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2018年02月24日

H先生と(二月廿一日)



 このブログに恐らく一番登場しているであろうコメンスキー研究者のS先生が、執筆中の著書に関係してチェコ、スロバキア、ポーランドのコメンスキーゆかりの地を回るついでに、オロモウツにも寄ってくださったので、例によってチェコのコメンスキー研究者のH先生に連絡を取った。夏にお会いしたときに、次は、先生の負担にならないように、我々が先生の住む村に出向くと約束していたので、オロモウツとプシェロフの中間にあるブロデク・ウ・プシェロバ(Brodek u Přerova)まで足を伸ばした。
 ブロデクというのは、恐らく川の浅瀬とか渡り場を意味する「ブロト(brod)」の指小形からできたもので、コメンスキーの生地として比定されている土地のひとつが、ウヘルスキー・ブロト(Uherský Brod)であることを考えると、運命のいたずらのようなものを感じてしまう。さっき思いついたところなので、まだH先生には言っていないのだけど、次の機会があったら言ってみようと思う。

 ブロデクの駅に着くと、駅舎から線路の反対側にある巨大な建物が取り壊されているのが目に付いた。オロモウツからこちら側に鉄道で足を伸ばすのが久しぶりだったので、驚いて目を離せないでいると、H先生が、製糖工場だったんだけど、フランスの会社に買収されて、買収されたと思ったら工場の取り壊しが始まったと残念そうに教えてくれた。チェコでサトウキビの栽培ができるわけではないので、原料はテンサイとかサトウダイコンと呼ばれる作物である。
 チェコの製糖業はEU加盟後に生産制限を科されて苦しんでいたのだが、その影響がフランス企業による買収という形で現れたのだろうか。サトウキビから作るラムにちなんで、チェコではテンサイから作るお酒をルム(つづりもチェコ語での発音もラムと同じ)と称していたのだけど、これも原産地がどうこう言う話になって、現在ではトゥゼマークという名前に変わってしまっている。若い人はともかく、年配の人は今でもルムと呼んでいるみたいだけど。この辺りがね、EUの画一的すぎて嫌がられるところなんだよ。

 H先生は駅のホームを離れるところから見える建物を指差して、あの建物にはアメリカの兵士が隠れていたんだとおっしゃる。第二次世界大戦終盤にこの辺りまで飛んできたアメリカの飛行機が撃墜され、そのパイロットをブロデクの人がかくまっていた。ゲシュタポに発見されないように、昼間は下水道の中に隠れ、夜は建物の中の藁の中で寝て、深夜になるとお菓子やさんが自宅に連れて行って食事をさせていた。それが半年ほど続いたらしいのだけど、終戦後お菓子屋さんには、アメリカの大統領から感謝状が送られたのだという。
 そんな話は、当然共産党政権下ではタブーになっていて、誰も話題にしないまま忘れられていくところだったのをH先生が発見して、地元の新聞に発表したところ、当時のことを覚えている人たちが先生のところに来て昔の話を思い出し思い出し話してくれるようになったそうである。人間の記憶というものは時間とともに風化していくけれども、同時に何かきっかけがあれば意外にはっきりと思い出せてしまうものでもある。
 先生のお宅に着くまでの間も、あそこにアメリカのパイロットをかくまっていたお菓子屋があったんだとかあれこれ話を聞いていて、駅からすぐのところだというのに気づいておらず、帰りにこんなに近かったのかとびっくりすることになる。

 先生のお宅の玄関を入ると、階段の上り際に古びたアメリカの国旗とちょっと色遣いのおかしいソ連の国旗、イギリスの国旗が飾ってあった。それは、第二次世界単線終戦直後に、先生の家の隣にあった薬屋さんが、戦争が終わったことを祝って飾ったものだという。以前アメリカの人が先生のところに来たときに、金を出すから売ってくれと言われたけど断ったと仰っていた。
 壁にはコメンスキーに関するレリーフの模造がいくつかかけられ、無造作に床に置かれた箱の中に収められていた化石は、マンモスの物だった。生まれ故郷のブロデクの隣の村ツィートフで準備している展示の手伝いをしていると仰るのだが、その村でマンモスの化石が発見されたということだろうか。モラビアのこの辺りでは、マンモスというとプシェロフが有名だけれども、プシェロフで発見されたということは、周囲の町や村で発見されてもおかしくないということである。

 他にもあれこれ考古学的な遺物だけでなく、民俗学者が喜びそうな古い道具なんかが置かれていて、小さな博物館にでも入り込んだような気分になった。案内されて一緒にワインを飲んだ書斎には本棚が置かれ日本語のコメンスキー関係の本も何冊か並んでいた。一冊『世界図絵』が上下さかさまになっていたので、「チェトニツェー・フモレスキ」のベドジフ・ヤリーよろしく、さかさまになっていますよと言って正しい向きに入れなおしたのだけど、こんなことを書いてもわかってくれる人はいないか。
 H先生は奥さんから整理ができていない家に外国からのお客さんを呼ぶのかと怒られたと言っていたけれども、我々日本人二人の目には十分以上に整頓されているように見えた。そういうとお客さんがたまに来ると、大掃除をする理由になるからいいんだよと笑って仰る。以前M先生と奥様も訪問されたことがあるらしいので、三人目と四人目の日本人だということになる。名誉なことである。

 本当は去年の秋にH先生がドイツ政府から勲章をもらったので、直接お祝いを伝えるのも目的だったのだけど、あれこれ話している間にちゃんといえないまま終わってしまった。S先生はちゃんといえていたのだから、こちらの失敗なのだけど、H先生に、一番の勲章は遺族の方々からもらった感謝の言葉だとか、あのときは日本からもたくさんお祝いをもらって嬉しかったんだなんてことを言われて、タイミングを逃してしまった。叙勲のニュースを知ったときにはすぐにメールでお祝いを送ったし、M先生からのお祝いの言葉の仲介したしよしということにしよう。

 それにしても、H先生が、昨年の夏にお会いしたときよりはずっと元気に見えたのが一番嬉しかった。しばしば老い先短いなんてことを仰る先生の人生が少しでも長く続くことを願ってやまない。
2018年2月22日20時。






ヨハネス・コメニウス 汎知学の光 (講談社選書メチエ)








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