あの上杉謙信が攻め落とした城の跡地を訪ねました
<騎西城>きさいじょう
こちらは模擬天守です。実際には天守閣のない城でした。かつてこの地に城があったことのシンボル的な存在で、内部は資料館になっています。
■成田氏配下の城■
騎西城の築城年は不明ながら、15世紀半ばには既に存在していたと考えられています。戦国時代に城主だった小田顕家が、忍城を本拠とする成田氏から養子迎えて家督を譲ったことで、騎西城は成田氏と縁戚関係の城となります。この時、小田顕家本人は隠居。これが本人の希望だったのか、あるいは成田氏からの圧力だったのか、背景はちょっと分かりません。
■軍神が襲い掛かった城■
成田氏からの養子である小田朝興(ともおき)が城主だった時に、上杉謙信率いる軍勢が騎西城に襲い掛かります(1563年)。これには深い事情がありました。
この歳、謙信は小田原北条氏と武田氏の連合軍に包囲された松山城を救うべく、越後から関東へ兵を進めていました。松山城は現在の埼玉県東松山市です。新潟からはちょっと遠いですね・・・。上杉謙信に与する関東武士・太田資正が激しく抵抗しますが、岩槻城主に過ぎない武将が、単独で巨大勢力に立ち向かうには限度があります。越後からの援軍が到着する前に、城主上杉憲勝が降伏して松山城は陥落。この結末が、謙信の騎西城攻撃に繋がったと考えられています。
■太田資正の進言■おおたすけまさ
兵を率いて山を越えながら間に合わなかった謙信は、松山城を任せてあった太田資正に相談(実際は複雑なやり取りがあったと思われますが、ざっくり言うとそうなります。補足すると、松山城は資正が北条氏から奪還した城でしたが、それをまた奪われた形となっていました)。資正は兵力を持て余す謙信に対し、騎西に城があり、これを守る小田朝興は忍城主成田長泰の弟で、実質的に忍城の支城であることをほのめかします。忍城の成田氏は、もともと上杉謙信に従っていながら、小田原北条氏に鞍替えした経緯があります。つまり敵です。謙信は8千騎とも伝わる大軍で騎西城を攻め落としました。
<天神曲輪跡>てんじんくるわあと
決戦の場が松山城であったなら、素通りされたわけですね。
<説明板と縄張り図>
[出典:現地説明板]
埼玉県の城にありがちですが、ここも沼に囲まれた平城でした。謙信もこの城の要害性を認めています。
■つわものどもが夢の跡■
小田原北条氏の勢力が拡大しつつある武蔵国にあって、岩槻の太田資正は上杉側の最前線としてこれに抗いました。謙信から信用されているこの武将の助言が、そのまま上杉軍の騎西城攻めに繋がったわけですね。
<土塁跡>
■訪問
騎西城跡(私市城跡)
[埼玉県加須市根古屋]
■出典及び参考
・現地説明板
・Wikipedia:2021/6/11
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