「仏法聞き難し」
と教えられています。
仏法を聞くことは難しいと。
なぜ難しいのか、聞けない理由として8つの障りを挙げられて
八難と言われます。
地獄界、餓鬼界、畜生界というのは三悪道といわれる世界で、
六道の中でも特に苦しみの激しい世界です。
それらの世界では、苦しすぎて仏法が聞けない。
六道というのは、6つの迷いの世界ということです。
1. 地獄界
2. 餓鬼界
3. 畜生界
4. 修羅界
5. 人間界
6. 天上界
これが六道です。
私たちは、その6つの世界を生まれ変わり死に変わりしています。
これを六道輪廻と言います。
六道輪廻は、生死輪廻とか、生死輪転、流転輪廻とも言われます。
私たちの肉体は常に移り変わっています。
細胞は7年間ですべて変わるそうです。
中学校では真面目な人が、大学ではアフロ。
モンシロチョウはチョウチョとなった時、羽を広げて飛んでいく。
仏教では、生まれてきてから死ぬまで肉体は変わっていくけれども
死んだ後も、地獄でも、畜生でも、6つの世界を生死生死と繰り返し、
グルグル回っている。
これを生死輪転と言われています。
そういう中にあって、私たちがたまたま人間界に生まれるというのは
有り難いことだと。
これについては、「盲亀浮木の譬え」で教えられています。
また、お釈迦様が『涅槃経』というお経の中で、教えられています。
「人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし」
これは、その世界に住まいをしている数を言われているんですね。
人口爆発といっても、畜生界の数には遠く及びません。
マンボウは1回に何十億という卵を産みます。
ネズミは1回に5匹。
その1匹が1年間に産むのは5回。
1年間で276億になるそう。
人間界の衆生よりも圧倒的に多いのが畜生界の衆生。
ところが、その畜生界の数よりも多いのが餓鬼界の衆生で、
それよりも圧倒的に多いのが地獄界の衆生です。
ですから、人間界の衆生と地獄界の衆生は全然違います。
それを言われているんですね。
その有り難い人間に生まれたことを、
「人身受け難し、今すでに受く」
と言われています。
これは『華厳経』に説かれています。
「人身受け難し、今すでに受く」というのは、
難いという言葉は無理ということではありません。
難しい教えを聞かせて頂いているのだから、素晴らしいということです。
人間に生まれてこなければ仏法は聞けない。
その仏法を聞いている。
「有り難い仏法を今聞けているんですよ」と言われているんですね。
また、苦しみの激しさを言われています。
人間界で苦しんでいる。
これを娑婆世界と言われています。
中国では「堪忍土」と言われます。
お釈迦様は「人生は苦なり」と言われているのですが、
人間界よりももっとひどいのが畜生界、
それよりもっと苦しみがひどいのが餓鬼界、
それよりももっとひどいのが地獄界。
畜生はいつも戦々恐々としています。
畜生界は弱肉強食の世界なので。
お釈迦様が出家された動機の一つですね。
常に斬るか斬られるかの世界。
ハエが飛んでいるのをカエルが狙っている。
そのカエルをヘビが狙っている。
そのヘビのことをイノシシが狙っている。
そのイノシシを人間が狙っている。
この畜生界というのは、ここでは肉体が畜生のことを言っているのですが、
人間界に生まれていても、心が畜生界に堕ちている人がいます。
いつも不安でビクビクしている人。
心が畜生さながらで、仏法を聞けない人。
餓鬼界に墜ちる人というのは、我利我利亡者。
食事の時、何にも話さない人。
食べたいよ、飲みたいよ、と常に求めて苦しんでいる。
だから人の立場に立つことって大事です。
地獄界の苦しみはもっと苦しいんです。
等活地獄
黒縄地獄
衆合地獄
衆合地獄の中に刀葉林地獄があります。
人それぞれ造った業が違う。
それぞれ、違った業が生み出した苦しみの世界に墜ちる
ということです。
また、蓮如上人という方の『御文章』2帖目12通に
「人間五十年・四王天」というものがあります。
人生50年を1ミリとすると、地獄の長さは地球10.8周。
それなのに、何とまあ、呑気にのんびりと聞いているのか。
極楽浄土に往けると聞いても、何とも思わないで、
ボヤボヤっといたずらに月日が過ぎ去っていってしまう。
まあそのうち何とかなれると思って、
エヴァンゲリオンを3回読んで線を引いている。
知らされた仏法を誰にも語らない。
眠りこける。
楽するだけ楽をする。
私たちの墜ちる地獄は等活地獄どころではありません。
八大地獄と言われますが、地獄には8段階あって、
その最後にあるのが無間地獄です。
だから聞いてくれよ、知ってくれよと書かれたのが
『御文章』2帖目12通なんですね。
八難の続き。
長寿天や辺地というのは天上界のこと。
楽しさにおぼれて仏法が聞けない。
苦しい時には投げ出す。
楽しい時には自惚れる。
それで仏法が聞けないということです。
まず人間に生まれたことが有り難い。
人間に生まれてこなければ仏法は聞けない。
人間に生まれたことが有り難いというのは、
苦しみの激しい三悪道ではないという点で有り難い。
そして人間に生まれてこなければ仏法が聞けないから有り難い。
「天上天下唯我独尊」とは、誕生偈に書かれている。
お釈迦様が出産と同時に、東西南北に7歩ずつ歩かれて、
手を上下に指して、言われた言葉。
ただ私たち人間にだけに、たった一つの尊い目的がある。
六道輪廻してきた私たちがたまたま人間界に生を受けた。
そして、少しも仏法を聞けない人たちばかりの中で、
仏法を聞かせて頂いている。
だから、多生の目的なんですね。
これを一生参学の大事といわれて、
たとえ息の切れ際になっても達成したならば万々歳なんですよと。
しかし本当は、多生参学の大事なんですよと。
では、その多生参学の大事とは何かというと、
この六道を出離することなんですよ
このための命なんですよ
だから自殺をするなんてとんでもないことなんですよと。
ところが、そんなことが分からず苦しんでいるのが三界です。
そこでお釈迦様は、グルグル回って苦しんでいる人に
そこを出離することを教えられているのが仏法なんです。
それなのに、法事があるとか、親戚が来るからと言って
仏法を聞かないなんてとんでもないことなんですよ。
それを見てお釈迦様は居ても立っても居られないんですよ。
せっかく、真実の教えを聞く耳、真実の仏法を聞く目、
真実の教えを語る口を持っているのに、
なんて勿体ないことに使っているの。
こういう意味もあります。
「世智弁聡の難」
弁聡とは自惚れ。
何でも知っている人は、自惚れが強いので仏法が聞けないということ。
何が正しくて何が間違っているか分からないから聞かせて頂くんですね。
「仏前仏後の難」
仏の在世に遇わなければ聞けないということ。
お釈迦様がお生まれになられて、その行く末を占ってもらうために
お城へ呼ばれたアシダ仙人。
お釈迦様を見て、無上のさとりを開かれる仏陀となられるだろうけれども
自分は、その頃に生きていないので悲しいと涙を流しました。
どんなに素晴らしい説法をされる方があっても、
その前に生まれたならば、その後に生まれたならば
仏法は聞けないんですよ。
そういう聞き難い仏法を聞かせて頂いてるんですよ、と教えられています。
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