ということを教えられたお経があります。
『涅槃経』というお経です。
「地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
人間に生れる者は爪の上の土の如し」(涅槃経)
『涅槃経』は、お釈迦様の最後の説法。
特にお亡くなりになる直前のご説法は『遺教経』に説かれていますが、
それも含めて『涅槃経』には説かれています。
人間は地獄に堕ちる者。
ほとんどの人が死後、地獄に堕ちることに。
この地獄というのは、実は自分の業によって堕ちるんですね。
地獄へ堕ちるというのは、「落ちる」ではなく「堕ちる」。
落下ではないからです。
地獄に堕ちる者は、大宇宙の土の数ほど多くの者たちである。
それに対して、あなたのように人間界に生を受けた人、
お釈迦様は爪の上に土を乗せられて、
爪の上の土ほど少ないのが人間界の人なのだと言われています。
いかに人間界に生まれることが有難いことなのか分かります。
多くの人は、三悪道(地獄、餓鬼、畜生の三つの苦しみの世界)に堕ちて
苦しんでいる。
こういうことからも、人間に生まれたことを喜ばなければならないんですね。
人間に生まれたことを喜ぶべきだと教えられた
源信僧都という高僧のお言葉。
「まず三悪道を離れて人間に生るること大きなるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心におもうことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず」(横川法語)
これは、横川というところで、源信僧都が書き表した有名な本です。
まず、私たちは三悪道を離れることができた。
ほとんどの人が、地獄、餓鬼、畜生の世界で苦しんでいる中、
私たちは人間界に生まれることができたんですね。
これは、まだ信心決定していなくても、
飛び上がって喜ばなければならないことです。
最初に畜生と比べられています。
いくら自分が人間界で身は卑しいといっても、
どんなにお粗末な人間だったとしても
畜生と比べたら、ずっと幸せではないか。
そして、次は餓鬼界との比較。
家が貧しく、衣食住で生活はやっとという人でも
餓鬼界と比べたら、ずっと幸せではないか。
餓鬼界の苦しみは、食べたくても食べられない。
自分さえよければ、人はどうなってもいい
という心が餓鬼を生み出すといわれます。
食べたくても食べられず、飲みたくても飲めない。
それと比べれば、食べることができる、飲むこともできる。
餓鬼界の苦しみと比べたら、ずっと幸せなのだぞ
と言われています。
そして最後は地獄界。
思い通りにならないことはたくさんあるけれど、
地獄の苦しみと比べたら、比較にならないのだよ。
人間界に生を受けて生活をしていると
思い通りにならずに、苦しい苦しいと言っているが、
地獄の苦しみと比べたら比較にならない。
この世の苦しみをひとすくいの水としたなら、
死んだ後、後生の苦しみは大きな海のようなもの。
また、人生を1oとしたら、後生は地球10.6周になります。
こういう桁違いの苦しみが後生に待ち構えているのです。
これを一大事といわずに、何を一大事というのか。
その一大事解決の絶好のチャンスが来ているのだから、
たとえ未だ信心決定できていなくても
真実を知らされた喜び、求める喜びがあっていいんですよ。
感謝の心で聴聞するのと、イヤイヤ聞くのとでは大違い。
なので、あなたも感謝の心で聞かれると
受け取るものも大きくなります。
信前でも大きな喜びとともに求道の勝縁にする。
覚えているだけでも、非常にプラスになります。
これを口ずさむことで仏縁になるんですね。
思い出すことで、全部善業力が阿頼耶識におさまります。
求道の糧になるということです。
「人間に生まれたことを喜ぶべき」
これが源信僧都のお言葉。
人間に生まれたことを喜びなさい、喜びいっぱい求めなさい。
たとえ、未だ信心決定できなくても。
三定死のときは苦しいけれど、それまでは喜びいっぱいで求めていける。
求道の障害は色々あっても、教えの徹底によって
マイナス思考ではなくプラス思考になっていくから。
常に前向き、常に善果のときは感謝、努力。
悪果のときは懺悔。
できない理由もたくさんあるけれど、できる理由も無限にある。
仏教が唯一救われる教えですが、このすばらしい仏教にあえない人もあります。
今あなたは、この八つの難を乗り越えることができた、
けれど、いつまた八難に陥るか分からない。
@在地獄の難
A在餓鬼の難
B在畜生の難
C在長寿天の難
D在辺地の難
E聾盲瘖瘂の難
F世智弁聡の難
G仏前仏後の難
@ABEは、苦にせめられて聞けない。
CDは、楽におぼれて聞けない。
この信心決定というのは、五趣八難の道を超えさせていただけるんですね。
『教行信証』でこの根拠をあげると、
五趣八難の道を超えさせていただける、とありますね。
仏法力不思議で、五趣八難の道を超えるのが仏法。
そして、現生に十種の利益を得る。
金剛心を体得する者は、横に。
横にとは、大願業力、阿弥陀仏の大願業力によって
五趣八難の道を超えさせていただけるのだとおっしゃっていますね。
これは信心決定の体験です。
五趣とは六道のこと。
修羅界を人間界に含めて言われることがあるんですね。
その迷いの世界を超える。
そして八難。
八難を超えさせていただける。
これが信心決定。
人間界以外に生まれていたら、仏法は聞けない。
人間界に生まれて、八難を超えさせていただける喜びを
具体的に見ていきます。
まず最初は在地獄の難。
これは、今現在地獄に堕ちている人。
そういう人は仏法を聞けません。
もちろんこれは死後のことでもありますが、現在の人でもあります。
今生活が苦しいとか、病気などで体が非常につらいとか。
今地獄の人も、仏法はなかなか聞けない。
苦しみに迫られて聞けないんですね。
そして、在餓鬼の難。
餓鬼界の人も仏法を聞けません。
生活で汲々としている人は仏法を聞けない。
また、在畜生の難。
欲ばかり追い求め、快楽のままに生きている人。
そういう生活をしていたら、仏法はなかなか聞けません。
これは、死んでからだけのことではなくて、
生きている人でも、そういう人が多いですね。
次に、在長寿天の難と在辺地の難。
これは天上界のことです。
天上界は楽しみが多すぎて聞けないんですね。
今だったら、芸能界に入った人は、おそらく仏法が聞けないと思います。
今スポットライトを浴びている人は、なかなか聞けない。
また、彼氏彼女ができて、ルンルン気分の人は聞けない。
だから仏法を聞くには
あまりに苦しくても、あまりに楽しくても聞けないんですね。
今聞いているのは、そんなに苦しいことも楽しいこともないということ。
それがいい。
次に、聾盲瘖瘂の難。
聾とは耳が聞こえない方、盲とは眼が見えない方。
瘖瘂とは、音が病、口が病ですから、いわゆる口が聞けない人。
こういうことがあると、とても大変ですよね。
だから、苦しみにせめられて聞けない。
もし、そういうことがなかったとしたら、
今五体満足で生まれたことを心から感謝したいですね。
そして、世智弁聡の難。
世智とは世間の智慧のこと。
世間ごとには非常に長けています。
弁えて、聡明。
頭がいいと。
世間ごとはよく知っていて、屁理屈ばかり言う。
そうすると、なかなか素直に仏法が聞けない。
頭はいいけれど、屁理屈ばかり言うという人、結構あるんですね。
以前、学生さんで、こういう人がありました。
生死一如、これは裏と表の関係だ。
どんな紙にも裏と表がある。
それを聞いて、メビウスの輪みたいなもの。
こういう紙は表、裏が分かりませんよと。
生と死に密接な関係があるということを言いたいためのたとえ話。
なのに、メビウスの輪を持ち出した。
こんな感じで、なかなか聞けない人もあります。
そして最後は、仏前仏後の難。
これは、仏様の前に生まれた人、
そして、仏様がお亡くなりになった後に生まれた人のこと。
こういう人は仏法が聞けない。
私たちでいえば、善知識。
善知識の生まれられる前に生まれたら仏法は聞けませんし、
亡くなられた後は仏法を聞くのは難しいです。
だから一座一座を大事に聴聞する。
善知識はこれを「微善なるが故に聞けない」とおっしゃいます。
あなたはその点、宿善があったのですから、
それに感謝して仏教を聞く。
今あなたは人間界に生まれた絶好のチャンス。
そして、これらを乗り越えて仏法を聞けますから。
でも、信前は油断できません。
いつ八難に襲われるか分からない。
誘惑もたくさんあります。
また眼が見えない、話が聞こえない、
こういうことが襲ってくることもある。
疑問を残したまま、疑問を抱えたままだと、
真剣に求められないことがある。
でも、どうでもいいことばかり気になってしまう
という人もあります。
今は善知識がおられる、
だから今しかチャンスがないのです。
善知識に巡り会えたチャンスをものにすることが大事。
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