2020年08月30日
ひろしまタイムライン2(八月廿七日)
昨日の記事を書くのに、確認のためにいくつか詳しめの批判をしている記事を読んでみたら、投稿されたのは、「大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」という文だけではなく、その後に列車の中で好き勝手に暴れまわるのを見ながら何もできないことを悔しがる様子も投稿されていたという。これなら、「朝鮮人」に対して怒りや、反感を感じてしまうというのはわからなくはない。
ただ、こんな過去の出来事についての投稿を読んで、反感を現在の韓国人や北朝鮮人に向ける短絡的な人がいるとしたら、その人はこんな投稿を読まなくても反韓だっただろうし、こんな投稿ひとつで両国関係が悪化するというなら、それは最初から関係がよくなかったことの証明に他ならない。過去のことを取りざたするから関係が悪化するのではなく、現在の関係が悪いから過去のことにまでさかのぼっていちゃもんを付けるのである。
注釈をつけたところでそれは変わらないし、むしろ、若い人たちに戦争について知ってもらいたい、考えてもらいたいというこの企画の趣旨に反するだろう。仮にもアクティブラーニングなんてものに意味があるとすれば、この投稿をきっかけにいろいろ自分で調べられることではないのか。注釈をつけてしまったのでは、知識を与えられるだけで自分で調べたり考えたりしないで終わってしまう。それではもったいなさすぎるというものである。
当時日本にいた朝鮮半島出身の人たちについて調べれば、労働力として強制的に連行されてきた人もいれば、非合法に滞在していた人、合法的に滞在していた人もいたということがわかるだろう。さらに調べを進めれば、合法的に滞在していた人たちには、他の日本人と同様に選挙権が与えられていて、中には日本人の支援を得て国会議員になった人もいることがわかる。同時に、選挙権が与えられていたということが、完全に日本人と平等であったということでも、日本人社会に完全に受け入れられていたということでもないことにも気づけるはずだ。
逆になぜ、「朝鮮人」が暴れていられたのかというところに興味を持てば、終戦直後の日本の警察や憲兵隊が戦犯扱いされることを恐れて、外国人に対する取り締まりを放棄した結果、無法状態になってしまっていたこととか、証拠となる書類を焼き捨てたり、形だけの転勤の手続きをしたりと保身に忙殺されていた連中がいることなんかもわかる。無法状態の中で、特に闇市と呼ばれた場所で、一般の日本人を外国人の暴力から守るのに活躍したのがやくざだったなんてことを知ると、暴力団と政治家の癒着なんてところまで進んで戦後の歴史の見方が変わるかもしれない。
また、この投稿は中高生が担当していて、実際の日記の記述をもとに自分たちで調べたり実体験したりしたことも反映させて投稿を作成しているということを考えると、終戦直後に治安維持が放棄される中、広島に向かう途中で遭遇した可能性のある困難の一つとして「朝鮮人」の暴力について知って、それを同世代の子供たちにも知ってもらおうと考えたと理解したくなる。その判断を、差別的の一言で断罪してしまうのが、いい大人のなすべきことなのか。
差別的だとか問題があると批判している人の発言の中には、終戦直後の日本で起こった事実を隠蔽しなかったことにしようとするような意図が見え隠れして、ひろしまタイムラインの投稿よりも、むしろ批判のほうが、本来反でも親でもないニュートラルな日本人に、現在の韓国や北朝鮮に対する疑念や反感を感じさせているようにも思える。専門家だとかジャーナリストだとか自称するのであれば、投稿が取り上げたこの手の暴力行為をどう評価するのか触れた上で、批判するのがすじというものであろう。
ここで提起されているのは、現代にもつながる普遍的な、同時に答を見つけにくい問題である。抑圧、弾圧されていた人たちが、その抑圧から解放された際に、復讐とばかりに暴力的行為に出るのは、終戦直後の日本に限らず、ままあることである。ドイツなら強制収容所から解放されたユダヤ人のグループがドイツ人に配給されるパンに毒を仕込んで大量殺人を計画していたことが知られるし、チェコでもH先生が調査したプシェロフ郊外で起こったドイツ人の無差別虐殺事件など各地で犠牲者が出ている。最悪なのは、この手の暴力の対象となるのが、多くの場合、実際に弾圧を加えていた軍隊や警察、政府関係者ではなく、民間人だという事実である。
論理的にも、法的にも、仮に復讐の暴力が軍人や警察などに向かったとしても、否定されるべきで、犯人は処罰されるべきだということは重々理解しているが、それだけでいいのかという気持ちもまた否定できない。自分がやるかと言われたら答えられないが、復習したくなる気持ち、八つ当たりしたくなる気持ちは理解できなくもない。だからといって特に一般の人に対する攻撃を肯定したくもない。結局自分の親しい人がやるなら肯定し、それ以外は否定するという判断を自分がしてしまいそうなのが嫌になる。
だから、戦後直後の日本で起きた「朝鮮人」による暴力について投稿すること自体を批判している人がいたときには、専門家を称する人たちが、「復讐としての暴力」をどう評価しているのかについても書かれているだろうと期待したのだが、全くの期待はずれだった。書かれているのは今更繰り返されても心に響きようのない「正論」ばかりで、投稿を担当した人たちも納得してはいないだろう。NHK広島は事態を収拾するために謝罪はしたけど、投稿の削除はしていないようだし。
最近アメリカを中心に黒人差別反対の抗議運動や、抗議としてのボイコットが盛んである。その趣旨には全面的に賛同する。賛同するけれども共感しきれないのは、抗議運動に暴動がつき物だからで、破壊された店舗や自動車の列を見ると、抗議運動自体も支持したくなくなる。そしてその考えが正しいのかどうか確信が持てずに落ち着かない。これはこれ、それはそれと別物扱いするのが正しいとは思えないし。
戦後直後の日本から現在にいたるまで繰り返され続けている復讐的な集団暴力をどう評価するのかというのは、感情的な面まで含めれば、すべての人にとって正しい答なんて存在しないだろう。だからこそ、自分たちがどのようにして折り合いをつけているのかを語ることが、専門家とかジャーナリストの役目であり責任なのではないか。少なくともそれを読んで考えることで自分なりの結論を見つけ出す助けにはなる。それなしには今回のツイッター投稿の問題提起を正面から受け止めたとは言えず、言を尽くして批判したとて、逃げでしかなく何の意味も持たない。
2020年8月28日10時。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/10157687
この記事へのトラックバック