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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年05月14日

生死の苦海ほとりなし

ご和讃では

 

 

生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける (高僧和讃)

 

苦しみ悩みの人生、広い海がほとりがない、再現がない岸辺が見えない。

見渡す限り苦しみの海が広がっている。

その海に私たちはながいあいだ沈んでいる。

 

久しくしずめるわれらをば弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

 

ながいあいだ生死の海で苦しんでいる我らを弥陀弘誓の船のみが乗せて必ず渡
してくれるんだということ
難思の弘誓は難度海を度する大船、ということ

 

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年05月13日

難度海とは?

難度海というのは苦しみ悩みおおきこの人生のことをいうんですね。


人生は苦なりとお釈迦様はおっしゃいましたが
「ままにならぬとお櫃を投がりゃ、そこらあたりはままだらけ」

思い通りにならない、思った通りにならん、いらいらする、
世の中こんな事が多い。
怒りを爆発させる。お櫃というのはご飯を入れるもの。

 

ままにならんと、えーいっと、ぶんなげたら、そこらあたりがままになった。
よかった、ということではない。

 

いらいらしてなんでもぶんなげたらよけい酷いことになる。
堪忍土。我慢しなかったら生きていけない、そういう毎日

 

 

「壁一重 子があって泣き なくて泣き」

一枚の壁を隔てて貧しい家の子沢山、どうすんだ、

あんたがつくったんでしょう。

このままでは一家干上がってしまう。

 

子供も友達にいじめられちゃったよ。

先生ちょっと刺しちゃったよ。

彼女ストーカーしていい?

とんでもないことばかりいってくる。

 

子供ばかりあってどうしてこういう目に遭うんだろう。

 

隣はにぎやかでいい、子供がほしい、

夫婦手を取り合って泣いている。
隣から子供の声が聞こえてくる。
うちはどうしてさびしんだろう。

あって泣く、なくて泣く、壁一枚へだてた夫婦がともに難度海で苦しむ。

 

「波の音 聞くがいやさに山家に住めば また松風の声がするなり」

 

波の音がざー。

うるさいなあ眠れない、こんなところに家たてるんじゃなかった。

海のそばはこりごり。

 

山にすんで、これで波の音がしない、今日からゆっくり眠れる。

こんどは松風の音がうるさい。まだ海の方が善かった。
どっちにいっても難度海

 

「永久に 満ちることなし 欲の山」

あなたはお金ほしい?どれだけ?あればあるだけ。

目安があるだろう。3億円が有れば。

3億円手にすると。

 

10億円手にしたらもういいかな?

まだたらん?見かけによらず欲が深いねえ。


どれくらい給料もらえたら満足しますか?時給30万?


本当に人間の欲にはきりがない、底なし。

 

限りない欲望を追い求めてあっという間に一生おわていく。

永久に満ちる、満足ということがない、

欲に引きづられて欲の山に迷い込んでもうでれなくなってしまう。

 

この苦しい人生を明るく楽しく航海させて下さる大きな船が

弥陀の本願なんだぞ。

 

教行信証の一番最初に親鸞聖人かかれている。

 

難思の弘誓は難度海を度する大船

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タグ:教行信証
posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年05月12日

宿善と罪悪観

宿善があつくなる、うすいのがあつくなって熟すると聞くと

どうしてもコップの水があふれるようなものを思うのかもしれないが

そうではない。

 

仏法を聞くと、「あのとき親にあんなことをいったなあ。」と思う。

私も「生んだお母さんがわるいではないか。」と言ったことがある。

あのときわることをいったと思うが、

しかし、仏法を聞いていないほとんどの人は

「わるかった。」なんて思いもしない。

 

また、子供頃あんなことをした、殺生をしたと思う。これは罪悪感。

しかしそれがどんどん深まってある一定のところまでくると

「ああ、おれは悪い奴だなあ」

と知らされて助かるというのではない。


進んでいくと

「悪いことは確かにやっているけど、みんなやってるでないか」

とおもうようになったりする。

 

初めの頃、思っていた罪悪が感じなくなる。麻痺してくる。

これは無常も一緒。聞き始めの時、

仏法を聞いて今日も人がしんでいるだろうなと思う。

 

そうなるとだいぶ進んでいるようにおもう。

今日にも信心決定できそうな気がする。

俺はサイレン聞いただけで無常を感ずる。

また、こんなに罪悪をざんげしている。

一年生でおれが一番進んでいるとおもう。

しかし、これは八百長。


「悪人、悪をなせどもなおその悪を隠さんと欲す」


悪を犯すけれどもそれを隠そうとする人は

悪を分かっているからそれはまだ上等。

 

しかし、本当の悪人になると悪を恥ずかしいとも思わなくなる。

「それがどうした。」「みんなそうだろう。」

すこしも悪を悪とおもわない。

しぶとい、浅ましい心、そんな心が見えてくる。

 

こういう心が見えてくると、

最初の頃いかに自分が演技してきたかが見えてくる。

 

ここでも相対の世界だが、コップの水がたまるのとは違う。

一念のとき、悪を悪とも思わないのが自分だったと知らされる。

 

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2017年05月11日

無常と罪悪・無慚無愧

無常を無常と思わない心、罪悪を罪悪とおもわない心に対抗して聴聞

自分の理屈に反する腹底に聞かせるには、

どういうことを胸に止めていけばいいのでしょうか。

 

どんなに自分に言い聞かせても仏法も鉄砲もないと反抗する、

効果のある言葉はないでしょうか。

 

思おうが思うまいが無常、罪悪はかわらない。

 

悪はどのように知らされてくるのでしょうか?

 

人によって違います。

親不孝してきたなあ、子供の頃作った悪が思い出される人もある。

 

悪は共通、具体的には人によって違う、当たり前でなくなって、

恐ろしい悪、人を苦しめてきた、反省させられていく。


相対的な悪から、少しも罪を罪と思わない厚かましい本性が知らされる。

懺悔する心すらない、みんなやってるじゃないか。

認めようとしない心こそが本当の悪です。

 

悪を謝る人は悪人ではあるが悪を認める心がある。

悪いことを隠そうとするのは恥ずかしい、そういう心がある人は望みがある。

恥ずる心の無いのを無慚無愧とおっしゃっています。


仏法聞くと知らされてくる言葉にかからない恐ろしい姿、絶対悪。

無始より苦しませてきた親玉、心も言葉も絶えてしまいます、

体験しなければ毛頭分からない。


悪人悪をなさんとすれどもなお悪を隠さんとする、

恥ずかしいと思っているのはまだ上等。


我々は作りながら本当は恥じる心がない、ひらきなおっている、

俺だけじゃない、隠そうともしない。


そういう心を親鸞聖人は無慚無愧

 

慚、自分に恥じる心それもない。

愧、他人に恥ずる心、それもない。

 

自分にも他人にも恥じる心がない。

そういう心を無慚無愧という。

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タグ:聴聞
posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教