<現地>
といっても実物を見ることは叶いません。ここは埼玉県加須市の騎西城跡。かつて障子堀があった場所は道路となっており、説明板が設置されています。
<説明板>
城の歴史とともに、発掘調査のことが記されています。とても貴重な情報ですので、そのまま抜粋させて頂きます。
『障子堀とは堀の中に畝を堀り残し、敵の侵入を阻害するもので畝堀とも呼ばれる。
ここで発見された障子堀は戦国時代のもので、堀の幅は約五十メートルである。
堀の中には、深さ約一・五メートルの擂鉢状の穴が整然と並んでいる。障子堀は後北条氏が支配した城に多くみられるが、このような構造は全国的にも珍しい。
堀からは南北朝期の特徴を残す兜が出土し、全国的にも発掘例の少ないものとして注目されている。これらは戦乱に明け暮れた騎西の姿を、髣髴させるものである。
加須市教育委員会』
加須市教育委員会さん、ありがとうございます。とても分かり易いですが、当ブログに城の予備知識がほぼない方が訪問してくれることも期待して、僭越ながら補足させて頂きます。
まずこの『堀の中に畝を堀り残し』という言い回しが、そのまま障子堀の造り方の説明になっています。穴と穴の間の壁のことをここでは畝(うね)と呼んでいますが、一般的にこの部分を障子といい、「隔てるもの」という意味になります。この障子(つまり畝)は土を盛るのではなく、穴を掘る時に残す(掘らない)という工程で形になるということですね。『畝堀とも呼ばれる』とありますが、比較的規則正しい間隔で穴が施されている障子堀を畝堀と呼ぶのが一般的だと思います。文字だけだと伝わりにくいので、他の城になりますが、実例をご紹介します。
<障子堀の実例>
こちらは障子堀で有名な中山城で撮影した画像です。貴重な遺構を保護するために表面に芝が植えてありますが、実際は土でした。堀の底に隔てるもの、つまり障子(畝)があることから障子堀と呼ばれています。何となくイメージして頂けたと思います。
さてさて
ここからは補足ではなく驚きです。説明文には『堀の幅は約五十メートル』とあります。50メートルは普通の堀でもかなりの幅ですが、障子堀としては聞いたことがありません(少なくとも私は)。そのあとの『深さ約一・五メートルの擂鉢状の穴が整然と並んでいる』は納得できます。また、障子堀は小田原北条氏が支配した城で多くみられることも納得です。ただ、50メートルの障子堀がとにかく驚きです。文中にもありますが、全国的にも珍しいのではないでしょうか。
ここでもう一度山中城の障子堀を見てみましょう
<中山城>
山中城は山城です。ご覧の通り障子堀の先には更に斜面が立ち塞がります。攻め手は障子堀で動きを制限された上に、高低差を利用した城兵の攻撃にさらされます。これでは堪りませんね。
一方
騎西城は平地に築かれた平城です。
<説明板と縄張り図>
[撮影:現地説明板]
ご覧の通り、城は沼に囲まれています。これはこれで天然の要害といえますね。ただ、山城のような高低差による有利さはありません。
関東を支配した北条氏配下の城には、確かに平城もたくさんありますが、重要拠点とした城はそのほとんどが山城です。支配下となった騎西城の平坦な地形を見て、念入りな施しが必要だと考えたのかもしれませんね。
<発掘調査時の航空写真>
[撮影:現地説明板]
その結果が50メートルもの幅の障子堀だったのかもしれません
以上です。
今回の内容には、いつも以上に私個人の推定が含まれています。城好きというだけで普通の会社員ですので、その程度に受け止めて下さい。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:騎西城跡
[埼玉県加須市根古屋]
■参考及び出典
・現地説明板
(加須市教育委員会)
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タグ:埼玉
昔の人たちの人力によるお仕事には驚かされますよね。あと、力だけではなく、そこにつぎ込まれた知恵にも感心させられます。
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