大宮の市街地に中世武士の館跡を訪ねました。
■大成館跡■おおなりやかたあと
<入口>
築城は室町時代の初期と推定されています。遺構はありません。石碑は大宮区の普門院の入口にあります。
<石碑>
こちらですね
で…誰の館?
■ 金子氏 ■
ちょっと情報が少ないので、さいたま市のホームページをそのままご紹介します。
大成館跡 [概要]
『中世、大成及び植田谷領佐知川(現西区佐知川)を領地した金子駿河守の居館跡です。応永33年(1426年)、駿河守は関東を巡って仏法を説いていた曹洞宗の高僧・月江正文に帰依し、自ら居館を禅庵に改めたと伝えられています。これが現在の普門院の始まりだといわれ、普門院は山号を「大成山」と称します。
門前には、西馬場、鍛冶屋堤、大手などの小名も残り、大成中を建設するまでは、空堀跡を見ることができました。』
[出典:さいたま市ホームページ]
2018/1/21
ああ…
中学校ができるまでは空堀跡が残っていたのですね。今から建設が始まるなら、遺構の一部くらいは残してもらえたかも知れませんが、仕方がないことです。
金子駿河守家光…?
金子氏は武蔵七党・村山党の出と考えられています。関東で勢力を拡大した武士団の流れをくむということですね。金子氏はこの付近を領地とし、家光が今回訪問の場所に館を築いた。そう受けとめました。具体的には現在の普門院、そしてその周辺ということになります。どんな働きをした方なのか、もう少し知りたかったのですが、調べても良く分かりませんでした。
以上ですが、せっかくお邪魔させて頂いたので、館を構えた金子氏とは別に、普門院さんにゆかりのある小栗氏について触れさせて頂きます。
■ 小栗氏 ■
今回訪問の場所に中世の館が築かれたことは確かのようですが、そのあとの江戸初期、旗本が館としてこの地を利用したという話あります。旗本の名は小栗忠政。小栗氏といえば、遡れば松平と繋がる三河武士。桶狭間の戦い、三河一向一揆の際に松平家康を助けた立派な氏族です。忠政も13歳の時に家康の小姓となり、後には槍働きで活躍しました。それらが認められ、2550石の旗本となり、ここ大成に入ったと伝わります。そして江戸末期に幕府の中核として活躍した小栗忠順も、こちらの小栗氏の出です(三河小栗氏第12代当主)。 勘定奉行ほかをを歴任しました。
<曹洞宗大成山普門院>
<本堂>
私は館跡として訪問していますが、純粋にお寺として立派です。整備が行き届き清潔感があります。
<普門院幼稚園>
こちらも立派な建物でした。
<墓所付近>
この奥の墓所には金子駿河守、そして小栗家一族の墓もあります。お墓をの撮影は苦手なので、画像はありません。一般の方のお墓もありますので。
最後に
地形ですが、大宮台地上のほぼ平らな場所です。よって、劇的な「地の利」があるというわけではありません。ただし、普門院から西に向かっては今でもやや下り坂となっていて、行った先には川が流れています。その付近と比較すれば、館跡は微高地にある。そんな感じですかね。
以上が大成館跡の訪問記です。また遺構のない城跡巡りでした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
------■ 大成館 ■------
築 城:室町初期
築城者:金子家光
城 主:金子家光 他
廃 城:(不明)
現 状:普門院
[埼玉県さいたま市大宮区大成町]
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