そもそも目的は大切なもの。
アメリカの歴代大統領の中でも人気が高い、リンカーン大統領は
「Where there is a will, there is a way」と言っていて、
これは、意志あるところに道は開かれる、という意味です。
強い意思、信念、私はこのために生きているんだという意思があれば、
どんな困難なことにぶち当たっても道は開ける、ということです。
また、ゲーテという人は、
「人類史上始まって以来の天才」と自分で言うほどの人ですが、
実際、歴史に名を残す人物。
そのゲーテが
「目的さえあれば、どんな困難なことでも乗り越えることができる」
と言っています。
では、人生の目的は何でしょうか。
その人生の目的を知るに当たって大切な言葉
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
常がない、無常、ということ、中でも死を見つめることが、
損得抜きの、純粋な本当の幸せを見つけたいという菩提心の出発点なのだ
と言われています。
ヨーロッパでも「メメント・モリ」と言われますが、
仏教では「生死一如」という言葉があります。
生と死は一つの如し。
紙の表と裏のようなもの。
コインの裏と表のような、密接不離な関係にあります。
「生」については考えたい。
生き生きとしている、というと良いイメージ。
「死」については考えたくない。
死に死にの状態というのは、嫌なイメージですね。
だから「死」という言葉さえ聞くのが嫌という人が多い。
ついでに数字の「4」まで嫌われてしまうことも。
ホテルでも、4号室がなかったり、4階がなかったり。
子供の頃、不思議で仕方なかった。
エレベーターに乗ったら、
1階、2階、3階、「・」(ちょん)、5階となっている。
おかしいな、3の次は4だと習ったのに。
バスも1号車、2号車、3号車、次になぜか寿(ことぶき)号車、
そして5号車。
とことん嫌われています。
病院へ行くともっとそうですよね。
「今日から入院してもらいますが、あなたの部屋は
第4病棟の、4階の444号室の第4ベットです。
ついでに手術の日は、4月4日の4時4分4秒ね」
と言われると、
「やめてー」
となる。
入院している人に、シクラメンを持っていくと怒られる。
死暗面と読んでしまうとか。
シクラメンの香りっていいのに、とかそんなの関係ない。
みんな「死」を嫌い、「死」を考えないようにします。
ですが、「死」を避けて「人生」は語れない。
哲学は死の準備ともいわれます。
なぜか、これを例えでいうと
「生」は台所
「死」はトイレに例えられます。
台所は好きな所。
おいしいものが食べられるから。
子供の頃、帰ってきたら冷蔵庫に直行していました。
それに対して、トイレは嫌いな所。
うちは一家団欒、トイレでやってます
という家族はすごーく危ない。
昔のトイレは、もっとひどい。
それでも「トイレ」なくして「台所」なし。
トイレがないと、みんな困ります。
徳川家光にこんな話があります。
将軍家光が「この世で一番、気持ちのよいことは何か?」
と家来たちに尋ねた。
みな、色々に答えたが、ある家来が
「それは野糞をすることでございます」と答えた。
みんな、「お前、将軍様の前で、なんと不埒な!」といさめた。
家光も機嫌を損ねて、その家来を解雇した。
ところが、ある時、鷹狩りにでかけた家光が、急にもよおしてきた。
しかし、まわりに民家もない。
そこで、穴を掘らせて仮説トイレを作らせた。
「まだか、まだできぬのかー、まあだできぬのかぁーーっ!!」
「殿、今しばし、今しばしーーぃ!!」
戦場以上の気合いがお互い入っている。
そして、ようやくことを済ませた。
その時に、フッとあの家来の言ったことを思い出し、
「なるほど、このことであったか」と、よ〜く分かった。
そして、その家来は、役職に復帰することができたとさ。
メデタシメデタシ。
って話なんですが。
ここで分かりますように、トイレがないと、ものすごーく困るんですね。
家のトイレの水が出なくなった時は本当に困りました。
長距離バスのトイレが壊れて、しかも渋滞中。
サービス・エリアになかなか着かない。
そうなると、「まぁだ着かぬのかぁー」となる。
普段「死」を考えることをしないけれども、
それは「トイレ」を考えずに、食事をするようなもの。
片手おちも甚だしいのです。
そして「死」を通して初めて「人生」が浮き彫りになってくる。
命の重さ、大切さ、が分かってくる。
「死んだら死んだ時」とか、
「人生失敗してもいいです」
なんて言葉は出なくなる。
だからこそ
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
と言われるんですね。
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