2021年02月05日
アルノシュト・ルスティク(二月二日)
アルノシュト・ルスティクというと、真っ先に思い出すシーンがある。テレビでルスティクの生涯と現在を紹介するドキュメンタリー番組を見ていたときのこと、どんな文脈だったかは全く覚えていないのだが、「ドイツ人はブタだ」とドイツ人への悪口を現在形で吐き捨てるように口にしていたのである。ユダヤ人として第二次世界大戦中に強制収容所に送り込まれるなど、ドイツ人に迫害されていたルスティクが過去形で語っていたら、当然のことと考えてあまり印象に残らなかったのだろうが、現在形で、しかも強い口調だったから、忘れられなくなってしまった。
恐らくは、戦後の雌伏の期間を経て、東西ドイツが再合併してEUの中心になったドイツが、経済力を背景に旧共産圏の諸国でやりたい放題していたことに批判的だったのだろう。もしくは、敗戦を経て一見変わったように見えるドイツ人たちのメンタリティが、実はその根本の部分では変わっていないことを警告する意味があったのかもしれない。
この手の、「○○人は○○だ」的な決めつけ、特に批判、罵倒の目的でなされる決めつけは、しばしば差別だとして批判の対象になるが、なぜかドイツ人と日本人という第二次世界大戦で負けた国に対する罵倒は問題にされないことが多い。この辺も、いわゆる「ポリコレ」ってのを受け入れる気になれない理由になっている。とはいえ、ルスティクの「ドイツ人はブタだ」という罵倒を批判する気はないし、ドイツがやっているからというだけの理由で賞賛する一部の日本人もおつむの中身が「ブタ」だよね。
さて、本題である。ルスティクの作品の日本語訳は、1960年代後半に集中して現れる。作品の多くは第二次世界大戦中のユダヤ人を題材にしている。以下の書誌情報は国会図書館オンラインで検索した結果である。
➀栗栖継訳「一個のレモン」(「太陽」第3巻10号、平凡社、1965.10)
この作品については、原典が何かも、どうして「太陽」なんて雑誌に乗ったのかも不明。オンライン目録では、舞台芸術家の朝倉摂の名前も付されているが、翻訳ではなく挿絵を担当したものかとも思われる。
A訳者不明「私たちの生れてきた世界」(「世界」241号、岩波書店、1965.12)
こちらはさらに訳者名まで不明。岩波の雑誌であることを考えると栗栖訳である可能性は高そうだ。同時に雑誌の性質、同号の目次に並ぶ記事を見ると、小説ではなく、エッセイの類ではなかろうかとも思える。
➂栗栖継訳「闇に影はない」(「新日本文学」第21巻4号、 新日本文学会、1966.4)
原典は1958年に刊行された短編集「Démanty noci(夜のダイヤモンド)」に収録された「Tma nemá stín」。チェコ語版のウィキペディアによると、「Tma nemá stín」はビロード革命後の1991年に単行本化されているようである。
日本語訳のほうは、1967年に恒文社から刊行された『現代東欧文学全集』第11巻に収録されている。前年の雑誌発表は、全集の宣伝の目的があったものかもしれない。この全集は1966年から69年にかけて全13巻で刊行されたもので、チェコスロバキアの作家は10巻と11巻があてられている。11巻には、ルスティクの作品以外にも、イジー・バイルの「星のある生活」が収録されている。
その後、この全集の11巻は、単行本化され内容は変わらないまま『星のある生活 少女カテジナのための祈り : 他』(1971)、『星のある生活』(1978)と題名と版を改めて刊行されている。国会図書館のオンライン検索では、『星のある生活』に「第4版」という情報がついているが、この題名での第4版なのか、全集から合わせて第4版なのかわからない。個人的には後者だと認識している。
C栗栖継訳「少女カテジナのための祈り」(『現代東欧文学全集』第11巻、恒文社、1967)
原典は『Modlitba pro Kateřinu Horovitzovou』(1964)。第二次世界大戦中にイタリアのシチリアで起こったユダヤ系のアメリカ人一家をドイツ軍が拘束した事件を基にした物語らしい。1965年には著者本人の手で脚色されて長編テレビドラマが制作されている。監督は「チェトニツケー・フモレスキ」のアントニーン・モスカリク。ちょっと見たくなってきた。
D栗栖継訳「一口の食べ物」(『現代東欧文学全集』第10巻、恒文社、1967)
原典不明。特に書くべきこともない。
E野口忠昭・羽村貴史訳『愛されえぬ者たち : ペルラ・Sの日記より』(吉夏社、2007)
次の日本語訳は60年代、いや『星のある生活』の刊行された70年代末からも大きく飛んで、2007年の刊行である。原典は『Nemilovaná: Z deníku sedmnáctileté Perly Sch』(1979)。テレジーンのゲットーの売春婦の日記という体裁で記された作品。日本語に訳した人たちの情報もほとんどないのだが、チェコ文学、チェコ語の世界で聞いたことのある名前ではないので、英語からの翻訳だろうと推測する。それを裏付けるのはhontoのこの本のところに、「1986年全米ユダヤ図書賞(小説部門)受賞」とあることである。ルスティク自身が英語に訳した可能性もなくはない。
出版社の吉夏社もあまり聞かないが、こういう作品を刊行してくれるということは、ユダヤ系の文学に力を入れている出版社だと考えていいのだろうか。その前に、社名の読み方は「きっかしゃ」でいいのかな?
チェコ語版のウィキペディアによると、ルスティクは「プラハの春」に対するワルシャワ条約機構軍の侵攻がおこった1968年8月21日の時点でイタリアに滞在しており、そのままチェコスロバキアに変えることなく、ユーゴスラビアを経てアメリカに渡り、アメリカに活動の場を移したという。チェコに戻ってきたのは、ビロード革命後のことで、1995年にはチェコ語版の雑誌「Play boy」の編集長になったことで話題を集めたらしい。
ルスティクが亡くなったのは今からちょうど10年前の2011年2月のこと。享年84歳。プラハのジシコフにある新ユダヤ人墓地に葬られた。
2021年2月3日24時。
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