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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2020年04月14日

イキガミという映画

いろは歌について、
芥川龍之介は、『侏儒の言葉』に、一番大事なことが教えられていると言っています。


その一番最初が
諸行無常
についてです。

無常くらい知っていると思うかもしれませんが、
知っていると分かっているは違います。

テスト前に勉強しないといけない、
それは知っているだけで、
勉強しなければ分かっているとは言えません。

知識で知っていても、分かっていないのです。
分かっていたら実行する。

みんな諸行無常を知っている分かっていると思っていますが、
分かっていないのです。

頭では分かっていても、今日明日は死なないと思っている。
それは、ずっと死なないと思っている心です。

ちょっとでも、死ぬと思っているかというと
全く思っていない。

イキガミという映画があります。
1000人に1人 18−24歳で死ぬという予告書が届きます。
それでもみんな不安に思います。

それだけみんな死ぬのが不安なのです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2020年04月10日

仏縁深い人の気をつけるべき点

仏縁深い人は、早く救われたいという気持ちがあります。

すると、どこかに、救われた人がいて、体験を話している。
それを聞いたい、知りたいという心があるはずです。

聞きたいという心がある。
ところが、体験が正しい親鸞聖人の教えなのかというと、
それは違います。

代表的な間違いが2つあります。
1つは十劫安心です。
十劫安心という異安心は、すでに救われているというものです。
または、救われていることに気づいたのが信心だといいます。

2つには三業安心です。
三業安心は、こうやって救われたなどいいます。
心と口と身体の3つの行いで、他力の信心を獲得できるというものです。
これは異安心です。

そういう人たちは、簡単に信心獲得できると思っているので、
獲信は、多い人がいいのではと言います。
しかも、それも本当かどうか、確かめたらいいのではといいます。

このままでいいんですか、というのは疑情です。
「そのまま」
というのは知識がいうことでない、
阿弥陀如来が言われることで、全く違います。

知識が認可するのは、他力信心ではなく、人工信心です。

こういうことを聞きたい、
これが早く救われるのではという心は、
聞法心でもありますが、人工信心に迷いやすい
諸刃の剣です。

善知識はどう言われているでしょうか。
体験談はまったく言われていません。

親鸞聖人は、教行信証
「雑行を棄てて本願に帰す」
とだけ書かれています。
後はありません。

覚如上人、蓮如上人は書かれていません。

最初はどうして書かれていないのか、
書かれていないのがおかしいと
自分の考えを正しいと思っています。

次第に、自分は間違っていることが知らされて来ます。
仏教の尊さを分かっていくとそうなります。
すると善知識のお言葉を聞き、それに従うようになります。


posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2020年04月07日

輪廻転生から救われた親鸞聖人の喜び

親鸞聖人は主著の『教行信証』の最初にこういわれています。
噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

(教行信証総序)

噫、というのは救われた驚きの言葉です。
「弘誓の強縁は多生にも値いがたく」とは、
弘誓の強縁にあいたい。
多生にもあえないものにあえた、ということです。

弘誓というのは、広い誓い。
強縁というのは、悪しか作れない私達がどうして絶対の幸福になれるのか。
阿弥陀仏の本願は強い縁だからです。
因縁果の道理。

悪ばかりしか作っていないのが私達だが
阿弥陀仏の本願によって、絶対の幸福に救われるのです。
あうといってもいろいろあります。

宝くじ50年買い続けてあたったら、噫となります。
何十年も会えなかった家族に会えたとなったら、噫となります。
30年50年どころではありません。
多生のあいだ輪廻転生しても会えないことに今あえた、ということです。
億劫の間、輪廻転生してもえられないものが、今えられた、ということです。
「かえりてまた曠劫を逕歴せん」というのも、
死んだらまた永遠に六道輪廻するということです。


だから、今ですよ。
地震や台風で多くの人が亡くなっている。
急がなければなりませんよ。
信心決定しないまま、死んだら、後生は一大事ですよ。

弘誓の強縁に救われるまで聞きなさいと言われています。

誠なるかなや。
摂取不捨の真言、必ず絶対の幸福にするという阿弥陀仏のお約束。
超世希有の正法、阿弥陀仏の本願のこと。
阿弥陀如来の本願まことだから、聞思して遅慮することなかれ。

聞思というのは聴聞です。
聞く一つで救われるから、聞いて聞いて聞きぬきなさいよと言われています。

遅慮とは、計らう疑う。本当に救われるのか、間違いないのですよ。

計らいを破って救う本願、誠だから。
救われずに死んだら、後生は一大事。
常に今回が最後と思って真剣に聞かせて頂きましょう。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞法

2020年04月04日

地獄はどこにあるのか

地獄はどこにあるのか。
ここを疑問に思う人が多いと思う。

以前、NHKでモーガン・フリーマンという人の番組でやっていました。
マトリックスという映画のようなものです。
私たちは栽培されているという話です。
しかし、を見ているのです。

ブッダは、夢のようなものだといわれている。
地獄は、どこにあるのですかというのは、
夢はどこにあるのですか?
というのと同じことです。

ナラカ、地獄ということです。
苦しい夢です。
覚めないから大変です。
非常に長い間です。
無間地獄というのは、八万劫中といわれます。

なぜそんな結果が起きるのかというと、
大無量寿経には、
心常念
と説かれています。
だからよいことをやるように言っても信じません。

親と言えども、本当は親孝行をしないといけないのに、
ろくにしません。

もし寝たきりになって
自分が仕事もできず、
看病し続けなければならないとなれば、
心の中で死んでくれたらいい。
ええかげんにという気持ちになります。

これは五逆という無間地獄に堕ちる罪だと
仏教では教えられています。


2020年03月31日

心に余裕がない時に人を思いやるには

心に余裕がない時に、人を思いやるにはどうすればいいのかを考えてみましょう。

利他に徹するのがです。
反対に我利我利はです。
廃悪修善に心がけるしかない。

それは、仏教の根幹の因果の道理からきます。
一言でいうと、自分のたねまきが自分にかえってくる、
因果応報ということです。

その因果の道理を深く知るのが大事です。
知っていても分かっていません。

誰々がこういうことを言ったので苦しいというのを聞く。
Aさんがこんなことを言ったというが、Aさんとどうして縁があるのでしょうか。
因は自分にあるということです。

その前に、Aさんの縁があっても、私に因がなければ私は苦しまないのです。
Aさんから苦しむような結果を受ける因は私にあります。
縄を恨む泥棒です。

縄のせいにしている。
愚痴という煩悩です。

それで、また私が苦しむことになります。
すべては因果応報です。
自業自得ともいいます。
自業自得が欠落していると愚痴になります。
それでまたAさんにあったりします。

因果の道理はそんな分からない。
自業自得だな。
人を恨んではいけない、反省しようという気持ちが大事です。

心がけは、因果の道理をよく聞くことです。
日頃の心がけとして、自己との闘いしかありません。
忙しいけど、忙しいという雰囲気を出さないのです。

いつでも時間がありそうな人があります。
暇そうな感じをしているのがいいのです。

2020年03月28日

科学がすべて?

科学を包む仏教。
ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、
科学は全てと思っている人は
偉い人ではないと言っています。

湯川秀樹の『目に見えないもの
昭和18年に素粒子の世界を書かれたものです。
太平洋戦争の真っ只中です。

極微の世界について。
物質の最小単位。極めて小さいもの。
これは、質量をもっているとなると、割れます。
最小単位は形や大きさがあります。

最小単位と名付けるが、それは更に分けられます。
最後はエネルギーになります。

クオークは5種類あります。
クオークなどの性質を書いておれる。


科学を勉強しましょうということではない。
科学から見ても、深い仏教です。
その中にとかれる、本当の生きる意味を学びましょうということです。

タグ:科学 仏教
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2020年03月25日

仏教は葬式で広まる?

浄土真宗の宗派は、真宗10派というのが昭和時代に決められています。
それは、2万のと3万の僧侶があります。

こういう大発展は、浄土真宗の8代目の蓮如上人の功績によるものです。


浄土真宗の3代目の覚如上人は、
改邪鈔にこう言われています。

親鸞閉眼せば賀茂河に入れて魚にあたうべし」と云々。
これ即ちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
これをもって思うにいよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止すべし。

葬儀をするよりも他力の信心を獲得しなさいと言われています。

もっとも停止すべし。
それによって教えを徹底して、蓮如上人は、
浄土真宗を日本最大の宗派にされたのです。

ところが今の浄土真宗の寺は、
そんなことを言われたら困る。
なんとかしてくれと思います。

中でも一番やかましいのが浄土真宗の、本願寺です。

真実の仏教を説けば必ず、疑謗破滅があるのです。
それを変えようと思ったら、教えを曲げるしかない。
ですが、それでは仏教は伝えられないのです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2020年03月21日

仏教を教えると非難攻撃を受ける理由

真実の仏教を明らかにすると非難攻撃を受けます。
なぜなら、仏教では、お金や財産では幸せになれませんよ、
と教えるからです。
これは本当なのですが、煩悩でできている私たちには、
否定されたように感じます。
それで非難攻撃が起きるのです。

親鸞聖人はご和讃にこういわれています。


五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそいて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり


五濁というのは、末法の時期に表れる5つの濁りです。

末法の時期というのは、ブッダがなくなってから1500年後です。
ブッダがなくなって500年間は、正法といいます。
その後、1000年間を像法といいます。
その後1万年間が末法です。
ブッダは約2600年前の方なので、今は末法です。

正法の時は、仏教の教えもありますし、その通り行ずる人もあり、ある程度悟りを開く人もあります。
像法の時は、教えもあり、行ずる人もありますが、悟りを開く人はなくなります。
末法になると、教えははありますが、行ずる人も、悟りを開く人もなくなります。

表にするとこうなります。
正法 500年       教 行 証
像法 1000年     教 行
末法 10000年   教

ここまでの正法、像法、末法の3つの時代を三時といいます。
末法の時といったら1052年からと言われていました。

親鸞聖人は、1173年に生まれられました。
末法に入って100年少しです。
皆、助からないとなります。
誰も助からないぞと、世の中が不安になりました。
それで、道俗共にあらそいます。

道俗というのは、僧侶も僧侶でない人も、ということです。
念仏信ずる人を見て、疑謗破滅さかりなり
というのは、
念仏を称えるではなく、念仏を信ずる人です。
念仏というのは一向専念無量寿仏の4文字目と8文字目をとって念仏です。

一向専念無量寿仏を信ずる人です。
これは阿弥陀仏に絶対の幸福に救われた人です。
阿弥陀仏に救われた人をみて非難攻撃をしてくるのだ、
ということです。

親鸞聖人も疑謗破滅がひどかった、ということです。

ところが、親鸞聖人の明らかにされた浄土真宗は、
今では日本の最大宗派になっています。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 実践

2020年03月18日

親鸞聖人が教えられたたった一つのこと

親鸞聖人が教えられたことはどういうことでしようか。

親鸞聖人の教えというのは、それを正しく伝えると批難攻撃を受けます。
実際に親鸞聖人の身の上に起きたということを
よく知ってもらいたいと思います。

世界の光と尊敬されるのが親鸞聖人です。
人類の光、すごい称讃の言葉です。

大学の教授や知識人、世界のあらゆる思想を学び尽くした人が
親鸞聖人は世界の光と言われています。

その親鸞聖人が生きておられた800年前に
そのようにみんな実践していたのかというとそうではありませんでした。
いつの時代も、正しい教えを人に伝えようと思うとぶつります。


親鸞聖人の教えは生きる意味一つを教えられたものですから、
考えてみれば分かります。

生きる意味というのは、生きる目的のことです。
人生の目的は、人はなぜ生きるかという問題。
それに対して、全人類はどう生きるかという生き方しか、考えていないし、知りません。

みんな考えるのは、生きる手段ばかりです。
だから、ほとんどの人の言わないことをいうので非難攻撃を受けるのです。

しかし、必ず死ぬのに生き方ばかり考えていても、最後は死ぬだけです。
生まれてから死ぬまでに何をしなければならないのか
ということが生きる目的であり、生きる意味です。

2020年03月15日

親鸞聖人が見られた善鸞の影響

親鸞聖人は、40才過ぎから20年間茨城県の常陸を中心に
布教に挺身されたあと、還暦過ぎて京都に戻られました。
その時、関東には、長子の善鸞を残してきました。

ところが善鸞は、父・親鸞から授かった秘密の法文があるといって
勢力を拡大しようとし始めたのです。

親鸞聖人はその報告を聞かれ、何度もいさめの手紙を送りましたが
一向にやめる気配はありません。

さらに、その相談のために、お弟子達が京都にやってきます。
あの者たちならばと信頼されて、 関東の同朋たちの教化を任せ、
京都に帰られた親鸞聖人でしたが、
それらの人が善鸞や日蓮宗を開いた日蓮の言動で信心が動揺し、
はるばる京にやって来た彼らに聖人の落胆と悲歎は、 どんなであったろう。
そしてやがて、しみじみ仰ったお言葉が、 この御消息(お手紙)です。

「慈信坊(善鸞)が申すことによりて、
人々の日頃の信のたじろきおうて在しまし候も、
詮ずる所は人々の信心の真実ならぬ事のあらわれて候、
よきことにて候」(御消息集)

他人の言葉や行動で動乱するようなことでは、
所詮、彼らの信心は真実信心でなかった証拠である。
信心が真実でなかったことが分かっただけでも喜ばしいことではないか。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心