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2024年12月05日
お釈迦様の本当の教えは『大無量寿経』の中にある
お釈迦様は何のために地球上にお生まれになられたのか、
その出世本懐といわれるお経が『大無量寿経』です。
その根拠は『大無量寿経』の中に2箇所あります。
1つ目は、『大無量寿経』の上巻にある、こちらの部分です。
「如来、世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」
2つ目は、下巻のこちらのお言葉です。
「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、特にこの経を留めて止住すること百歳せん」
1つ目の根拠の「如来」というのは、
狭い意味では、釈迦如来ということで、お釈迦様のことです。
広く言えば、大宇宙に在します仏方のことです。
「出興」というのは、お釈迦様がこの地球に生まれられた目的は
ということです。
「群萌」というのは、苦しみ悩んでいるすべての人、ということで
私たちのことですね。
道教というのは聖道仏教のことで、修行して悟りを開く道のことです。
つまり、聖道仏教とは、因果の道理のこと。
すべての人を因果の道理で統一し、統合されます。
そして、本来の目的である阿弥陀仏の本願へ導かれるんですね。
そのように、まず方便を説かれたということです。
まず、外道を信じている人たち、因果の道理に反した色々な信心を持っている人を
因果の道理で統一され、苦しみ悩んでいる私たちを救い、助けるということです。
私たちを本当の幸せにするために、本当の救いである阿弥陀仏の本願を
『大無量寿経』でハッキリと教えられています。
お釈迦様の説かれたお経は、7千冊以上にもなりますが、
それらのお経を探しても、「真実の利」というお言葉はありません。
そしてその後に、阿弥陀仏の48願が説かれます。
なので、初めのお言葉だけで出世の本懐ということが分かるんですね。
ですが、最後に留めを指されているお言葉が、下巻の先程のお言葉です。
上巻のお言葉については、親鸞聖人が『一念多念証文』で解釈されています。
それがこちら。
大経出世本懐の文。
「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興於出世」というは仏のよにいでたもうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「羣萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力をと来て、
よろすの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたもうが故に、
「真実之利」とは申すなり。
然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
このようにハッキリと解釈を施されています。
如来と申すは、広く言えば三世諸仏。
所以は故、故とは目的のこと。
興出は、仏様がこの世に出られたということを言う。
欲、これは欲する。
羣萌は、よろずの衆生という意味。
恵は恵むということ。
真実之利、これは、弥陀の誓願のことを言う。
然れば諸仏が世々に出でたまう、それぞれの世界に生まれ出られる
その目的は、すべての衆生を恵み救おうとされているのが目的ですから、
然れば、これが諸仏出世の直説、諸仏方の出世本懐も
弥陀の本願一つを説くため、地球上に現れられたということです。
これだけでも留めですが、下巻に
「当来の世に」の「当来」というのは、法滅のこと。
お釈迦様がお亡くなりになってからの時代を、3つの時期に分けて三時と言いますが、
正法、像法、末法、そしてそれが終わると法滅を迎えます。
法滅というのは、仏法の滅びることです。
正法とは、お釈迦様がお亡くなりになってから500年間のことで、
お釈迦様の説かれた教えがあり、教えの通り実行する人があり、
ある程度悟りを開く人もいる時期で、最も良い時期とされます。
ところが、正法の後1000年を像法と言います。
インドで高い悟りを開かれた龍樹菩薩や天親菩薩の時代ですね。
そういう時代には、一切経は勿論あって、修行する人もいるけれど、
悟りを開く人がほとんどいない。
厳密に言えば、龍樹菩薩も悟りを開いていられますが、
そういう人がほとんどいない時代になります。
そしてその後の末法の時代になると、一切経はあっても、
真面目に実行する人がいなくなります。
だから当然、悟りを開く人もいなくなる。
ところが、末法は1万年あるので、今だとあと何千年か続きます。
その後に法滅です。
この時期になると、一切経はなくなってしまいます。
このことは『大集経』や、その他多くの経典に説かれていることです。
ですが、やがて一切経が滅びると予言されているのは、聖道仏教であって、
阿弥陀仏の本願を説かれた浄土三部経は別です。
『正信偈』にも「像末法滅導悲引」とあります。
正法は、修行すれば、救われる可能性も高いけれど、
その正法は除かれて、「像末法滅導悲引」と教えられています。
像法の人も、末法の人も、時代に関係なく、
真実というのは、滞ったり、変わったりしない、三世十方を貫くものです。
こういうことからも、聖道仏教は方便であるということが分かります。
大慈悲によって、決勝点まで私たちを救い摂ってくだされる。
いつの時代の人も関係なく救われるのが弥陀の本願です。
下巻のお言葉は、
やがて私の説いた一切経が滅尽する、滅びてしまうだろう。
しかし私は、何とか助けてやりたいという大慈悲をもって哀れみ、
特にこの『大無量寿経』だけは、ずーっと永久に残るのだ
ということです。
法滅の時期が来ても、滅びることはない。
これを特留止経の文と言います。
とくに阿弥陀仏の48願が説かれている『大無量寿経』は留めるぞと
出世本懐の留めを刺されたお言葉です。
ところが、ある人は、「百歳せん」というのは100年間だけ残るのであって、
その後は滅びるのだ、と言っていました。
これは、100年ということではありません。
漢文で100年のことは壱百歳と言いますので。
百歳とは、無窮ということで、限りない年月を言います。
これは仏教の常識となっています。
ところが、そういうことが全く通じない人には
百歳が永遠不滅であることを、どのように説明すればいいのでしょうか。
『大無量寿経』は何人もの三蔵法師が翻訳しているので、異訳本を示してあげればいいと思います。
『大無量寿経』は、中国で12回翻訳されて、今残っているのは5つです。
あとの7つは、訳した人の名前は残っているけれど欠けています。
なので、五存七欠と言われます。
今私たちが読んでいるのは、康僧鎧という人が翻訳したものです。
『大無量寿経』以外に残っているのは、
『無量寿如来会』
『無量寿荘厳経』
『平等覚経』
『大阿弥陀経』
時代とか微妙な書き方は違いますが、いずれも同じお経です。
その中の一つ、『無量寿如来会』というお経には、
このように書かれています。
「久しく住して滅せざらしむべし」
この『大無量寿経』だけは、久しく永久に留まる。
滅せざらしむべし。
不滅なんだと、如来会にハッキリと説かれています。
百歳は永遠であるということは明らかなんですね。
また、サンスクリット語の『無量寿経』も残っています。
それを見ても明らかです。
「私は、この教えが滅びないように、偉大な贈り物をするぞ」
こういう訳し方ができます。
『大無量寿経』の訳が一番素晴らしく、仏意が鮮明になっています。
五存ある中で親鸞聖人は、
「真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
とおっしゃっています。
だから私たちも、『大無量寿経』を読ませていただく。
そこに弥陀の本願が明らかに説き明かされています。
その出世本懐といわれるお経が『大無量寿経』です。
その根拠は『大無量寿経』の中に2箇所あります。
1つ目は、『大無量寿経』の上巻にある、こちらの部分です。
「如来、世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」
2つ目は、下巻のこちらのお言葉です。
「当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、特にこの経を留めて止住すること百歳せん」
1つ目の根拠の「如来」というのは、
狭い意味では、釈迦如来ということで、お釈迦様のことです。
広く言えば、大宇宙に在します仏方のことです。
「出興」というのは、お釈迦様がこの地球に生まれられた目的は
ということです。
「群萌」というのは、苦しみ悩んでいるすべての人、ということで
私たちのことですね。
道教というのは聖道仏教のことで、修行して悟りを開く道のことです。
つまり、聖道仏教とは、因果の道理のこと。
すべての人を因果の道理で統一し、統合されます。
そして、本来の目的である阿弥陀仏の本願へ導かれるんですね。
そのように、まず方便を説かれたということです。
まず、外道を信じている人たち、因果の道理に反した色々な信心を持っている人を
因果の道理で統一され、苦しみ悩んでいる私たちを救い、助けるということです。
私たちを本当の幸せにするために、本当の救いである阿弥陀仏の本願を
『大無量寿経』でハッキリと教えられています。
お釈迦様の説かれたお経は、7千冊以上にもなりますが、
それらのお経を探しても、「真実の利」というお言葉はありません。
そしてその後に、阿弥陀仏の48願が説かれます。
なので、初めのお言葉だけで出世の本懐ということが分かるんですね。
ですが、最後に留めを指されているお言葉が、下巻の先程のお言葉です。
上巻のお言葉については、親鸞聖人が『一念多念証文』で解釈されています。
それがこちら。
大経出世本懐の文。
「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興於出世」というは仏のよにいでたもうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「羣萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力をと来て、
よろすの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたもうが故に、
「真実之利」とは申すなり。
然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
このようにハッキリと解釈を施されています。
如来と申すは、広く言えば三世諸仏。
所以は故、故とは目的のこと。
興出は、仏様がこの世に出られたということを言う。
欲、これは欲する。
羣萌は、よろずの衆生という意味。
恵は恵むということ。
真実之利、これは、弥陀の誓願のことを言う。
然れば諸仏が世々に出でたまう、それぞれの世界に生まれ出られる
その目的は、すべての衆生を恵み救おうとされているのが目的ですから、
然れば、これが諸仏出世の直説、諸仏方の出世本懐も
弥陀の本願一つを説くため、地球上に現れられたということです。
これだけでも留めですが、下巻に
「当来の世に」の「当来」というのは、法滅のこと。
お釈迦様がお亡くなりになってからの時代を、3つの時期に分けて三時と言いますが、
正法、像法、末法、そしてそれが終わると法滅を迎えます。
法滅というのは、仏法の滅びることです。
正法とは、お釈迦様がお亡くなりになってから500年間のことで、
お釈迦様の説かれた教えがあり、教えの通り実行する人があり、
ある程度悟りを開く人もいる時期で、最も良い時期とされます。
ところが、正法の後1000年を像法と言います。
インドで高い悟りを開かれた龍樹菩薩や天親菩薩の時代ですね。
そういう時代には、一切経は勿論あって、修行する人もいるけれど、
悟りを開く人がほとんどいない。
厳密に言えば、龍樹菩薩も悟りを開いていられますが、
そういう人がほとんどいない時代になります。
そしてその後の末法の時代になると、一切経はあっても、
真面目に実行する人がいなくなります。
だから当然、悟りを開く人もいなくなる。
ところが、末法は1万年あるので、今だとあと何千年か続きます。
その後に法滅です。
この時期になると、一切経はなくなってしまいます。
このことは『大集経』や、その他多くの経典に説かれていることです。
ですが、やがて一切経が滅びると予言されているのは、聖道仏教であって、
阿弥陀仏の本願を説かれた浄土三部経は別です。
『正信偈』にも「像末法滅導悲引」とあります。
正法は、修行すれば、救われる可能性も高いけれど、
その正法は除かれて、「像末法滅導悲引」と教えられています。
像法の人も、末法の人も、時代に関係なく、
真実というのは、滞ったり、変わったりしない、三世十方を貫くものです。
こういうことからも、聖道仏教は方便であるということが分かります。
大慈悲によって、決勝点まで私たちを救い摂ってくだされる。
いつの時代の人も関係なく救われるのが弥陀の本願です。
下巻のお言葉は、
やがて私の説いた一切経が滅尽する、滅びてしまうだろう。
しかし私は、何とか助けてやりたいという大慈悲をもって哀れみ、
特にこの『大無量寿経』だけは、ずーっと永久に残るのだ
ということです。
法滅の時期が来ても、滅びることはない。
これを特留止経の文と言います。
とくに阿弥陀仏の48願が説かれている『大無量寿経』は留めるぞと
出世本懐の留めを刺されたお言葉です。
ところが、ある人は、「百歳せん」というのは100年間だけ残るのであって、
その後は滅びるのだ、と言っていました。
これは、100年ということではありません。
漢文で100年のことは壱百歳と言いますので。
百歳とは、無窮ということで、限りない年月を言います。
これは仏教の常識となっています。
ところが、そういうことが全く通じない人には
百歳が永遠不滅であることを、どのように説明すればいいのでしょうか。
『大無量寿経』は何人もの三蔵法師が翻訳しているので、異訳本を示してあげればいいと思います。
『大無量寿経』は、中国で12回翻訳されて、今残っているのは5つです。
あとの7つは、訳した人の名前は残っているけれど欠けています。
なので、五存七欠と言われます。
今私たちが読んでいるのは、康僧鎧という人が翻訳したものです。
『大無量寿経』以外に残っているのは、
『無量寿如来会』
『無量寿荘厳経』
『平等覚経』
『大阿弥陀経』
時代とか微妙な書き方は違いますが、いずれも同じお経です。
その中の一つ、『無量寿如来会』というお経には、
このように書かれています。
「久しく住して滅せざらしむべし」
この『大無量寿経』だけは、久しく永久に留まる。
滅せざらしむべし。
不滅なんだと、如来会にハッキリと説かれています。
百歳は永遠であるということは明らかなんですね。
また、サンスクリット語の『無量寿経』も残っています。
それを見ても明らかです。
「私は、この教えが滅びないように、偉大な贈り物をするぞ」
こういう訳し方ができます。
『大無量寿経』の訳が一番素晴らしく、仏意が鮮明になっています。
五存ある中で親鸞聖人は、
「真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
とおっしゃっています。
だから私たちも、『大無量寿経』を読ませていただく。
そこに弥陀の本願が明らかに説き明かされています。