太田道灌が砦を築いたと伝わる港区の山を訪ねました。
といっても、この日は土曜日にも関わらず仕事だったので、帰りに軽い気持ちで立ち寄っただけ。遺構も石碑もなし。それを承知の訪問です。こういう城跡はいつもの通り、地形を中心に楽しみます。
<仙石山の石碑>
他の方のブログで見た目印。まずここを目指して訪問しました。
■番神山城■ばんじんやま
別名は太田道灌塁。江戸城築城者である太田道灌が、その出城として現在の仙石山に築いた城です。というか、遺構はないので、そう伝わるとしか言いようがありません。都内には道灌が築城、あるいは関与したと伝わる砦跡はたくさんあります。ここもそのひとつということですね。
戦国の世が終わり徳川の時代になると、番神山城のあったこの山は「土取り場」となり、道灌時代の城のなごりは消えうせました。江戸時代初頭までは、すぐ近くまで海(日比谷入江)でしたからね。そりゃ近くの山は削られますよね。
明治時代にはまだ土塁が残っていた。そんな資料もあるそうです。見てみたかったですね。せめて縄張りだけでも。どんな構造だったのでしょう。残念。
■仙石山■せんごくやま
江戸時代、この山には出石藩(いずしはん)仙石家の屋敷がありました。これは確実なお話です。仙石氏はもともと美濃国の豪族で、但馬国の出石藩へ移る前は上田藩主を任されていました。その『お殿様』が移り住んだことで、高台は「仙石山」という呼ばれるようになったそうです。5万8千石ですからね。立派な『お殿様』です。現在でもこのエリア全体が仙石山と呼ばれています。ただ住所表示上は存在せず、虎ノ門または六本木になります。冒頭の石碑は「仙石山」という呼び名を残すべく石に刻んだもの。昭和になってからの設置だそうです。
■神谷町■かみやちょう
さて、東京都港区といえば都会の中の都会ですが、地下鉄もバスも利用しないで、てくてくと歩いてみると、地形が思いのほか起伏に富んでいることに気付きます。ここ神谷町付近もそうです。まぁ地名に「谷」とつくので、カンの鋭い方はなんとなく想像して頂けると思います。渋谷や四ツ谷、市ヶ谷とか千駄ヶ谷。「谷」が付く地名は、だいたいその地形をあらわしている場合が多いですよね。
神谷町の場合、地名そのものの由来は三河国にあった「神谷村」と言われています。ただ、その名が選ばれること自体、この地の地形と関係あると思っています(個人意見)。また「ちなみに」ですが、先ほどの「仙石山」と同様、神谷町という町名もありません(今は)。虎ノ門になります。神谷町交差点、神谷町駅・・・と、港区ではけっこうメジャーな名前なんですがね。虎ノ門5丁目なんて言うより、神谷町のほうが伝わります。まぁとにかく、住所表示上はありません。
■都会の谷■高低差を楽しむ
さて、古くは西久保とも呼ばれた神谷町の低地。「くぼ」は「窪」だったのかもしれませんね。とりあえずそれを実感してみますかね。
その前に
谷の状況を簡単に説明すると、まず西側は城山と呼ばれる高台と今回訪問の仙石山。東側は芝公園付近の高台と愛宕山になります。ちなみに、古地図を見る限り、先述の日比谷入江は、現在の新橋付近から日比谷へとつづく入り江でした。愛宕山が立ち塞がることで、神谷町そのものは当時から陸地。山と山の間を、まもなく海と出会う川が流れる低地。神谷町はそんな場所だったわけですね。道灌が築いた番神山城も、仙石家の屋敷も、そんな谷を見下ろせる山に築かれたというわけです。
ではどんな感じなのか
谷の東側
まず愛宕山の東側、つまり昔なら海側にあたる道を探索。
<愛宕下通り沿いの道>
この付近は住所だと愛宕二丁目。木の陰に立派な門が見えます。
<青松寺>せいしょうじ
創建は太田道灌。いきなり道灌のなごりが登場しましたが、もともとは別の場所(千代田区)にあったそうです。徳川家康により、この地へ移されました。江戸の町の曹洞宗寺院を統括する3寺院の一つ。さすがに立派です。
ただご紹介するのは青松寺そのものではなく
この段差。奥へ向かって高くなっていますね。山の斜面であること、伝わりますでしょうか。
もう少し歩くと、もっと分りやすい高低差が出現します。愛宕下通りを更に北へ進むと
<愛宕神社の石段>
愛宕神社へとつづく石段です。
<男坂>
男坂と呼ばれる86段の急階段。出世の石段とも呼ばれてます。私も何度か登りましたが、特に出世はしてません。ただ登ったからこそ、なんとか人並なのかも知れません。ありがとうございます。
視覚で十分に伝わると思いますが、実際に登ると本当に高低差を実感できます。そして多少乱れる息と引き換えに、高台ならではの景色を味わえます。愛宕山は標高でいうと約26メートル。この高さで、東京23区内の最高峰です(天然の山として)。よって低いレベルながら「最高峰に登った」というささやかな達成感も得られます。
ちょっと長くなりましたが、この愛宕山が神谷町にとっての東側の山。さきほどの男坂はその山の東斜面です。
さて、神谷町へと向かいます。
<愛宕山のトンネル>
こんな便利なものがあるので、愛宕山をくぐって目的地へ
<神谷町交差点付近>
神谷町の交差点。地下鉄の神谷町駅もこの付近です。
整然とした都会の街並みですが、見方をちょっと変えれば、コンクリや建物で表面が覆われているだけ。江戸の町の地形はしっかりと残っています。
<現在位置>
現在位置はこの地図この中央付近。下が東側、上が西側。この地図だと、いま下から上に移動している最中です。地形で言うと、山を越えて(まぁ実際にはくぐりましたが)谷に出て、そのど真ん中あたりにいる。そしてこれからまた山へ向かおうとしている。そんな感じですかね。
では次に谷の西側へ
<斜面の始まり>
通りから一本西へ入れば段差が始まります。
<坂>
これはこの日の目的地へ向かう坂。登っている途中で振り返り撮影しました。
<冒頭の石碑>
見つけました。思っていたより小さいです。
良く見ると「仙石山町會防護團」と刻まれています。城の石碑ではないのですが、何かを目的地に定めないと達成感がないので、この瞬間ちょっとだけ安心しました。
あとはのんびりと探索
<丘の上の暗渠>あんきょ
これはちょっと本題とズレますが、いわゆる暗渠。水は当然の如く下へ向かって流れます。斜面を下り、神谷町の「谷」へ注ぐわけですね。
一旦坂を下りて、もうちょっと南方面(飯倉方面)へ移動します。少し歩くと
<西久保八幡神社>
こちらは西久保八幡神社の石段
かつての「西久保」の名を今に残す神社です。
説明板によれば、貝塚が発掘された場所とのこと(現在の社殿の裏手斜面)。西久保八幡貝塚と記載されていますね。東京都文化財になっているそうです。ここにも「西久保」の名が残っています。
ここ西久保八幡神社、昔は「八幡山普門院」という天台宗の寺院だったそうです。創建は1004年〜1012年といいますから、そうとう古い神社ですね。やがて太田道灌が江戸城を築城する際に、この場所に移さしたと伝わります。江戸城から見て南西。裏鬼門という意味があったのかも知れませんね。
ということで
太田道灌が築城したとされる番神山城訪問。遺構とは出会えませんでしたが、谷を肌で感じて山城の地の利を味わい、最後に道灌ゆかりの神社に立ち寄ることができました。半日は仕事という中途半端な土曜日でしたが、少し楽しめた気がします。
<飯倉の交差点方面>
更に南へ進むとまた高くなっていますね(画像だとはっきりしないので赤線をいれさせてもらいました)。東西を山に囲まれ、行った先がまた高台。窪地であることを実感し、探索を終了させました。以上です。
会社員の拙ブログ、最後までお付き合い頂きありがとうございました。
-----■番神山城■-----
別 名:太田道灌塁
築城者:太田道灌
築城年:室町時代
城 主:太田氏
廃城年:不明
(仙石家屋敷時代は除く)
[ 東京都港区虎ノ門 ]
お城巡りランキング
タグ:23区