埼玉県加須市の騎西城跡を訪問しました。
<土塁跡>
こちらは土塁跡。騎西城のなごりです。
■現地訪問■
<模擬天守>きさいじょう
こちらは模擬天守です。騎西城は江戸時代初期まで存在していた城ですが、実際には天守閣はありませんでした。この地にはかつて城があったことのシンボル的な存在ですかね。
<資料館>
内部は資料館になっています。よく見れば近代的な鉄筋コンクリートの建物ですが、遠目には城の雰囲気が漂います。
<天神曲輪跡>てんじんくるわあと
標識によりここがかつて騎西城の曲輪だったことが分かります。遺構はほぼなく、冒頭の土塁のみと言って過言ではありません。
<障子堀跡>
いまは道路となっていますが、ここにはかつて障子堀があったようです。ちょっとした砦ではなく、本格的な城だったことがうかがえます。
<説明板>
騎西城の歴史とともに、縄張り図が記されています。沼に囲まれた平城だったようです。
<城山公園>
なんとなく城跡らしい雰囲気が漂う公園ですが、遺構はありません。
現地で「これは土塁跡でもおかしくはない?」と感じましたが、そんな説明はどこにもなく、更に帰宅してから調べると、位置的にあり得ないようです。残念・・・
■ 城の歴史 ■
現地説明板にも『いつ誰の手による築城かし不明』とあります。続いて『康正元年(1455年)、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る城を、古河公方・足利成氏が攻撃したのが初見である』と記されていますので、遅くても15世紀半ばには存在していたようです。
足利成氏は鎌倉公方の5代目で、本拠を古河に移して初代の古河公方となった人物ですね。あと、ここでいう『上杉』は深谷上杉氏のことと受け止めさせて頂きます。
■巨大勢力の狭間の城■
戦国時代の関東の城にはありがちなことですが、騎西城も越後の上杉氏と小田原の北条氏という巨大勢力の狭間で翻弄された城です。忍城を本拠とする成田氏と縁戚関係の城となってからは、成田氏が上杉謙信(長尾景虎)に従えば上杉氏、北条氏に従うなら北条氏が支配する城となりました。
1563年(永禄6年)、北条配下であった騎西城は、上杉謙信率いる軍に攻め落とされています。これは武州松山城の救援に間に合わなかった上杉軍が、北条に与する成田氏配下の騎西城に急遽矛先を向けたためでした。この時の城主は成田氏からの養子である小田朝興(説明板だと『小田助三郎』)でした。
さらに約10年後、古河公方の関宿城が北条氏に攻められた際、これを救出すべく出兵した上杉謙信は騎西城(及び菖蒲城)の城下を焼討ちにしています。
仮に上杉に味方していても、北条に攻められたことでしょう。戦国時代の騎西は大変な場所だったわけですね。
■北条氏滅亡後■
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏は滅亡。関東に徳川家康が入ると、騎西城には松平康重が2万石で入りました。関ヶ原の戦いの後、松平康重は常陸笠間3万石に加増となり、代わりに大久保忠常が騎西城主となりました。松平康重は、家康の実の子ではないかと噂された人物。大久保忠常は、小田原城主で老中にもなった大久保忠隣の長男。江戸から近いこともあり、武州騎西にはそれなりの人物が抜擢されたわけですね。
<つわものどもが夢の跡>
忍城成田氏の影響を受けた騎西城は、上杉と北条の攻防戦の舞台となり、やがて徳川配下の城となりました。騎西が川越藩領となる時に城としての役割を終えました(1632年)。
---------■ 騎西城 ■---------
別 名:根古屋城 山根城
私市城(きさいじょう)
築城主:(諸説あり)
築城年:不明(15世紀半ば?)
改修者:松平康重
城 主:佐々木氏 小田氏
松平氏 大久保氏
廃城年:1632年
[ 埼玉県加須市根古屋 ]
■出典及び参考
・現地説明板
・Wikipedia:2021/6/11
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