏切りとしか思えなかった。社会党が凋落した後の左翼系の政治家たちが小沢に振り回されて右往左往しているのには、もう何をかいわんやである。

 80年代に思想形成を行った元左翼としては、二世議員、三世議員ばかりの自民党は支持のしようもないから、左翼のまともな政党が、少なくとも野党としてまともに活動のできる野党が必要だと、ひそかに、投票はできないけど応援していた。それで、主義主張に関係なく味噌くそ一緒だった民主党が分裂した際には、右と左に分かれて、左の何とか民主党が、まともな左翼の野党になるんじゃないかと期待したのだけど……。

 政権批判も含めて、やっていることが、批判のための批判でしかなく、ただでさえ少なかった国会での建設的な議論は、自民党にも責任はあるんだろうけど、皆無になった印象である。挙句の果てには、またまた小沢と組んで元民主党が味噌もくそも集めて大集合というのだから、自民党政権は続きそうである。
 そもそも、政界再編とか野党大合同とかで常に中心になる小沢という人物は、自民党の最も自民党的な部分を受け継いだ政治家である。金権政治と左翼に批判され続けた田中派の中心にいて、その政治手法を受け継いでいる小沢と組んで政権を取ることが、左翼的に正しいとは思えない。一度政権を取って、味わったうまみが忘れられないのかねえ。そんなん左翼じゃなくて、自民党の政治家どもと同じじゃねえかよ。

 最近はひよってリベラルとか言ってるみたいだけど、民主でリベラルと言えば自由民主党である。結局日本の政治家は、例外を除けば、右も左も合わせて自民党A、自民党Bみたいな形で集約されるということか。名前を変えても実質は同じである。日本の政治家なんてそんなものと言えばその通りなのだけど、これで政治に関心を持たせようなんて、不可能を通り越して笑い話でしかない。今後も日本の選挙は、政治家の後援団体、宗教団体、労働組合なんかの組織票によって支配されていくのだろう。
 左翼上がりの変節者のいる自民党Bよりは、本来の自民党のほうが多少はマシかなと評価せざるを得ないのが残念である。自民党Bなんて与党としてだけでなく、野党としても役に立ちそうにないから、共産党のほうがマシというか、合併前の何とか民主党とかんとか民主党のほうがまだしも役に立ったんじゃないかとも思える。

 ひるがえって我がチェコは、地方選挙前のばらまき合戦が始まった。武漢風邪で非常事態宣言が出されてたせいで経営や雇用の維持に苦しんでいる企業や、収入の減った自営業者、地方自治体に対する金銭的な支援は、ほぼすべての党が争うように主張しているが、今度は外出禁止で一番制限を受けた高齢者に対して、一律でお金を配ろうなんてことを言い出した。
 名目はマスク代ってことになるのかな。クリスマスをめどに、年金生活者にたいして数千コルナ支給するというのだけど、予算の赤字は、すでに膨大な額に昇っているから、多少増えても大差ないと考えているようだ。この案、与党側から出されていて、野党は選挙前の人気取りだと批判しているが、野党も似たような個人に対するお金の配布を主張していたはずである。地方政府が独自に実行する可能性もあるし、ばらまき合戦は、国でも地方でも与党側が有利になる。ただ選挙で第一党になったからといって、単独で過半数に達しない場合には、政権を取れない可能性もあるのが、チェコの政治のややこしいところである。
2020年8月25日22時。









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2020年08月09日

投票義務化?(八月六日)



 日本では、また選挙権の行使、つまり投票を義務化しようと主張する人たちが出てきたようだ。投票率の低下が、選挙権を十八歳以上にするという単独では愚策でしかない制度を導入してなお、止まらないということだろうか。この選挙権の義務化をしている国もあるとはいうが、義務化には憲法の改正は必要ないのかねという疑問も浮かぶ。主張している人はそんなことは全く考えていないだろうけど。
 1990年代に日本で毎回選挙権を行使していた人間としては、投票に行かないのはもったいないとは思うが、投票率の低下を政治への無関心のせいにして済ます考えにはまったく賛成できない。仮に政治への無関心がその主要な原因になっているとしても、その無関心の原因であるろくな政治家、候補者が存在せずに選びようがないという現実を無視してはなるまい。

 かつて選挙には、地方選挙も含めて毎回通っていたが、一回か二回、よんどころない事情でサボったことはあるかもしれないけど、国政選挙において候補者の名前を書いたことは1回しかない。能力も知力もないのに議員の子供というだけで候補者に納まっている二世議員、三世議員、官僚上がりだか崩れだか、マスコミ上がりってのもいたし、宗教関係者いた。現実を見る能力のない左翼の活動家崩れとか市民活動か上がりなんてばかりで、誰を選べというのか。
 という諦念と共に投票所に出向くのをやめようと思ったこともあるが、無駄にまじめだったので投票には出向いて、白票を投じていた。違う、白票ではなく無効票である。実在しない人物の名前や、友人の名前を、書くことが多かった。比例代表のほうは、絶対に政権を取らせてはいけないが、議席がゼロになるのもまずい、政権批判だけなら、批判するネタを見つけるだけなら日本一の共産党に投票していた。必要悪というやつである。地方議会のほうは近所付き合いで公明党の候補者に入れることもあったけど、となりに住んでいた創価学会の叔母ちゃんに頼まれたときだけ。

 ゴミとしかいいようのない候補者リストで、投票を義務化して、投票しない人間に罰則を与えるのなら、導入すべきことがあるだろう。増加するであろう白票、無効票に込められた有権者の意志をくみ上げるシステムなしに、投票を義務化したところで、政治への無関心が解消されるとも思えない。罰則の設定いかんによっては、これなら投票しなくても問題なしと考える人の方が多くなりそうだ。
 こういう誰も選びたくないという層の意見を反映させる方法として、マイナス票みたいなもの、当選させたくない人を選んでの投票を導入することを主張する人もいるようで、これはこれで悪くないとは思う。ただ、議員として誰も選べないということは、落としたい人を一人だけ選ぶのも難しいということになりかねない。

 それなら白票などの、明確に選ばないことを選んだことがわかる票だけ集約して、候補者の一人として扱った方がよさそうだ。誰も選ばないに入った票が一番多かった選挙区では、選挙を無効にして当選者を出さないのである。当然比例での復活も認めない。そして一年ぐらい期間をおいた後に再選挙を行うが、無効になった選挙に立候補した候補者は同じ選挙区では立候補できないとしておけば、候補者の代謝も進んで、そのうちまともな人も出てくるかもしれない。議員はおろか、首相候補と呼ばれるような人たちですら、二世議員、三世儀意ばかりの現状を変えることが、政治への無関心を変える第一歩だと考えれば、これぐらいのことはしないと将来は暗い。
 比例代表のほうも、どの党も選ばない票を一党扱いして、議席配分の対象にすればいい。つまり、選ばない票が多ければ多いほど議員の数が減るのである。党内事情で選ばれた箸にも棒にもかからないような候補者が並んでいる上に、小選挙区で落選しても比例で復活などという有権者の誰も望まない制度があるのも、政治への無関心の原因の一つなのだから、選ばないを選べば無駄な議員がいなくなるという制度にすれば、政治はともかく選挙への関心は高めることができはすまいか。

 こういう後援会以外には、誰にも望まれていない国会議員を減らすための改革は、その手の議員ばかりの自民党政権にはできまい。民主党政権が何かやるかなと思っていたけど、パフォーマンスに終始して、自民党の政治家と同じ穴の狢に過ぎないことを露呈していたから、政権交代があっても実現はしないだろうけど。
 ここに書いたぐらいのことは、とっくに誰かが思いついて発表していてもおかしくないと思うのだが、マスコミで取り上げられたという話は、寡聞にして知らない。権利、権利というのなら、候補者を選んで議員にする権利だけでなく、候補者をすべて拒否する権利も有権者にはあるはずである。いや、選ぶに値する候補者を得る権利と言い換えてもいいか。

 チェコでも、選挙の投票率は低下する傾向にあって、EU議会や上院議員選挙の二回目の投票など危機的なレベルにあるけれども、選挙の義務化という話は聞こえてこない。それは、共産党政権下で民主主義を標榜するために形だけ行われていた選挙で、事実上義務として投票を強制されていた過去があるからである。
2020年8月7日12時。










タグ:選挙
posted by olomoučan at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言
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