無常を無常と思わない心、罪悪を罪悪とおもわない心に対抗して聴聞、
自分の理屈に反する腹底に聞かせるには、
どういうことを胸に止めていけばいいのでしょうか。
どんなに自分に言い聞かせても仏法も鉄砲もないと反抗する、
効果のある言葉はないでしょうか。
思おうが思うまいが無常、罪悪はかわらない。
悪はどのように知らされてくるのでしょうか?
人によって違います。
親不孝してきたなあ、子供の頃作った悪が思い出される人もある。
悪は共通、具体的には人によって違う、当たり前でなくなって、
恐ろしい悪、人を苦しめてきた、反省させられていく。
相対的な悪から、少しも罪を罪と思わない厚かましい本性が知らされる。
懺悔する心すらない、みんなやってるじゃないか。
認めようとしない心こそが本当の悪です。
悪を謝る人は悪人ではあるが悪を認める心がある。
悪いことを隠そうとするのは恥ずかしい、そういう心がある人は望みがある。
恥ずる心の無いのを無慚無愧とおっしゃっています。
仏法聞くと知らされてくる言葉にかからない恐ろしい姿、絶対悪。
無始より苦しませてきた親玉、心も言葉も絶えてしまいます、
体験しなければ毛頭分からない。
悪人悪をなさんとすれどもなお悪を隠さんとする、
恥ずかしいと思っているのはまだ上等。
我々は作りながら本当は恥じる心がない、ひらきなおっている、
俺だけじゃない、隠そうともしない。
そういう心を親鸞聖人は無慚無愧
慚、自分に恥じる心それもない。
愧、他人に恥ずる心、それもない。
自分にも他人にも恥じる心がない。
そういう心を無慚無愧という。