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2020年08月02日

メンチンスキ神父考再び(七月卅日)



 最近また、偽物ブランド品の販売サイトの宣伝のための迷惑コメントが増えている。それで、三年以上も前に書いた、殉教するために日本を訪れたポーランド人のメンチンスキ神父についての記事にコメントがついたときにも、また削除するべきコメントかと思ったのだが、短くもありがたいまともなコメントだった。おかげでさらに一歩、調査を進め知らなかったことを知ることができた。
 過去の記事を読めと強要するのも申し訳ないので簡単に説明しておくと、ポーランドの貴族階級の出身でイエズス会に入った後、殉教するという目的のために、島原の乱を経て鎖国したばかりの日本に渡って長崎で処刑されたメンチンスキ神父について、資料によって名前が違うことについて問題にした記事である。歴史系の資料では「Wojciech(ヴォイチェフ)」になっていて、キリスト教関係だと「Albert(アルベルト)」になっているのだ。

 これについて、


「アルベルト・メンチンスキー」と「ヴォイチェフ・メンチンスキー」は、同じ人物です。ラテン語表記とスラブ語表記で、表記に仕方が異なります。



 というコメントを頂いたのだが、ポーランドかキリスト教に詳しい方だろうか。

 最初に読んだときは、同一人物というのは、納得できるけど、「ヴォイチェフ」と「アルベルト」が同じ名前で、ラテン語とスラブ語の違いだと言うのには、首をひねった。チェコ語にも「ヴォイチェフ」に相当する名前があるし、「アルベルト」という名前も存在しているのだ。チェコ語とドイツ語などの外国語で大きく形が変わる名前があるのは、いくつか知っているけど、この二つの組み合わせは聞いたことがない。

 とりあえず、チェコ語のウィキペディアで見てみたのだが、「メンチンスキ」は項目すら立てられていなかった。仕方がないので、読めないけど名前の表記ぐらいはわかるだろうと、ポーランド語版でメンチンスキを探してみると、名前の部分は以下のようになっていた。


Wojciech Męciński (Męczyński), Alberto Polacco, Albertus de Polonia



 最初がポーランド語での名前で、二つ目三つ目が外国語だと思うけど、どちらもポーランドの「アルベルト」とか「アルベルトゥス」という意味だろう。同一人物というのはこれで間違いはなさそうだ。問題は「Wojciech」と「Alberto/ Albertus」の関係である。これ以上はポーランド語版では手も足も出ないので、チェコ語版で「Vojtěch」を調べてみた。このときは、アルベルトと共通するあだ名が出てくればおもしろいぐらいの気持ちだったのだけどね。

 そうしたら、この名前の外国語での形のところに、ドイツ語、フランス語、英語では「Adalbert」になるという記述が出てきた。ラテン語では「Adalbertus」である。「アルベルト」そのものではないけれども、「アダルベルト」とアルベルトは音が似ていなくもない。
 ということで「Adalbert」も調べる。こちらはチェコ語でも使われるけれども、ドイツ語起源の名前で、同根の名前として、「Albrecht」と「Albert」があると書かれている。「Albert」のところにも同様のことが書かれていた。あら不思議、ボイテフとアルベルトがつながってしまった。

 しかし、語源の説明をみると、チェコ語の「Vojtěch」は、戦争や軍隊に関係するもので、「戦いの喜び」とか、「微笑む戦士」と解釈できるようだ。それに対して、ドイツ語起源の「Adalbert」のほうは、「高貴な者」とか「素晴らしい者」となっている。なんでこの語源の違う二つの名前が同じものとして扱われているのだろうか。

 答えは、「Adalbert」のところに書かれていた。チェコの聖人の一人、聖ボイテフが、「biřmovací jméno」(よくわからんけど洗礼名かな)として、おそらくはドイツ語やラテン語にこのスラブ起源の名前に対応する名前が存在しなかったからだろうけど、指導を受けたマグデブルグの大司教のアダルベルトに敬意を表して、その名前を使わせてもらったことによるという。それで以後、聖ボイテフは、西スラブ語圏以外では、聖アダルベルトとして知られることになったのだとか。
 それで、チェコ語のボイテフに相当する名前の西スラブ圏の人が、ドイツ語圏に出て活動する際には、アダルベルト、もしくはその派生形であるアルベルトという名前を使うようになり、ヨーロッパ全域に広がったということであろう。百科事典などの資料では、現地名、この場合はポーランド語での名前を使い、キリスト教関係の資料では、ラテン語の名前を使うということか。でもラテン語だとアルベルトルスになりそうだなあ。そうするとイタリア語の形かな。

 コメントを頂いたおかげで、前回たどり着けなかった結論にまで到達できた。ありがたいことである。最初ちょっと疑ってしまって申し訳ない。
2020年7月30日23時30分。






参照したウィキペディアのページは以下の通り。
https://pl.wikipedia.org/wiki/Wojciech_M%C4%99ci%C5%84ski
https://cs.wikipedia.org/wiki/Vojt%C4%9Bch
https://cs.wikipedia.org/wiki/Adalbert
https://cs.wikipedia.org/wiki/Albert






posted by olomoučan at 06:37| Comment(1) | TrackBack(0) | 戯言

2020年06月27日

オリエンタリズムと欧米コンプレックス(六月廿三日)



 すでに旧聞に属するが、日本の政治家の中でも口が軽く失言の山を築くことで知られる何とか大臣が、日本で武漢風邪の感染者、武漢風邪による死者の数が少ないことについて、「民度が高いから」なんて発言をして、あちこちから批判を浴びているというニュースが世上を賑わせた。この発言を知ったときには、欧米のマスコミの根拠のない日本批判と、それを無批判に引用して政府批判につなげる日本のマスコミによほど腹を立てていたのだろうと思った。
 何とか大臣の発言も、マスコミの報道のあり方も、一見立場を異にするように見えるが、どちらも欧米コンプレックスの発露にすぎず、その発露のしかたが違うだけで表裏一体の関係にある。だから批判するほうもされるほうも、同じ穴の狢であって、目糞鼻糞のののしり合いのレベルを超えることはない。

 そもそも欧米のマスコミの報道は、国内についてのものなら信用してもいいのだろうけど、アジア、特に日本に関する報道については、オリエンタリズムのバイアスがかかっているから信用に値するものはほとんどない。今回の武漢風邪騒ぎに関して言えば、日本の対応への批判は、差別意識、キリスト教文化圏に属さない日本が、先進であるはずの欧米よりも被害が少ないのはありえないという思い込みから出た根拠のないものに過ぎない。検査数が少ないから患者数も少ないというのは、一面の真実ではあっても、それを理由に日本の本当の感染者数は十倍以上いるはずだなんて言うのは、科学的な思考が欠落しているだけではなく、単なる言いがかりである。
 それをありがたく引用して大騒ぎする日本のマスコミは、欧米コンプレックスの塊で、欧米が言うことは白いものでも黒いと思うメンタリティを有しているとしか思えない。引用するにしても、その批判が正当なものなのかどうか検討してからにしろよと思うのは、ないものねだりなのだろうか。日本のマスコミも科学的な思考に欠けて、思い込みや妄想でガセの垂れ流しを報道と称して恥じない連中だから、検討しても形だけで終わるか。

 その一方で、外国で日本の在り方が賞賛されているなんて記事も見かけるけれども、それがスポーツ記事の穴埋めに使われるようなものであれば罪はないと言ってもいい。ただ欧米のメディアが日本を必要以上に称揚するのも、褒められたことではあるまい。日本の影の部分には目をつぶって、もしくは気づくだけの能力がなく、光の部分だけを大げさに取り上げるのもまたオリエンタリズムの発露の一形態である。それを無批判に紹介して日本は凄いと悦に入るのは欧米コンプレックスとしか言いようがない。
 去年のラグビーのワールドカップのときにも思ったけれども、少なくとも日本のマスコミに引用される欧米の日本賞賛記事には、相対化する視点が欠けている。二つの文化、社会を比べた場合に、どちらかがあらゆる面で優れているなんてことはありえない。欧米と日本を比べても、全面的に日本が駄目ということも、日本の方が優れているということもあり得ない。

 しばしば、いわゆる報道の自由に関して日本が酷い状態にあって、ヨーロッパとは比べ物にならないというようなことが言われるが、ヨーロッパにだって報道の不自由はある。キリスト教徒の少ないチェコに於いてでさえ、キリスト教関係、特にカトリック関係の報道には、隔靴掻痒なものが多い。今回の武漢風邪のヨーロッパでの流行にしても、教会が大きな役割を果たしたと思われるのに、批判の声はおろか、指摘する声さえ聞こえてこなかった。そもそもバチカンという宗教国家が存在することを誰も疑問視しないのが不思議である。
 これは、チェコ語の師匠から聞いた話だけど、師匠が住んでいた村で、聖職者ではなかったけど教会関係者が殺されたときに、ニュースにはなったけど、事件と関係していると思われる、その教会で行われていたことについては報道されなかったと言っていた。子供たちを集めて、指を切ってお互いの血を混ぜ合わせさせたりとか、秘密結社の入社式のようなことをしていたらしいんだけどね。師匠は政治的は判断でキリスト教会に配慮したんだろうなんて言っていた。

 もちろん日本には、報道の自由がないのではなくて、実はマスコミ自体が必要としていないという事実については、ヨーロッパの基準で評価する限り見えてくることはないのである。日本のマスコミが必要としているのは、対象となる個人を選択して、虚偽も交えた報道で袋叩きにする権利であって、真実を暴くための報道の自由ではない。首相などの政治家が袋叩きの対象に選ばれることはあっても、マスコミのやっていることは、不倫疑惑で芸人を袋叩きにする場合と大差ない。もう一つ、虚偽報道をしても謝罪したふりをすればなかったことにできる権利も、戦前とメンタリティーの変わらない大手マスコミには必要か。

 それはさておき、日本の生活習慣、日本人の民族性などを取り上げて、「民度が高い」などと称賛するのであれば、その民度の高さがもたらす負の側面を指摘して、相対化するのが少なくともジャーナリストを自認する人間の仕事じゃないのか。賞賛だけなら単なる日本ファンにだってできるのだし、感情的に批判するだけならおつむの軽い芸人にだって無能な政治家にだってできる。某大臣を批判するにしても、「民度が高い」おかげでこんなことも起こっていると指摘したほうが、馬鹿の一つ覚えで差別だ差別だと騒ぐよりもずっと効果的であろう。
 今回の武漢風邪騒ぎは、たしかに日本のいい面も浮き彫りにしたけれども、自粛を要請したり、強要したりするという日本語を破壊するような事態が起こるなど、自らは自粛しないのに視聴者に自粛を要求するテレビ局などのマスコミを筆頭に、「民度の高い」日本社会の悪い面もこれまで以上に表に出てきた。この両面に目を向けた日本に関する報道ってのは無理なのかね。チェコテレビならやれそうだけど、需要はないだろうなあ。
2020年6月24日15時。







https://onemocneni-aktualne.mzcr.cz/covid-19
https://www.krajpomaha.cz/











posted by olomoučan at 06:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年03月26日

ドイツ幻想(三月廿三日)



 何気なく書いたドイツ批判に反応してくれた人がいて、コメントを頂いてしまった。同感と言っていただけるのはありがたいことである。ドイツを批判して、同意してくれるのはドイツ在住者か、ある程度長期的に滞在経験のある人だけで、それ以外の大半には、こちらが大げさに言っているのだなんて思われてしまう。日本人のドイツに対する異常なまでの過大評価は、実は第二次世界大戦で同盟を結んでいたことに起因するのではないかと疑うのだけど、どちらかというと左よりの人たちがドイツを過大評価するのが皮肉である。

 1980年代半ばから中学、高校時代を過ごした人間が、繰り返し繰り返し聞かされてそれが真実なのだろうと思い込まされていたのが、日本の戦後補償というものが中途半端で恥知らずな非難されるべきもであるのに対して、ドイツの戦後補償はすばらしく日本も見習うべきだという主張である。いや、よく考えたら、90年代に入ってからの方が強く主張されていたかもしれない。
 この真実については、チェコに来てから、特に調べなくても、大嘘というか妄想の類であることがわかったのだけど、日本にいたころは、ドイツを疑う根拠となる事実を知りながら、何となくドイツのほうが日本よりましだと思っていたから、他人のことは批判できない。だからこそ、ことあるごとにドイツの悪口を書いているのだけどね。

 最初に、ドイツの戦後補償云々の話が怪しいと思ったのは、漫画の『マスター・キートン』の何巻だったか忘れたけど、東西ドイツの統合後の問題と、少数民族としてのロマ人、いわゆるジプシーの問題を絡めて描いた話を読んだときのことだ。ヒトラーが絶滅させようとしたのはユダヤ人だけではなく、実はロマ人も虐殺の対象となっていて各地の強制収容所に収容されて殺されていたのだが、この事実を知る人は少ない。そして、ドイツ政府は現在に至るまで、ロマ人に対する補償は行っていないのである。
 ユダヤ人の強制収容所に関しては、ドイツもお金を出して各地に戦争記念館のような形で保存されているが、ロマ人の収容所の跡地に関しては、チェコでもつい最近まで放置されてきた。ユダヤ人虐殺を否定すれば世界の敵扱いされて外交の面でも経済の面でも国が立ち行かなくなる可能性が高いのに対して、ロマ人に関しては補償しても他国から称賛されるわけでもないし、補償しなくても批判を受けることもない。そんな打算で、補償する、しないを、決めたとしか思えないドイツを見習えなんて悪い冗談にしか聞こえない。

 戦勝国、もしくは大戦で被害をこうむった国に対する補償にしても、これはチェコに来てから知ったことだが、少なくとも東側の諸国に対してはまともに行なわれていない。そこにはソ連の思惑があったわけだからドイツだけを批判するわけにはいかないが、ポーランド政府が、ドイツとその意向を受けたEUからの度重なる批判、ポーランドからすると内政干渉的な批判に腹を据えかねて、ドイツに対して第二次世界大戦の賠償を求めると言い出したのも理由がないことではないのだ。ドイツがそれに対して誠実な対応をするわけもなく……。
 1938年のミュンヘン協定以降、ドイツがチェコスロバキアの人々に与えた被害について賠償していないのに、戦後チェコスロバキアから追放されたかつてのヘンライン党の末裔たちが、ベネシュの大統領令の廃止とチェコに持っていた資産の返還と追放に対する補償を求めて活動するのを野放しにしてきたのがドイツである。チェコとスロバキアのEU加盟交渉に際しても、この手の集団が妨害に出ていたらしいし、盗人猛々しくも素晴らしい国である。

 環境問題では先進国として評価されているようだが、その科学よりも感情に基づいた政策に追随するとろくなことにならないのは、チェコのありさまを見ているとよくわかる。日本は外国に工場を建てることで公害輸出だと批判されていたわけだが、90年代のドイツはゴミをチェコに輸出することで国内のゴミ問題を解決しようとしていたから、どっちもどっちである。
 チェコがドイツとの国境を封鎖してからも、買い物のためにチェコに通っていたドイツ人の中には、不法にチェコへの入国を試みる連中が後を絶たないらしい。チェコの方が品質を問わなければ安く変えるものも多いのである。ただでさえ国境の通過点での検問に人を割かれて人員不足の警察では完全に対処することができず、マスクもせずにチェコ国内の営業中の店に現れるらしい。この話を聞いたときには、すでに亡くなったユダヤ系の作家、アルノシュト・ルスティクの伝説的名言、「ドイツ人はブタだ」というのを思い出して、思わず口に出してしまった。そしたら、うちのが「特に東側の連中は」と付け加えた。

 ここに書いたことは、ほとんどすべてすでにどこかに書き散らしたことがあるような気もするが、ひとつにはまとめていなかったと思うし、このブログの記事を通読している人なんでいないだろうから、いいことにする。
2020年3月24日16時。










タグ:ドイツ批判
posted by olomoučan at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年03月09日

言葉のもたらすもの(三月六日)



 日本のコロナウイルス関係の報道を見ていて気になることはいくつもあるが、その一つが、保健所(だと思う)が検査を求める人の要求を拒否したことに対する批判である。感染症対策を担う役所には、誰を検査して検査しないかを決める権限が与えられているのではないのか。その権限に基づいて拒否したところで、批判を受けるいわれはないはずである。
 検査と言ったり書いたりするのは気楽にできるけれども、この手のウイルスの検査には、特に危険視されているウイルスの場合には、手間暇がかかるものであり、検査できる数には限界がある。感染者が多発している地域から帰国したとか、家族から感染者が出たとか明確な感染を疑えるような理由がある場合はともかく、ある漠然とした不安から検査を求める暇人まで検査していたのでは、本当に必要な人の検査ができなくなる恐れがある。

 もちろん、拒否されてなお執拗に検査を求める人の気持ちも全く理解できない。以前も書いたが特効薬があるのなら、検査を受ける、それこそ全員が検査を受ける価値はある。しかし、この病気の場合には陽性でも陰性でも風邪薬を飲んで寝ているしかないのである。病気を治すために、そして感染の拡大を防ぐために大切なことは、熱などの症状がでたら仕事や学校を休むことで、行政の仕事は片っ端から検査をすることではなく、病気の人が仕事を休んでも困らない体制作りである。
 しかも、チェコでも一度陰性と判定された人が、再検査で陽性になった例も二件あるし、検査で陰性になったからといってそれで無罪放免というわけでもない。隔離された病院から退院する前にも院生の確認が必要になるなど、本当に疑いのある人に関しては複数回の検査が必要になるのだから、無駄な検査をしている余裕はないのである。

 こういう検査好きの日本人の振る舞いの中には、医者に行けば何とかなるとか、医者に行けば大丈夫という思い込みがあるのだろうか。その思い込み自体は、日本の医療制度が高いレベルで機能してきたおかげだと思えば、喜ぶべきことなのだろうが、病気について自分で考えずに医者任せにし、マスコミが垂れ流す真よりは偽のほうが多い情報を信じ込んでしまう原因にもなっていそうだ。

 ヒステリックなまでのこの病気に対する恐怖を作り出したのが、流行し始めのころの中国武漢の病院の惨状だったのは間違いない。それが、40パーセントの感染者は自覚症状がないとか、80パーセントは軽症で終わるとか、病気の軽さを示す情報が出てきても収まらないのはなぜなのだろう。感染が広まりやすい理由として、症状の軽さを指摘する人がいるのもその一因だろうが、最大の問題は、報道で使われている言葉にあるような気がする。
 このウイルスの感染力に関して、よく使われる言葉が「濃厚接触」という漢字を見れば意味は理解できそうな言葉である。人と人の接触だと考えれば、スパイ映画でもない限り、体の一部が触れ合うことであり、それに濃厚という言葉付いているのだから、抱き合ったり、キスしたり、もしくはエイズのように性行為を通して感染するのだろうと理解した。当初の死者が続出しているような情報は、簡単に感染しない病気の徴候を表わしているように見えたし。

 それが、全く間違っていたことを知ったときには、開いた口がふさがらなかった。医学の専門家が、正確性を確保するために、専門書で一般の認識とは違う意味で言葉を使うことまで否定する気はない。報道する連中はそれを、どうして一般的なわかりやすい表現に置き換えて伝えないのだろうか。専門家の言葉の垂れ流しにはマスコミなど不要である。専門家に対してわかりやすい言葉を使うよう求めるのも報道の役割ではないのか。恐らくは、非日常的な言葉の使い方をすることで、読者、視聴者に強い印象、具体的には恐怖を与えようとしているのだろう。
 最終的に、濃厚接触というのは、患者と同じ部屋の空気を吸うことだと理解したのだが、これって完全にインフルエンザの際に言われることと同じじゃないか。学校の教室にインフルエンザに罹った子供がいた場合に、その子供と同じ教室の空気を吸った子供たちの多くが連鎖的に感染するのも濃厚接触というのだろうか。現象としては同じだと思うのだが、こんな言葉聞いたこともなければ見たこともない。

 もう一つ気になったのはクラスターという表現。これも真っ先に思い浮かぶのは、パソコンのハードディスクに関する言葉だし、よくわからないけどクラスター爆弾とかいうものもあった気がする。そんな危険なもの(兵器はみな危険なものである)や、PC用語が病気に使われるというのも、よくわからない。この既知の言葉が違う意味や文脈で使われているというのも、恐れを増幅しているのだろう。
 専門家の発言を、わかりやすくかみ砕いて一般の人に伝えるのがマスコミの役割のはずなのに、日本のマスコミは、事件が起こるたびに、どれだけ専門用語をそのまま使うかで競い合っているように見える。それによって劇的な効果を狙っているのだろうが、その役割放棄なやり口が、使い方が間違っていることもままあるし、デマを生み、パニックをもたらしている。

 差別に関して、相手を知らないから差別するんだということを言う人がいる。気持ちはわかるが完全には正しくない。相手を全く、存在すら知らなければ差別なんて起こりようはない。問題は、中途半端な、断片的な知識しか持たないところにある。これは恐れに関しても同じで、何も知らなければ恐れることは何もない。中途半端な知識があるから、何となく恐れてしまうのである。
 今回のコロナウイルスの騒動も、中途半端な知識しかない非専門家が、専門家でもないのに専門用語をそのまま使って、中途半端な情報をまき散らし続けているところに最大の問題がある。正直、日本のテレビや新聞でのコロナウイルスは恐ろしいという報道を真に受けてしまうのも信じられないのだが、誤った情報でも間断なく絶えず浴び続けているとその人の知性に関係なく信じてしまうものなのかもしれない。ナチスの手法がこれじゃなかったっけ? チェコに住んでいたよかったと思うのはこんなときである。
2020年3月6日24時。









posted by olomoučan at 07:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年03月02日

安倍首相のヒステリー発動2(二月廿八日)



 日本では、今回の新型ウイルス騒動に関して、それっぽい症状が出ている人を病院で全員検査することを主張している人もいるようだが、個人的には正気を疑う。仮に自分が今日本にいたとして、感染を疑えなくはない症状がでた場合に、医者に行くかというと、断じて否である。仕事には無理して行ってしまうかな。

 医者に行かない理由は、簡単に言えば、風邪で熱が出たぐらいで医者に行くかよと言う話なのだけど、そこには一応自分なりのリスク計算がある。風邪にしても今回の新型ウィルスのもたらす病気にしても飲めば治るという特効薬はないわけである。せいぜい市販のものよりは効果の高い症状を抑える薬の処方箋をもらって薬局で買えるようになるだけで、それ以外は医者に行かなかった場合と差はない。
 体調が悪い中医者まで出向く行き帰りの体力的な負担を考えると、予約なしでいった場合には待ち時間も長くなるわけだし、家にある市販の薬を飲んで寝てしまった方がましである。医者の診察を受けたからこれで安心と思える人なら話は違うのだろうし、医者に行かなければどうしようもないところまで行けば、タクシー呼んででも行くだろうけどさ。いやその場合は救急車か。

 もう一つの問題は、医者、病院というところは、病気の人が集まる場所だということである。言い換えれば、現在チェコでも日本でも避けるように言われている、人がたくさん集まる場所以上に病気をうつされる可能性が高い場所だということになる。たかだか風邪で病院に出かけて待合室で別の病気をもらって帰ってきたなんてことになりかねない。風邪で体が弱っていると他の病気にもかかりやすくなるわけだし。
 今回の病気で言えば、仮に一般の患者と、新型ウイルスの感染者の待合室、診察室が別々になっているとしても、新型ウイルスの検査に集まる人が全員感染者というわけではないし、中には病気だと思い込んでいるだけの人さえいる可能性があるのである。そんなところにのこのこと出かけた場合、自分が感染していたら、他の人にうつすことになるし、感染していなかったらうつされることになる。そんな恐ろしいこと、できないと考えるのが普通じゃないのか。
 感染を恐れるということであれば、今回首相が休校を要請した学校や、自粛ブームになりつつあるイベントよりも病院にいくことのほうが恐ろしい。学校やイベントの場合は、健康な人が大半なのに対して、病院は健康な人は医療関係者を除けば、ほとんどいないのである。

 中国の武漢であんな恐ろしい事態が発生したのも、パニックになった人たちが、本当の感染者も、疑いがあるだけの人もこぞって病院に押し寄せたことが原因ではないのか。その数が病院で対応できる数を大きく超えた結果、大半は待合室どころか廊下にまで放置され、体力と病気に対する抵抗力を失ったことで、重症化し亡くなる人が増えたということのように思われる。犠牲者の中には病院に来たときには感染していなかった人も大いに違いない。
 そして、医者など病院関係者に関しては、不眠不休に近い体制での対応を強いられ、体力的にも精神的にも追い詰められたのが、犠牲者を出した原因であろう。過労の状態だと風邪をひきやすく、ひくと症状が重くなりがちで、治るのに時間がかかるというのは、われわれ一般の人間でも実感できるところである。ただでさえ過労の人が多いという医者に過度の負担をかけて医療体制を崩壊させないためにも、風邪ぐらいでは病院には行かないほうがいいのである。

 だから、安倍首相はこれまでどおり、マスコミや野党に何を批判されても無視して手をこまねいていればよかったのだ。それをマスコミのヒステリックな批判に引きづられて自分もヒステリーを起して、意味不明の対策を打ち出してしまった。こんなんで日本大丈夫かね。

 マスコミのクソ報道や安部首相の突然発的な対策とやらを見るに付け、今の日本で病気を正しい知識を元に、正しいレベルで恐れるというのは不可能に近いということを思い知らされる。安部首相がやるべきだったことは、学校の休校ではなく、自ら旗を振った「働き方改革」とやらの一環として、風邪を引いて熱が出たり、体調が悪くなったりした場合には、仕事を休める環境を作り出すことだろう。子供が学校を病欠する場合には親も休み、親が病欠の場合には子供も休めればなおさらいい。
 そうすれば、職場でも学校でも、通勤途中の電車の中でも、感染者の割合を大きく下げることができるし、仮にいたとしても周りが健康な人ばかりであれば、大きな問題は発生しないはずである。学校なんて、先生も生徒も風邪などで体調が悪い人は休むということさえ徹底すれば、不特定多数と接触することがないのだから、感染のリスクは限りなく低くなるはずだ。休校だからといって子供たちが家でおとなしくしているとも思えないし、塾や予備校なんかは休みにできないだろうし、学校が休みになってもあんまり意味はありそうにない。

 学校で集団感染が起こりやすいのは、風邪などで具合が悪くても休まないことを美徳とする日本的なメンタリティのせいである。以前チェコの日系企業の人から、日本から来ている社員に対して、熱を出したら出社禁止というルールを制定しなければならなかったという話を聞いたことがある。日本人は風邪であれインフルエンザであれ、高熱がでても頑張って出社してしまう。その結果、社内に感染が広まってしまうのである。
 一方チェコ人は体調不良で休むことをためらわないので、一人の日本人が一日無理して頑張った結果、チェコ人社員に欠勤者続出で大変なことになったらしい。しかも病院で病欠の証明書をもらうと最低でも一週間は出勤を禁止されるから、問題は一日二日では終わらないのである。日本ならうつされた人も頑張って出社するから大きな問題にはならないんだろうけど。

 自粛が要請されている人を集めるイベントに関しては、大金出してチケットを買った人に、熱があるなら来るなと強制するのは無理だろうし、イベント業者に返金させることも難しいだろうから、中止や延期が続出しているのも仕方がないのだろうなあ。
2020年2月29日25時。

















posted by olomoučan at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年03月01日

安倍首相のヒステリー発動1(二月廿七日)



 野党や、マスコミに様々なことで批判されても、ほとんど気にもかけない様子で、蛙の面にしょんべん的な面の皮の厚さを誇る我が日本の安倍首相だが、チェコの一部では日本における新型コロナウィルス問題が大きくなって以来、姿を見せなくなったじゃないかなんてことが言われていた。それが突然出てきたと思ったら、日本全国の小学校、中学校、高校の休校を求めるなんてはた迷惑なことを言いだした。社会が混乱するだけで、効果があるとは思えない。
 この手の災害対策は、何をやってもやらなくても、批判さえすれば支持を増やせると思い込んでいる野党や、売れれば何でもありのマスコミによって批判されるものである。今更有権者に対して点数稼ぎをする必要がないのが、首相の一番の強みなのだから、手をこまねいてみていてくれればよかったのに。野党やマスコミの主張が正しいのなら首相は無能である。無能は何もしないのが世のため人のためには一番じゃないのか。対策なんか求めるなよ。

 新しい病気のようなので恐れる気持ちはわからなくないけれども、人々をパニックに陥れて喜んでいるとしか思えないマスコミの報道には、いい加減にしろと言いたくなる。確かに流行が世界中で大騒ぎになり始めた頃の中国の病院の生き地獄ともいうべき惨状に、とんでもない病気が出現したものだと思ったけれども、その後病気の実態が明らかになってきて抱いた感想は、風邪と同じじゃねえかというもので、実はそんなに大騒ぎするほどの病気ではないように思えてきた。
 どちらもわけのわからないウイルスなどが原因で起こり、今回のは新型コロナウイルスとか呼ばれているけれども、何とかウイルスとか言われてもわれわれ一般人にとってわけがわからないのは変わらない。名前をつけて喜んだり安心したりできるのは学者連中とマスコミぐらいのものだろう。新型のウイルスということで未知の物であることが強調されているのも、一般の人の不安をあおる。ただ、実際には、すでにどこかにあった物が、たまたま今年大きな流行を起こして発見されただけという可能性もなくはなさそうだし、去年の風邪や一昨年の風邪の中にも、気づかれなかった新型のものがあったかもしれないのである。

 ウイルスが体内に入っても、発症しない人もいれば、軽症で済む人もいて、一部のお年寄りや持病もつ人たちの中に重症になる人もいるってのも、重症化して死亡する率は低いというのも、インフルエンザも含めた風邪と同じである。年によって、今年の風邪はお腹に来るとか喉にくるとかいうし、こじらせて重症化する人が多いと、今年のは特にたちが悪いなんてことも言うわけである。
 日本人は風邪を軽視しがちだけど、風邪をこじらせて肺炎を起こすなんてことはままあるし、その肺炎が悪化したら、死に至ることもある。だからこそ昔から風邪は万病の元なんていうわけである。特効薬がなくて、症状が出たら薬で熱などの症状を抑えながら、安静にしているしか対処法がないのも風邪と同じ。風邪なんて、特効薬を発明したらノーベル賞ものだなんて話もあるし、日本語の「は」と「が」の違い並みに厄介な病気のはずなんだけど。

 だから、今回のウイルス性の病気を、風邪やインフルエンザと同様に警戒し、恐れるというのであれば理解するけれども、日本のマスコミの大半は、ウイルスの危険性を声高に叫んで、人々を不安に陥れることを目的にしているようですらある。数でいえばはるかに多いはずの、インフルエンザが原因で亡くなった人の数についてはまったくと言っていいほど情報が出てこないのに、新型ウイルスに関しては死者の数どころか感染者の数まで事細かに伝えられ、実際の数ははるかに多いはずだなどと憶測する報道にゆがみを感じる人はいないのだろうか。
 その手の報道は、普通のインフルエンザの感染者数、死者数との比較がない以上、どの程度危険で警戒すべきなのかの判断もできないから、何の役にも立たない。報道機関を名乗るなら、どこぞの機関が発表した新型ウイルスの情報に、独自取材でインフルエンザ関係の情報を追加して、より有用な情報としてから拡散しろよ。

 これで仮に日本で新型ウイルスによる病気が大流行して犠牲者がたくさん出たとしたら、一番大きな責任は、政府ではなく、過剰に危険をあおり人々に不安を押し付けストレスを与え続けているマスコミが負うべきである。昔から言うではないか、「病は気から」と。長きにわたって病気への不安というストレスにさらされた人の免疫や病気に対する抵抗力が弱まるのは当然である。その結果、新型ウイルスが体内に入った場合に、本来であれば発症しない人が発症し、軽症で済んでいたはずの人が重症化して肺炎まで起こしてしまうという事態が起こりかねない。それどころか健康なのに不安から自分を病気だと思い込み、実際に病んでしまう人も出てくるだろう。

 その点、チェコの厚生省関係者が、現場の医師も含めて、騒ぎの当初から、必要以上に恐れる必要はないことを強調し、風邪やインフルエンザを防ぐための対策を徹底することが大事だと強調し続けているのはまったくもって正しい。外出後の手洗いうがいを徹底し、清潔で健康的な生活をしていれば、風邪はひきにくくなるものである。これをチェコでは農民の知恵と呼んでいるようで、これがあれば今回の病気も恐るるに足らずだってなことを医療関係者も政治家も口にしている。
 もちろんチェコにもクソマスコミはあるから、その報道にあおられて食料品の買占めに走るような連中がいないわけではない。ただ、政治家や専門家も含めた関係者が、終始一貫した言動を取り続けていることが、国民の精神的な安定に寄与しているということは言える。運のよさもあるのだろうけど、これも、農民の知恵ともども現時点でチェコで感染者が出ていない一因になっているような気がする。
2020年2月28日24時。










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2020年02月28日

ふざけんな、日本のテレビ(二月廿五日)



 職場で日本語のできる同僚にとんでもないものを見せられた。ネット上にあげられた日本のテレビ番組の一部のビデオで、チェコについてのものだったのだが、二人して見ながら「ありえねえ」「ひでえ、ひどすぎる」「うそばっかりだ」「くそだ」と罵倒の言葉を並べてしまった。途中からもう一人のチェコ人もやってきたので、事情を説明したら、怒りのと言うよりは、驚きの声を上げていた。日本のテレビがこんな大嘘を恥知らずにも放送することが意外だったようだ。
 ビデオのリンクを張ろうかとも思ったのだが、こんなもの見られてチェコはこんな国だと思われたら迷惑極まりないので、やめた。ちょっと説明しておくと、「世界の朝ごはん」とかいうコーナーで、チェコのプラハに住む若い夫婦が登場したのである。珍しくチェコが取り上げられたのはいいとしよう。ひどかったのはその中身である。

 朝ごはんと言いつつ、作っているのが肉料理、日本語での説明は意味不明だったけれども、出来上がった料理を見たら、「ベプショ・クネドロ・ゼロ」だった。これが典型的なチェコ料理だと言うなら何の文句もない。ただ、朝ごはんにこんなの食うチェコ人なんているか。いたとしても普通のチェコ人じゃねえぞ。
 まだチェコの典型的な朝ごはんの一つとして、500mlの瓶入りピルスナー・ウルクエルを持ち出されたほうがはるかにましである。昔は朝起きてピルスナー一本飲んで仕事に行くなんて人、掃いて捨てるほどいたらしいし。さすがに最近は仕事している人は無理だけど、年金生活者ならそういう生活をしている人を知っている。

 さらに、レバーを使ったクネドリチキのスープが付いた。ほとんどすべての家庭が共稼ぎであるチェコで朝食に普段からスープを作るなんてありえない。スープを朝食に食べるとしたら、仕事に行く途中のビュフェットで食べるか、前の日の残りを食べるときぐらいである。インスタントのスープならまだ可能性はあるか。
 そして、極めつけは、朝食にデザートと称してオボツネー・クネドリーキを作っていたこと。オボツネー・クネドリーキは、家庭で作る場合には、デザートとしてではなく、食事として食べるものである。この組み合わせのありえなさに比べたら、オボツネーを「ホボツネ」と表記し口にしていたのは、かわいい嘘である。

 忙しいチェコの家庭で、ベプショ・クネドロ・ゼロやオボツネー・クネドリーキを作るとしたら、週末の昼食である。夫婦とも退職して年金生活に入っていれば、平日から昼食に作るかもしれないけど。念のために指摘しておくと、チェコでは、三食とも自宅で食べる場合に、一番豪勢になるのは昼食である。夕食は昼食の残り物を食べたり、パスタなどの軽いもので済ませたりすることが多い。
 勘違いする人がいるかもしれないので強調しておくが、この番組で報じられたのは、間違いではない。制作側の意図的な大嘘である。普通のチェコ人に普段の朝食について取材したら、大抵は、いろいろなパンにバターなんかを塗ったものとチーズやハム、それにコーヒーか紅茶という答えが返ってくるはずである。手間をかける人の場合でもせいぜいスクランブルエッグや卵焼きなどの手軽な卵料理である。それではつまらないということで、制作会社がテレビ局の黙認のもとに、典型的なチェコの料理を、それも家庭では滅多に作らないものを作らせて、それを朝食に食べるという演出を要請したという事情が見えてくる。

 もし、仮に朝食にベプショ・クネドロ・ゼロとオボツネークネドリーキにレバーの団子の入ったスープなんて組み合わせを、わざわざ作って食べさせる妻がいるとしたら、それは遺産か保険金狙いで夫を早死にさせたい場合じゃないのかと言いたくなるぐらい、ありえない「典型的な」チェコの朝食だった。その作らせた料理がチェコの料理なのは確かで、信じてしまう人がいかねないというのも、明らかな嘘よりもたちが悪い。
 おまけに夫婦だという二人のチェコ語での会話が、単に素人がテレビに出て緊張しているという以上にぎこちなく、吹き替えっぽくも響く、こいつら本当に夫婦なのかとさえ怪しめるレベルのものだったし、どこから見ても完全に取材ではなくやらせだった。同僚なんて登場した夫婦のキスのしかたもありえんと憤慨していた。こんなのをニュースではないとはいえ、情報番組で報道して平然としているテレビ局も、そんな番組に出てあたかもそれが本当の情報であるかのように驚いたふりをしている出演者連中もひどすぎる。

 恐らく、日本のマスコミの連中は、このぐらいの小さな嘘は許容されるとか何とか言って、他社の番組であっても弁護するのだろう。しかし、チェコを知る者にとっては断じて「小さな」嘘ではないし、奴らの言う小さな「嘘」、小さな「演出」が許容されてきた結果が、今の日本のマスコミの功よりも罪の大きな現状である。日本のマスコミが「マスゴミ」と批判されるのもむべなるかなとしか言いようがない。
 こんなのを見せられると、何かあるたびに、「言論の自由」とか「報道の自由」とかわめくマスゴミ関係者には、盗人猛々しいという感想しか持てなくなる。不祥事が起こるたびに、謝罪と反省しかしない、いや反省したふりしかしない日本社会の典型がマスゴミなのだとしたら、報道の自由なんてないほうがマシである。

 ちなみに、この大嘘チェコの朝食は、「知っとこ!」という番組で放送されたものらしい。すでに終了した番組らしいが、こんな嘘垂れ流し番組が、情報番組として10年以上も続いたところが日本のテレビの病の深さを反映している。日本のマスゴミが嘘垂れ流し機関だったのは戦前から変わらないということか。三つ子の魂百まで忘れずってのはちょっと違うか。
2020年2月26日20時。









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2020年01月23日

プラハへの車中で環境問題に関する問題に思いを致す(正月十九日)



 7時半過ぎに到着したオロモウツの駅の構内も、レギオジェットの到着を待つホームも意外なほど人が多かった。気温は0度ぐらいだというが風が吹いていて寒く感じる。今回は一番厚手の上着は避けて、重ね着で暖かさを確保しようと考えたのだが失敗だったかもしれない。下着から合わせて6枚も重ねているんだけどね。この冬場の服装選びは何年たってもうまくならない。
 電車は5分遅れの表示だったから、10分近く遅れて入ってきた。自分の車両はこの辺だろうと予測して立っていた場所がかなりずれていてちょっとあわてた。オロモウツで降りる人もまた意外に多く土曜の、ショッピングセンターを除けばほとんど死んだ街になるオロモウツで何をするんだろうなんてことを考えた。午前中だけは開いているお店もあるのか。

 空は典型的なチェコの冬空で、どんよりとした雲に覆われ、霧が出ていて車窓からの景色もぼんやりともやがかかっている。ずっと部屋の中にいれば気にならなくなったが、チェコに来て一年目はこの陰惨な冬空に憂鬱な気分にさせられていたのを思い出す。その憂鬱さに打ち勝ってチェコに残れたのはビールのおかげというとチェコテレビの「ビール巡礼」になってしまうけれども、クソ寒い冬に、暖房の利いた暖かい飲み屋で、冷たい、美味しいビールを飲むというのは毎日の救いになっていた。
 2000年ごろは、冬になると入り口のところに厚いカーテンで仕切った小部屋を設けるところが多かった。不思議に思って師匠に聞くと、外の冷たい空気が中に入ってくるのと、中の暖かい空気が外に流れ出すのを防ぐためだと教えてくれた。最近では暖冬が多いせいかトンと見かけることもなくなった。雪も降らなくなったしチェコの冬が以前に比べると暖かくなっているのは確かである。夏も暑いと言いたくなる日が増えているし、気温が上昇傾向にあるのは確かだろう。だからと言って、このままでは地球温暖化のせいで取り返しの付かないことになると大騒ぎをするところまでは、知性の面で堕落できない。

 あの狂信的な大騒ぎには、部分的に賛同できるところはあっても、全面的な賛同となると小学校から大学まで日本の学校教育によって培われた我が知性が許してくれない。どんなに基準を緩めて評価しても、あの手の環境活動家、ほとんど環境テロリストの主張から、怪しい、胡散臭いという印象を消すことができない。本人たちが真剣に主張すればするほど、こいつら何も理解していないんじゃないかという思いが強くなる。そして、専門家、研究者を自称する連中には、80年代に石油枯渇説を声高に唱え原子力の利用を推進していた専門家たちと同じ匂いがする。
 畢竟、石油枯渇説が石油の価格を高止まりさせ、原子力推進に世論を動かすための方便であったのと同様、地球温暖化というのも、環境問題というよりは経済的な問題の側面のほうが強いのだろう。だから、利権につながる二酸化炭素の排出制限と、その排出枠の売買や、太陽光発電や電気自動車の推進については、これができなければ世界は終わるとでも言わんかのように大騒ぎするのに、金にならない砂漠化の防止や、植林による森の再生なんかには冷淡な反応しか見せない。

 科学的に世界の人々を説得できない連中が、知性よりも感情に訴えかけるヒステリックな手法を取っているのも信じられない理由の一つとなる。去年だったか一昨年だったかのプラスチックのストロー撲滅運動も、悪者を設定して執拗に攻撃することで世論を盛り上げようとするやり口にうんざりさせられた。プラスチックのストローが本当に環境に深刻な害を与えるというのなら、ストローの必要な飲み物販売をやめればいいだけの話なのに、紙のストローに変えましたとかなんとか、騒ぎを利用してイメージアップを図ると言うのには、昔名詞に「再生紙を利用しています」と印刷されているのを始めてみたときと同じような嫌悪感を抱いてしまった。
 プラスチックごみが海洋にまで氾濫して、それが生態系に悪影響を与えているのはその通りなのだろう。だから、清掃活動をして所定の場所以外に捨てられたごみを集めたり、ごみを減らす運動をしたり、過剰な包装をやめようと主張したりするのは、この上ないぐらい正しい。ただ、金にも時間にも恵まれた環境活動家たちが、海洋の清掃活動をしないのが理解できない。日本の捕鯨船に襲撃かけるぐらいなら、太平洋のごみベルト地帯に出かけてプラスチックごみを回収して来いよなんてことを考えてしまう。

 思い返せば、1990年代の日本では、環境問題に目覚めた人たちが割り箸撲滅運動を始めた結果、ただでさえ経営に苦しんでいた林業が大きな打撃を受けて、森が荒れる原因になったという笑えない話しがあったし、それよりも少し前には企業や役所にコンピュータを導入させるために、OA化すれば仕事が効率化できるだけでなく、紙の使用量も減って環境保護にもつながるという今日の視点から見ると詐欺としか言えない主張がなされていたが、現在の地球温暖化論者の主張にもこの二つと同じ匂いがする。つまりは無知ゆえの妄言か、意図的な虚報に聞こえてしかたがない。

 それにとどまらず、十代の女の子を運動の全面に立たせるような所業に出たときには、こいつら自分で責任を取る気がないのかと思ってしまった。件の、日本マスコミにはほぼ名前で「グレタさん」としか書かれていないので名字は覚えていないのだけど、そのグレタ氏については特に批判する気も、賞賛する気もない。十代の自分の正義を信じていられる時期なら、「大人には何でわからないんだ」という気持ちを爆発させるのは普通のことで、他人のことは言えないけど、過去を振り返れば、思い当たる人も多いはずだ。
 ただ、このグレタ氏がすごいのは、自らの正義を行動に移し、あきらめることなく継続したとことである。この点については賞賛以外の言葉は出てこない。許せないのは、そのグレタ氏を悪用し運動の前面に立てた大人たちである。地球温暖化防止の活動を批判する人=いたいけな女の子をいじめる大人という構図を作り出して、反対や批判をしづらくしているのだから、姑息と言うか何というか。これだけでも信用できない理由としては大きすぎるぐらいである。

 環境保護運動の趣旨、自然環境の破壊を防がなければならないというのにはもろ手を挙げて賛成してもいい。ただ、問題は、近年の環境保護運動は感情過多で、自らの正義を疑うだけの知性が存在しないところにある。だから、奴らのヒステリックな叫びには耳をふさいで、自分なりのやり方をこっそりひっそり続けるだけである。
 個人が環境保護、地球温暖化防止に多少なりとも貢献できるとすれば、それは頻繁に新しいものに買い換えるのをやめて、同じものをできるだけ長く使い続けることによってだろう。ということで、廿年ほど前に買った冬物の帽子と、十年以上前に買ったセーターとコートを身に着けて、プラハに向かったのである。書いたときにはうまく落ちたと思ったのだけど、読み返すとそうでもないなあ。
2020年1月19日23時。











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2020年01月19日

覚えることは悪なのか(正月十六日)



 日本の失敗に終わった大学入試改革をめぐる記事をあれこれ読んでいるのだが、気になるのは、改革を支持するというか、今の日本の教育制度を否定しようとする人たちが、勉強の中身を、覚えることと考えることに二分して、あたかも覚えることが悪いことであるかのように議論を展開していることである。そして、考えることを重視した教育をしなければならないというのだが、覚えた知識のない状態で、何を考えろというのだろうか。

 どんな学問、勉強にだって、最低限覚えこまなければならない、考えてもどうしようもない知識は存在するはずだ。仮にチェコ語を勉強するなら、最低限単語、名詞、形容詞の格変化、動詞の人称変化あたりは、四の五の言わずに覚えるしかない。これらのことすら覚えもしないままに、チェコ語について考えろとか言われても、それは無理な話である。
 考えるのは、覚えた後に、覚えたことを材料に、一般的に言われていることが正しいのかどうか考えたり、格変化の簡単な覚え方はないのか考えたりするという形になる。もちろんこんなことを考えるためには、格変化を一つや二つ覚えるだけでは不可能で、全体を見通せるだけの知識が必要となるのは言うまでもない。

 覚えこんだことをもとに全体を見通せる自分なりの理論を考え、その理論を個々の場面に当てはめて言葉を使うというのが、言語の学習において一般化できる考えるという営為であろう。気取った言葉を使えば、得られた言語の知識をもとに帰納的に自分なりの理論、もしくはルールを構築し、ルールを演繹することによって実際の使用に適用するのである。そのためには、基礎となる知識は多いに越したことはなく、また帰納と演繹を繰り返し、その正誤を確認することによって、さらなる知識を積み上げていくことができる。英語の学習で失敗したのは、最初の知識を積み上げる部分を怠ったからである。中途半端な知識で、いかに楽をするかを考える方向に走った結果、立て直せないところまで落ちてしまった。

 言ってみれば、覚えることと考えることとは学習のための両輪のようなもので、どちらか一方だけをしていればいいというものではない。ただし、初学のころには考える基礎となる知識を身につける必要があるから覚えることに重点が置かれるのは当然のことで、学習が進むにつれて考える必要が増えていくというのが理想的な学習のあり方であろう。覚えることを悪者にしている人たちの論を読むと、この基礎的な知識を覚えることさえも軽視しているようで、うすら寒い思いがする。

 さらに言えば、考えることを教えるというのは正しいのだろうかという疑問がわく。個人的な経験では、知識を積み上げていくうちに自然に始めていたのが考えるという行為で、誰かに教えられるようなものではなかった。危惧するのは考える授業ということで、考え方を教える授業になりはしないかということだ。
 考えるということは、自分なりの意見、考えを導き出すために行うことなのに、教科書に書かれた考え方に基づいて、教科書と同じような意見にたどり着くというのでは、教科書に印刷された意見を覚えるのと大差ない。これでは単に覚える範囲が広がっただけである。これが行き過ぎると、我々の高校時代の数学の授業のように、問題のタイプごとに、考えることなく自動的に公式、つまりは考え方を当てはめるようなことになりかねない。本来であれば考えて公式を選ぶ部分が効率化されるから、テストで点数は取りやすくなったのだろうが、なぜその公式を選んだのかと聞かれてもちゃんと答えられない人も多かった。

 大学入試改革を訴える人たちは、アクティブラーニングとかいう成功したという話はほとんど聞かない学習法の推進者でもあるのだろう。アクティブラーニングで重視されているらしい調べるという活動は、学習を考えることと覚えることに二分した場合には、どう考えても覚えるにつながる活動である。知職を求めて増やすために調べるのだから、そこに考える余地などは存在しない。調べた上で考えるというのならわかるけれども、覚えるよりも考える勉強だと言っている人たちが調べさせることを求めるというのは、全く理解できない。十分な知識のない子供は何を調べればいいかも自分ではわからないから、先生が調べること決めるなんてこともありそうだし、調べ方まで先生が指示しそうだなあ。そうなるとどこがアクティブなんだかである。
 勉強において考えることが大切だというのは、今に始まった意見ではなく、昔からずっと言われてきたことである。その上で、現在の日本人の学生が考えることができないというのが事実だとすれば、それは高校の授業で覚えさせるだけで考えさせないからではなく、小学校のころから、考えるために最低限必要な知識もないままに、考えることを強要され、意見の持ちようのないことにまで意見を求められてきた結果であるようにも思われる。そんなことに意見を求めるなと反論できるような子供はあまりいないだろうし。

 そもそも、考えるなんてことを高校の授業で何とかしようというのがおこの沙汰なのである。こういう学習における基本的なことは、小学校卒業までに身につけられなかったら、中学高校で身につけるのは困難極まりない。子供のころから考えるための知識を増やしてきた人は、おのずから自分でさらなる知識を求めて調べることも、身につけた知識をもとにあれこれ考えることもできるようになるもので、高校生にもなって考えることを教えられなければならない学生を大学に行かせようというのが間違っている。実効性のない高校や大学の教育の改善とやらに割く予算があるなら、やはり初等教育につぎ込んだほうがはるかに甲斐がある。
2019年1月17日9時。












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2020年01月09日

論理国語と文学国語?(正月六日)



 ちょっと調べたいことがあって、「honto」のサイトを開いたら、「国語の大論争」という「中公DD」というレーベルの本が出てきた。御曹司の暴走を許した結果、読売への身売りを余儀なくされた中央公論社には、新の文字がついてしまったのだけど、我々の世代にとってはあくまでも中央公論社である。中公の本って結構いいのがあったのになあ。森雅裕の本もたくさん出してくれたしさ。
 いや、そんなことはどうでもいい。うちのPCで「honto」を開くと「黒田龍之助」での検索結果が表示されるようになっていて、一番上に出てきたのがこの本である。師が文章を寄せられているということかと、内容を確認すると、新しい学習指導要領で高校の国語がえらいことになりそうだというので、識者があれこれ自分の意見を書いたうちの一つが師の文章らしい。「期待はしない、今も昔も将来も」という文章は、国語の授業に期待しないというのか、文部省に期待しないというのかはわからないけど、らしい題名である。

 それはともかく、本の内容紹介を読んでびっくりしたのが、新しい指導要領では、国語の選択科目に「論理国語」と「文学国語」というものが新設されるということである。それに対して、文学離れが進むのではないという危惧の声があるらしい。文部省が余計なことをして教育の現場を混乱に陥れ教育のレベルを落とすのはいつものことだが、これはどう評価すればいいのだろうか。

 ネットであれこれ見てみると、国際テストのPISAとかいうので国語の成績が悪かったことがこの文部省の自称改革につながっているようだ。しかし、数学ならともかく、国語のテストの結果で大騒ぎする必要があるのか。国語のテストなんて、設問の仕方、答えの設定の仕方で結果なんてどうにでも変わるものだ。高校時代、模試やら定期試験やらの記述式問題の模範解答を見て、ふざけるなと叫んだことは一度や二度ではきかない。PISAのテスト自体を疑ってかかるのが賢明というものである。
 それに、PISAのテストでは、グラフや表の読み取りも出たなんて話だけど、これって国語の枠内でテストすることなのだろうか。最近、いろいろな分野で、国際的な指標を使って日本を評価して、その結果に一喜一憂するのを見かけるけど、この手の数字、指標にはウラがあるものだから、そこまで重大に捉える必要はなく、何かの参考程度にしておくのが無難だと思う。

 ところで、さらに驚くのは、今回の改変に関して、反対している人も、賛成している人も、高校の国語に大きな意味を見出していることだ。個人的には高校の国語で勉強して、自分の日本語能力の向上につながったと感じるのは、古文漢文しかない。もちろん、教科書に出てきた漢字や、新しい語彙、言い回しなんかも役に立っていないとは言わないけど、濫読家だった関係で高校の国語の教科書で初めて見たなんてものはごく僅かでしかなかった。
 高校の国語の現代文の授業の良し悪しぐらいで、文章の読解能力が上がったり下がったりするもんか。大切なのは、子供のころからの積み重ねである。文部省は、謂うところの「論理的文章」とやらを読み解けない高校生が多いことを問題にしているようだが、そんなの高校で頑張ったところで手遅れとしかいいようがない。いや、先生の中にだって、論理的といいつつ非論理的な文章を書いたり話をしたりする人は山ほどいるのだ。

 それに比べて、小学校の国語の授業は役に立ったと思う。今でも覚えているのは、説明文とかいう文部省風に言うなら論理的な文章を読んで、段落ごとに重要な内容を要約していって、最終的には文章全体を要約するというのは、いい訓練になった。ただ、文学系の作品を分析するのは、小学校でやってもしょうがない気がする。子供のころは難しいことは考えずに、文章を味わえばいいのだ。そのために必要なのは、語彙、語法という基本的な知識である。仮に現在の日本の高校生の国語能力が落ちているのだとすれば、それは小学校での国語教育に力を入れていないのが悪い。それを放置して高校だけ変えても結果は変わるまい。

 個人的には高校の国語の現代文なんて、教科書は必要ないと考えている。文学作品でも、評論でも、自分の好きなものというと無理だろうから、先生が選んだ作品を読ませるだけでいい。その作品が気に入らない生徒には、その理由を述べさせた上で、納得できる理由であれば、自分で選んだ作品を読ませてもいい。
 何でもいいということにすると、最近の作家の日本語自体が危うい作品を選びかねないので、明治以降の文学作品やら評論なんかから、2000ぐらいリストアップして、詳し目の梗概をつけたものを現代文の教科書にしてもいい。そして、その中から詩歌、小説、評論を最低でも一冊ずつ読むというのを授業にするのだ。2000冊もあれば、一冊ぐらいは梗概を読んで、読んでみたいという作品が出てくることだろう。
 評価を読んだ冊数(頁数のほうがいいかな)で決めるなんてことにすれば、楽しい国語の授業になりそうだ。文系を自認する人間にとってさえ、高校の国語の授業は、文学的なものであれ、論説的なものであれ、退屈で苦痛でしかなかったし。高校の国語の授業を通じて文学好きになるなんてことはありえないから、どんな改悪があっても文学離れという現象は起こらない。同時に小学校の国語で読解力を身につけられなかった生徒の読解力が急に向上するとも思えない。

 最後に大山鳴動して鼠一匹にもならないのは、例のアクティブラーニングとやらと同じではないかと予想しておく。基礎的な知識が不足していれば、すべては「バカの考え休むに似たり」に終わるものである。
2020年1月6日24時。











タグ:日本 国語
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