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2018年12月11日

ačとať〈私的チェコ語辞典〉(十二月六日)



 この二つの言葉は、時々どちらがどちらかわからなくなるというか、「ač」を目にしたり耳にしたりしたときに、「ať」だと思ってしまうことがあるのだが、意味は全然違う。その説明に入る前に、間違いやすい理由を指摘しておくと、チェコ語のカタカナ表記に行きつく。「č」も「ť」も語末では子音だけの発音になり、カタカナで書くときに「チ」もしくは「チュ」と書かれることが多い。日本のチェコ語関係者は、「ť」に「i」を付けた「ti」を、「či」と同様に「チ」で書くべきだと主張しているため、子音のみの「č」と「ť」も同じ表記をされてしまうのである。
 その結果、「ač」も「ať」も、「アチ」「アチュ」と書かれ、同じように発音するようになり、区別できなくなってしまう。これも個人的に「ti」を「チ」と書いたり、「ティ」と書いたりして統一していない理由の一つである。子音のみの「ť」をどう書くかも決めかねているのだけど、「ať」だけでも表記が揺れていれば別物として認識しやすくなる。と言いながら混同することがあるのだから仕方がない。

 この二つのうち、どちらを自分でよく使うかというと、断然「ať」である。日本語で命令形で処理するような、命令ではない表現をこの「ať」で表すことができる。この説明ではよくわからないだろうから、具体的な例を挙げると、「行くにしろ行かないにしろ」の命令形で表されている「にしろ」の部分にあたるのが、「ať」なのである。この場合は「ať půjdu nebo ne」なんて訳せるわけである。文体によっては「であれ」、「にせよ」と訳してもいいだろう。
 だから、同じ命令形を使った「何であれ」「誰であれ」なども、もちろんこの「ať」で表すことができる。それぞれチェコ語では「ať je to cokoliv」「ať je to kdokoli」となる。日本語でもチェコ語でもパターンが確立しているから、一見難しそうに見えて、知っていれば簡単に使える表現である。ということで、使えるようになったばかりの頃は連発していたものだ。

 もちろん、日本語の枠内で考えるなら、むりやり命令形を使って訳す必要はない。「行くにしても、行かないにしても」とか、「行く行かないにかかわらず」なんて訳し方をしても問題はない。問題はないのだけど、命令形で訳したくなるのは、チェコ語の「ať」に命令形的な意味があるからである。命令形とは言っても二人称ではなく三人称の動詞と組み合わせて使うもので、目の前でもたもた仕事をしている人を見て「ať to dělá」と現在変化と合わせて「とっととやれよ」と独り言を言うときなんかに使う。

 それから、「Řekni mu, ať mi píše mail」のように、「あいつにメールくれと伝えてくれ」とか、「メールをくれるように伝えて」なんて、直接話法的に命令形で訳したり、間接的に「ように」を使って訳したりできる文も作れる。二人称の命令と、三人称の命令を同時に使うというなかなか面白い文なので、これも一時期よく使った。文法的に特徴のある文というのは使いたくなるものである。
 この命令的な「ať」が慣用句に使われているものとして、「ať žije」がある。これは日本語の「万歳」と同じような使い方をされる。たとえば「ať žije císař」であれば、直訳すると「皇帝、生きよ」となるのだが、ようは皇帝が長生きすることを祈るもことばなのである。日本の「万歳」も「一万年」つまりは「永久に」生きることを祈るところからきているはずだから、発想は同じである。

 これに対して、「ač」のほうは逆接の接続詞なので、「〜けれども」「〜にもかかわらず」などと訳すことが多い。自分では「ať」との混同を避けるために使わない。使わなくても逆接の表現は、「ale」をはじめとして十分に存在しているから困らないのである。それに、「ač」には「ačkoliv」「ačkoli」という長い形も存在するから、どうしても「ač」を使わなければいけない理由もない。問題は、文章を読んでいて出てきたときなのだけど、「ač」よりも「ačkoli」を見かけることのほうが多いような気もする。

 繰り返しになるが、「ač」を見て「ať」と間違えることはあっても、その逆はない。その差は実際に自分で使っているかどうかである。ついつい自分の知っている、よく使う表現にひきつけて理解、いや誤解してしまうのである。「ač」と「ať」の場合には、最初誤解したとしても、文脈から誤解に気づけるから実害はないのだけどね。
2018年12月7日23時25分。









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