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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年05月12日

宿善と罪悪観

宿善があつくなる、うすいのがあつくなって熟すると聞くと

どうしてもコップの水があふれるようなものを思うのかもしれないが

そうではない。

 

仏法を聞くと、「あのとき親にあんなことをいったなあ。」と思う。

私も「生んだお母さんがわるいではないか。」と言ったことがある。

あのときわることをいったと思うが、

しかし、仏法を聞いていないほとんどの人は

「わるかった。」なんて思いもしない。

 

また、子供頃あんなことをした、殺生をしたと思う。これは罪悪感。

しかしそれがどんどん深まってある一定のところまでくると

「ああ、おれは悪い奴だなあ」

と知らされて助かるというのではない。


進んでいくと

「悪いことは確かにやっているけど、みんなやってるでないか」

とおもうようになったりする。

 

初めの頃、思っていた罪悪が感じなくなる。麻痺してくる。

これは無常も一緒。聞き始めの時、

仏法を聞いて今日も人がしんでいるだろうなと思う。

 

そうなるとだいぶ進んでいるようにおもう。

今日にも信心決定できそうな気がする。

俺はサイレン聞いただけで無常を感ずる。

また、こんなに罪悪をざんげしている。

一年生でおれが一番進んでいるとおもう。

しかし、これは八百長。


「悪人、悪をなせどもなおその悪を隠さんと欲す」


悪を犯すけれどもそれを隠そうとする人は

悪を分かっているからそれはまだ上等。

 

しかし、本当の悪人になると悪を恥ずかしいとも思わなくなる。

「それがどうした。」「みんなそうだろう。」

すこしも悪を悪とおもわない。

しぶとい、浅ましい心、そんな心が見えてくる。

 

こういう心が見えてくると、

最初の頃いかに自分が演技してきたかが見えてくる。

 

ここでも相対の世界だが、コップの水がたまるのとは違う。

一念のとき、悪を悪とも思わないのが自分だったと知らされる。

 

posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪
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