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2018年03月09日

倉賀野城のなごり(高崎市)丘にそびえるかりがねの城

つわものどもが夢の跡
上州の有力豪族で、古くは源頼朝にも仕えた倉賀野氏の居城跡を訪ねました。

■ 倉賀野城 ■くらがのじょう
<城跡>
shirononagori205 (3).JPG
はい。ご覧の通り公園です。遺構はありません。ここは本丸跡で、城そのものはもっと広かったわけですが、都市化によりそのなごりは失われています(駅から歩いてくる間に実感)。

<石碑>
shirononagori205 (5).JPG
立派な石碑はあります。撮影は個人宅にご迷惑かと思いましたが、どうにも避けられず申し訳ございません。ただ個人的には羨ましいです。倉賀野城の本丸跡にお住まいなのですから。眺めも良いです。正面は川。遮るものがないので遠くまで見渡せます。

<烏川>からすがわ
shirononagori205 (1).JPG
公園から撮影した烏川。群馬県を流れる利根川水系の川です。倉賀野城はこの川に面する丘の上に築かれました。方角でいうと烏川の北側になります。

<高低差>
shirononagori205 (2).JPG
急な斜面。そして充分な高低差。下からの攻め手には、崖にそびえ立つ要塞に映ったかもしれません。
shirononagori205 (7).JPG
守りを固めるには最適な場所ですね。遺構はありませんが、この地形を実際に見られただけで来た甲斐がありました。ここだけ強調するとまるで山城のようですが、倉賀野城そのものは平城と言えます。川に面した部分だけは崖状になっている。そんな感じですかね。

■ 有力豪族 ■
武蔵七党の1つ児玉党の流れをくむ倉賀野氏。冒頭でもふれさせてもらいましたが、鎌倉時代には既にその名が歴史に刻まれており、戦国期に至るまで存続した有力武士団です。関東管領・上杉憲政(のりまさ)の家臣としても活躍。重鎮であったと伝わります。憲政といえば、山内上杉(やまのうちうえすぎ)の十五代目。そして小田原北条氏に敗北し、長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督と関東管領職を譲った人物ですね。

■ 倉賀野尚行 ■なおゆき
この流れといっては経緯を省略しすぎかもしれませんが、1561年の上杉謙信による小田原城攻撃時には、倉賀野城主・倉賀野尚行が上杉勢として参加しています。
当時は上杉・武田・北条の勢力争いの真っただ中ですよね。まして上州、いまでいう群馬県は激戦区。上杉方の倉賀野城はのちに武田勢によって攻められ、何度か撃退したものの、1563年ついに攻め落とされました。

あの「武田信玄が攻め落とした城」ということですね。ただ撃退もしている訳ですから、倉賀野氏は攻め手の武田勢にとってそうとう厄介なつわものだったわけです。敗北の背景には身内の寝返りや、上州において強い味方だった箕輪(みのわ)城主・長野業正(なりまさ)の死がありました。長野業正は上州の諸勢力を束ねることができる実力者。この武将がいなくなった影響は大きいですね。倉賀野落城後、武田勢は箕輪城へも総攻撃を仕掛けて陥落させています。城を失った倉賀野尚行、一旦上杉謙信のもとへ逃れました。

■ 倉賀野秀景 ■ひでかげ
倉賀野尚行の重臣に金井秀景(通称・小源太)という人物がいました。倉賀野十六騎の一人として長らく活躍。倉賀野城を守り、武田勢を相手に奮闘することもありました。ところが、のちに武田家へ鞍替え。その武田勢により城が落とされ、城主・尚行が倉賀野の地を去ると、この金井秀景が倉賀野氏を名乗り、城主となったそうです(倉賀野秀景)。
調略に応じた?それとも尚行との不仲?ちょっと良くわかりませんが、とにかく戦国の世は厳しいですね。この地は巨大な勢力の激突に巻き込まれた上に、身内においても骨肉の争いが行われていた。そういう城跡ということですね。
注)倉賀野城十六騎に関しては諸説あります。

<説明板>
shirononagori205 (4).JPG
倉賀野城十六騎が城を守ったことが書かれています。秀景(=金井小源太)についてですが、武田に寝返ったというような記載はありませんね・・・立ち回り方を間違えると生き残れない戦国時代の上州です。深い事情があったのかもしれませんね。

さて、この倉賀野秀景ですが、武田滅亡後は織田信長家臣の滝川一益に従っていました。そして信長の死(本能寺の変)。なんと5万を超す北条軍が上州へ押しかけます。これを迎え撃つ滝川一益と地元国人衆。神流川の戦いの始まりです。この戦いで、秀景本人は奮闘し活躍したようですが、息子を失った上に滝川軍そのものが大敗。滝川一益は敗走を余儀なくされました。秀景はあの真田昌幸らとともに、関東から撤退する滝川一益を木曾まで警護して送ったとされています。
その後、倉賀野氏は関東の覇者となった小田原北条氏の配下となりました。

■ つわものどもが夢の跡 ■
<石碑裏側から撮影>
shirononagori205 (6).JPG
この公園の名は雁児童公園。雁はガンではなくて「かりがね」と読みます。倉賀野氏の家紋は雁二羽を象ったものですが、この呼び名が「むかいかりがね」。この公園も、そして倉賀野城の別名「雁城(かりがねじょう)」も、これに由来しています。

武田勢に攻め落とされ、かつての身内に城主の座を奪われた倉賀野尚行。上杉に逃れたのちも諦めず、倉賀野奪回を目論んでしたようです。しかし、結局はそれも叶いませんでした。最終的には越後へ移り、名を統基と改め、上杉家重臣の直江兼続に仕えたそうです。

一方、倉賀野城最後の城主となる倉賀野秀景ですが、小田原城に駆けつけ、北条側として秀吉率いる天下軍と戦いました(早川口を守備したと伝わります)。籠城戦の末に小田原城が落城すると、その後まもなく没したようです。ただ、どのような最期であったかは不明です。

ここ倉賀野城ですが、天下軍の別動隊(秀吉本隊とは別の北国勢:前田利家ほか)が押し寄せ、城主不在の状態で降伏。その後廃城となりました。

-------■ 倉賀野城 ■-------
別 名: 雁城
築城者:秩父高俊
築城年:(鎌倉時代?)
改修年:(南北朝時代?)
改修者:倉賀野光行
城 主:倉賀野氏
廃 城:1590年
現 状:雁児童公園(本丸跡)
[群馬県高崎市倉賀野町]

 
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posted by Isuke at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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