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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年06月14日

秘事法門の特徴

浄土真宗の異端である

秘事法門の特徴とは?


彼らの言う正しい仏教の先生「善知識」から

「それでよい」と信心が認可される。

 

信心を認可する。

 

「それでいいんだよ」と知識が言ったかどうかで判断するのが秘事法門の特徴

 

「これで助かったんだろうか?」という言葉が出てくる。

「それでいいんだよ」と言われるとこれでいいような気がする。

 

秘事法門は、体験談のオンパレード

教えよりも体験談が好き。

 

「信心も色々、獲信も色々」

真実の信心は一つ

 

お釈迦さまの大無量寿経

本願成就文に教えられた信心一つが真実信心

 

改邪鈔には、

かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の

「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、

このほか未だ聞かず。

とある。

 

かの心行を獲得せんこと

とは、信心獲得したかどうかは。

 

念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文

とは本願成就文のこと。

 

依憑」とはものさし。

 

唯一の物差し 願成就にピタッと一致する体験かどうか。

これ以外の体験はどんなに素晴らしい、

どんなに嬉しい、

どんなに泣けた体験でもくだらない体験。

 

I先生か誰かに尋ねなければ安心できないような信心。

 

真実の信心は阿弥陀仏と自分の一対一。

他人が分かるものではない。

阿弥陀仏と自分しか分からない。

 

善知識は必要だが最後はいらない。

 

後世物語聞書

如何なる人来りて云い妨ぐとも、すこしも変わらざる心を金剛心という

「如何なる人」善知識・仏も入る。

 

体験談しか聞かなくて体験したから、

教えがないから「これでいいんでしょうか」と聞く。

 

善知識が「いいんだよ」なんて言えない。

本人以外わからない。

その人と阿弥陀仏の間の事。

 

人の上に信・未信を立ててはならない。
法の上に信・未信は立てなければならない。
教えの面で明らかにしなければならない。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年06月13日

自分の未来・夢

自分の未来っていうことを考える機会があまりないかもしれません。

最後死という壁に突っ込んでいく。

こういう事実をほとんどの人が考えていない。

だから成功しそうで失敗する。

 

「Begin with the end in mind」

目的をもって始めなさい。

 

世界中で1000万部を突破した本、7つの習慣。

世界中の成功者と調べて、共通の7つの習慣がある。

これは活動のワナというところにある。

 

何の為に活動しているか、忙しくなると忘れてしまう。

見失う人ばかり。

一貫して見失わないのが人生成功の秘訣。

 

将棋をするならば、最終的に狙いとするのは王将。

将棋には局面がある。

桂馬の高飛び歩のえじきになる。

 

どうしたら飛車を失わずに済むか。

金もとった銀もとった、香車もとったが、王将を取られたら負け。

名人は肉を切らせて骨を断つ。

王将を取ったら勝ち。

 

臨終は人生の総決算といわれる。

人生が本当に素晴らしいものか、成功を納めることが出来たか、これは臨終を迎えたとき。

 

人は棺を覆うて名定まる。

人の評価ができるのは、棺おけに入ったとき。

臨終を迎えたとき。

 

その都度の局面を乗り切った果てに負けたら意味がない。
私達はいいところに就職できるか、どんな映画をみたらいいか。

これらは、将棋の局面と同じ。

 

死んで後悔する人生なら失敗。

死んで行く時に、満足して死ねるなら成功。
100%確実な未来、後生、死に無関心で、興味がない。

目の前の飛車をとられないように精一杯。

これでは人生の名人ではない。

最終的に、王将を早く取るのが人生の名人。

 

昔、豊臣秀吉がいた。

大阪城、関白。秀吉が小さな頃猿と言われた。

女の子が近づくとみんな逃げて行った。

 

天下統一して、美女をみんな買ってしまった。

お金にしても財産にしても、城にしても素晴らしいものを手に入れた。

臨終を迎えるとどうであったか。

 

辞世に

おごらざるものもまた久しからず
露と落ち 露と消えにし我が身かな 難波のことも夢の又夢

といった。

 

おごる平家久しからず、という教訓を持っていた。

おごらざる者もまた久しからずで、勢いが衰えて、老いぼれて死んでいく。

 

一生振り返ってみると、みんな葉っぱの上にあった露が儚くなったようなもの。

しばらくの間であった。生まれてくるのも一人ぼっち。

栄耀栄華も夢の中で夢を見ているような儚いものでしかなかった。

 

人が夢を見ていると書いて儚い。

人生は夢中で恋を追いかける。

受験なら受験で夢中。

ゲームならゲームに夢中。

テレビならテレビに夢中。

そういうことを繰り返しながら、その時は面白かったということでも、

はかないことで終わってしまった。

これじゃあ成功をおさめたと言えない。

 

素晴らしい人生であったとは言いがたい。

死んでいかねばならないときに、

素晴らしいと胸張って言える人生でしたといえるものでないと失敗。

我が人生悔いなしといえるもの。

 

人間に生まれてきて良かったといえるもの。

これをはっきりさせないといけない。

 

人生の目的は死が来ても崩れない、

いつ死んでも悔いなしという身になることを

後生の一大事の解決という。

 

後生暗い心をぶち破るのが大事。

これはこれで、乗り越えるのはいいことだけど、

最終的に、絶対に崩れない幸せな身に、

生きているうちにならないと人生の成功者とは言えない。

 

仏教では、死と言う問題を今に持ってきて、死の解決であると教えられている。

今死んでも変わらない幸せを、絶対の幸福という。

 

無碍の一道に出るという。

死んでいくときに、みんな置いていくものをうるためでない。

それを果たすために、これらの楽しみがある。

最終的にどうなるか、知らないうちに王将を取られては負け。

 

死の解決をして絶対の幸福になるにはどうすればいいか。

それまでに上手に乗り切っていく。

絶対の幸福になるとはどういうことか。

どうしたらこういう身になれるのか。

 

それは仏教に教えられている

 

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年06月12日

仏教で教えられるお金や時間・労力の使いみち

世間へつかうことは、仏物を徒らにすることよ、恐ろしく思うべし。
さりながら仏法の方へはいかほど物を入れても飽かぬ道理なり

(御一代記聞書227)

 

フランクリンが小さい頃、

笛が欲しくなって、定価の3倍の値段で買ってしまった。

高く買いすぎた。

しかしそれ以来、他の人が価値以上のお金を出しているのをみると、

あれは高く買いすぎていると自分を戒めた。

 

フランクリンは 避雷針で有名。

『7つの習慣』で、素晴らしい成功者として挙げているのが、

フランクリン。
 

人間欲の心を起こすと、実際の値段の4倍の値段でも買ってしまう。

真価以上の金を払ってしまう。皆さんと同じ年齢の人で、

グレイのコンサートに行く人がある。

S席のチケットでは、数万だろう。

 

日本のトルシエジャパンがシドニーに行った時、

3戦目がブラジル。

 

試合を見て帰るだけのツアーが即日完売。20万。

秋のしらべといって、歌手がツアーをやる。

1食で5万円。高く買いすぎている。

 

人間がお金をかけるとか、時間をかけるとか、幸せになると思うところにかける。

それでどれほどの安心満足が得られるか。

 

ほんのちょっとした安心満足をうるために費やしている。

 

世間ごとに一万円出すのはひげをなでるより簡単。

仏法のために一円を出すのは、生爪はがれるよりもいたい。

 

世間のことには結構使っている。

 

あるときスピード違反でつかまった。

昔は罰金が10万近かった。

 

うそだろう?と、むしりとられる。

情けないなと落ち込む。

 

出せるじゃないか。

不本意ながら切り取られる。

スピードを高く買いすぎた。

 

一瞬の気の緩みで、ちゃんとしておけばよかったのに、

高く払い過ぎないといけない。

人生とはそういうことがすごく多い。

 

松坂がシドニーオリンピック前に、アナウンサーの柴田のところへ行った。
松坂は会見で、別にいいんじゃないですかと言っていた。

 

スポーツ担当で、江川の横に出ていた。

取材対象が松坂。

モラルには反している。

高校の女教師が生徒と仲良くなるみたいな。

 

昨日の新聞見ると松坂厳重処罰。

野球活動禁止とあった。
彼女のところに行く時に免停中であった。

しかも駐車違反貼られていた。

他の人に代わってもらった。

それがフライデーに、一部始終が掲載されたためにばれた。

 

これがモラルにも劣る。
駐車違反でもいくらか払っておけば良かった。

そこで犠牲にするものが大きい。

適切な代償を払ったものでない。

 

 

そんなところへお金や時間を取るのは、幸せになれない。

それに比べると、もっともっとお金や時間をかけていいものにかけていない。

 

 

自分の好きなCD買うとか、パソコン買うとか。

そういうところに使った方が得で、自由で幸せになれると思っている。

仏法の為にお金や時間を使うのが損かのように思う。

これは得するようで損をしている。

 

世間へつかうことは、仏物を徒らにすることよ、恐ろしく思うべし。
さりながら仏法の方へはいかほど物を入れても飽かぬ道理なり

(御一代記聞書227)

 

仏法の為に使えばいいものを、世間へ使って無駄にしている。

仏法の方へどれだけお金を入れても、物を入れても、

そこまで入れんでもいいよということはない。

 

自分に値打ちがあるものにお金や時間や労力、神経を使う。

これが自分を幸せにしてくれると思うものに時間を使う。


ロボットこそ命と思う人はそこへ使う。

資格試験が命と思う人は予備校へ使う。

笛が欲しいと思えばそこに金を使う。


そんなに幸せにしてくれないものに、お金や時間を使い過ぎている。


仏法を求めさせていただくには、高いな、もったいないなと思う。

これが損しているということを

御一代記聞書で教えられている。

 

世間へつかうことは、仏物を徒らにすることよ、恐ろしく思うべし。
さりながら仏法の方へはいかほど物を入れても飽かぬ道理なり

 

世間の幸せは、一時的なはかないものだから、

その時限りで消えてしまう。

本当の幸せにしてくれるのは、仏教なんですよ。

もっと力を入れて仏教を学ぶべき

ということ。

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2017年06月11日

念仏者に天神・地祇も敬伏のは虎の威を借る狐?

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、

信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし、

罪悪も業報を感ずることあたわず、

諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり、と云々。歎異抄7章)


人生の目的は無碍の一道に出ること。
では無碍の一道に出たらどうなるか
書かれている。


信心の行者、念仏者と同じ。

その信心の行者には、天神地祇が敬伏する
天地の神々が、あなたは素晴らしい人、と頭を下げる。

 

旅館にバスで、会社の慰安旅行なんかに行くと、必ずといっていいほど、従
業員一同が、ありがとうございましたぁー。
これは、人間やお客さんが立派なんでなくて、金づる。

金に頭を下げるている。
 

あるいは、政治家に頭を下げる。金持ちに頭を下げる。

そうすると、その人の力で、有利に金を導いてもらえる。

別に、心からその人を尊敬しているとか、ない。


それが、無碍の一道に出た人は、

天地の神から、心から敬って頭を下げられる身になる。

 

教学的に言いますと、
あなたは阿弥陀仏から仏心を賜った人、

南無阿弥陀仏を頂いた人。

 

阿弥陀仏は私達の最も尊敬する仏様。

その阿弥陀仏から、仏心を頂いた。
そんなあなたに、阿弥陀仏の下にいる仏方、心から頭を下げる。

 

虎の威をかる狐。

キツネが虎に食べられそうになったとき

内心はびくびくしながら

虎に対して、

「お前、俺を食べようとして。

森の神だからそんな事をしたらダメだ」

うまい事言った。


「そんな事ないだろ?そんなら、俺の後を付いて来いよ」
本当かな?と虎が付いて行く。

狐が通ると、その後をすんげぇ虎がついて来る。

あれぇーと逃げていく。虎が怖いから。

 

行進して、見たか、俺は森の神だから、みんな逃げていくんだ。

わかったか。
すいませんでした。

 

これは、狐の方にはまったく値打ちもなければ力もない。

そういうのを、徳がない、という。


周りの人が敬うような徳、そんなもの持っていないのが、狐なんです。

ところが、虎をバックにつけておくと、虎の徳っていうのは凄くって、

虎を見たら、みんな逃げる。そんなものなんですね。

 

無碍の一道へ出ると、至徳具足の益。

徳のない私達が、無碍の一道に出ますと、

阿弥陀仏がバックにつく。

いつどこに居ても、阿弥陀仏を連れている。
南無阿弥陀仏を賜った、そういうあなたに、

天の神も地の神も、頭を下げる。

 

いやー、あなたは凄い人。
そういう幸せの世界に出れるのですよ。

よく、歎異鈔第七章、

関東で、平太郎という男が、熊野権現に参らなければならなくなった。

荷物持ちだけはよい。仮病を使って、行かなかった。

 

おい平太郎、ここまで来ておいて、

わしの所までどうしてこなかったのじゃ。
もう一方の襖から、親鸞聖人が現れて、私の教えを聞いて、

念仏するものぞと言われた。

 

御伝鈔に書かれています。

世にも不思議な事でございますね。

 

もし皆さんが、念仏者になって、無碍の一道の世界に出たら、

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜って。

あなたは、私の上の上の上にいらっしゃる阿弥陀仏から

南無阿弥陀仏を賜った身だ。

 

そして、その次に、魔界外道も障碍する事なし。
お前の信心は間違いだ、仏教の教えをねじ曲げるもの。

一切の妨害に妨げられることない。

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2017年06月10日

報われる苦労

同行の前にては喜ぶなり。これ名聞なり。

信の上は一人居て喜ぶ法なり。

(御一代記聞書154)

 

一人いて喜ぶ法」とは、誰とも比較しない、

魂の自由人になるということ。

 

親鸞聖人の法、聞き求めている人でも

何かの先頭集団から遅れをとるということはある。

 

そのとき感情的に落ち込んでどうとかいうのは愚かしいこと。

一人一人が原点確認して後生の一大事求めていく。

 

感情的に落ち込むことに幻惑されないで、

原点を確認して確実に進んでいく。

そういうこと私も心がけていきましょう。

 

そういうこといっても失意の人には、報われる苦労。

人生は苦なりという言葉があるように、どういう道とっても人生は苦しみ。

仏法の為にお金、体力、神経使ってもまったく報われないという人がいる。

 

それで、仏法以外の所に、大変追ぎ込んでいる人がいる。

セカンドスクールに通うのに、免許を取るのに、こういうものをつぎ込む。
就職活動にそうとうのものをつぎ込む。

社会に出て何年かたってリストラされて、

死んでいく時に置いていくものに一生懸命なっている。

そちらのほうがまったく報われない。

 

最近話題なのが、そごう。心斎橋のそごう。バブルの典型。

そのA級戦犯に水島会長がいる。数千万円が貸される。私腹を肥やす。

水島会長の立場にたてば、拡張や社員をまかなったり、裏工作したり、

大変苦労したと思う。

 

しかし、今は失墜。全然苦労が報われない。

 

ユーゴの大統領が失墜して、やられている。

コソボの紛争があった時にも頑張っていた。

当時は相当の金も時間も使った。

しかし今は悲しい状況。

 

そして、死んで行くときには何一つ持って行けない。

すべて水の泡になってしまう。

 

私たちが、受験を乗り越え、就職を乗り越え、

なんやかんやを乗り越えて頑張っている。

 

ガリガリ勉強とか、バリバリ社員だけではつまらない人は、

気晴らし力を身につける。

テレビ番組見て笑うとか、ドラクエとか・・・。

 

いま直面していることが大変だから、その時その時の気晴らし。

しかし越えていかなければ山は変わっていない、

全て失うこと変わっていない、

後生突っ込んでいくこと変わらない。

 

その中仏法者だけが、後生の解決できたぞ

という決勝点に向かって進む苦労だけが、

死が来ても崩れない幸せになれる、

報われる苦労。

 

人の心得のとおり申されけるは、

「我が心はただ籠に水を入れ候様に、仏法の御座敷にては有がたくも尊くも存じ候が、

やがてもとの心中になされ候」

と申され候所に、蓮如上人仰せられ候、

「その籠を水につけよ」と「わが身をば法にひてて置くべき」由仰せられ候。

万事信なきによりて悪きなり。

善知識のわろきと仰せらるるは、信の無きことを僻事と仰せられ候事に候。

(御一代記聞書89)


寺は照る照る道道曇る家に帰れば雨風じゃ
という歌がある。寺で喜んでいても、煩悩のむら雲が出てきて、

煩悩のジャングル。

人間はさっきまで聞いていた話、原点の確認もふっとんでしまう。
どこにお金を使えば報われるか、報われないか、忘れてしまう。

目的をはき違えていると、使うだけ、苦労するだけ損。


その為には、仏法を説かれている場所に来ないと見失ってしまう。

自分もそうだし、来ていない人もそう。

重ねて縁を与え縁を求めていきましょう。

 

オリンピックのメダリストたちも、一度は止めようとおもったが、

そこを諦めずメダルを取っている。

 

死ぬほどいやなことがあるかもしれないが、諦めたら終わり。

そこを進む苦労こそ報われる苦労。

それは仏教の教え聞かせて頂かなけけばできない。

一歩一歩進んでいく。

 

そこを進んでいって得られるものこそ、
一人いて一人喜べる世界。

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タグ:蓮如
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年06月09日

無碍の一道は2つのさわりがなくなる

念仏者は無碍の一道なり。

(歎異抄第7章)

 

無碍の一道といいますのは、一切がさわりとならなくなった、

たった一つの世界です。

たった一つというのは「絶対」という意味です。

これは親鸞聖人が仰有ったことをお弟子が書いたものですが、

親鸞聖人が直に書かれた言葉では、
「外の雑縁さらになし」とあります。

 

外の雑縁さらになくなくると。

まったくなくなるということです。

 

幸せを邪魔するもの、生命の歓喜を邪魔するものは

まったくなくなるということです。

 

外の雑縁に二つあります。

一つは、他人からの非難中傷攻撃。人から非難される。

「間違いだ。やめなさい」といわれると、動揺しますね。

 

二つ目は、自分の心の中にある悪業煩悩

欲・怒り・愚痴が出てくると、こんなことではだめだなと喜べなくなる。

 

幸不幸を左右するもので、他人の評価というのは非常に大きいです。

それだけ評価されたい、大事にされたい、

認められたいという気持ちが強いんです。

 

国民全員とはいわないけど、身の回りの人から認められたいと思うでしょう。

みんなに無視されると、それだけで淋しくなりますね。
他人の目によって、自分の心って変わりますね。

小さな子供から「かっこいい」といわれると、

それだけでも有頂天になったりしますね。

すごく左右されます。

 

これこそ真実と思っても、ちょっと誰かが批判しているのを聞くと落ち込んでしまう。

そんなことないのは自分が一番よく分かっていても。極端ですね。

自分の幸せがころころ左右されるんですね。
非常に振り回されています。

悪業煩悩。

こういう心が出てくると、それまで幸せで喜べたことが喜べなくなってしまいます。

昔、チェッカーズの歌に「君に会うために生まれてきたと判った」

というのがあるんですけど、そういう錯覚ってたまにありますね(笑)

でもその人が別の人が好きだということが判ったりすると、もう嫉妬の嵐でしょう。

 

宝くじで一億円あたったCMで、めちゃめちゃ喜んでいるでしょ。
でも、一億円が手にはいると、今まで視界になかったものが目にはいるようになってきて、

もうちょっと欲しいという心が出てきます。

 

大学はいったときはうれしかったでしょう。

でもすぐに次の欲求が出てきて喜べなくなる。

そうやって感謝の心を邪魔するんですね。

 

ところが親鸞聖人は、人からどれだけ非難攻撃されようが、

どれだけ悪業煩悩が逆巻こうが、全く問題にならない世界があると仰有っている。

人間に生まれてきてよかったという気持ちは一点の曇りもないと仰有っている。

それを歎異抄第七章に、非常な名文で明らかに仰有っているのです。

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タグ:歎異抄 念仏

2017年06月08日

分かっちゃいるけどやめられない

植木等って知ってますか?
まぁ、この植木等って、浄土真宗の寺の息子なんですね。

散々、親不幸ものって言われるんですけれど。


一世をふうびした、スーダラ節。知っている人?
スイスイ・・・わかっちゃいるけど、やめられない

 

非常に親しみやすい旋律にのって、出てくる。

人間、頭の上じゃ、こういう事じゃいかん、とわかっている。

けどやめられない、こういう事ってある。

 

今、ここでテレビ見てる場合じゃねえ。

わかっちゃいるんだけれど、どうも止められない。

こんなに甘いものを食べていたら身体に悪い、とわかっちゃいるんだけれど、やめられない。

止められない止まらない、カルビーかっぱえびせん。

男の人に言われる事で、酒に溺れるな。

男の人であれば女の人。女の人であれば男の人。
大抵、大変に資質もあったのに、見込みもあったのに、思いっきり道をはずす、

こういう事ってありますよね。

 

男性に限っていえば、酒か、女か、金か、ギャンブルかでダメになるんですよね。
女性は結婚する時に、この点、チェックするのが大事ですね。

パチンコでする人、マージャンでする人、似たような傾向がありますね。


お酒を例にとってみますと、適度に飲んでいるのであれば、交流を深める、ざっくばらんになる。

しかし、飲みすぎると、本当はそこまでやっちゃいかん、

言っちゃいかん、という事まで言ってしまう。酒癖が悪い。

 

また、心の中を、ある一人の女性に一杯になってしまう。

今そんな時じゃないの、といっても、奪われるでしょ。
向こうの方から彼女が駆けてくる。空想の世界に入ってしまう。

あんた、現実にはそんな事起こらないのよ。

そんな所に神経をさいている場合でないのに。

おそらくは、優れた人物とは、いかにコントロール出来るか、かもしれません。

しかし、そういう所から、

人間とは、ごく簡単な事が、わかっていないという事も言えます。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2017年06月07日

生きている人に人生の目的を説かれたのが仏教

人生の目的が、生きている人に向かって説かれている仏法。


どんな人でも、この仏の道を求めていくと、生きているこの世で、

はっきりと私は、絶対に崩れない、絶対に変わらない、

本当の幸せになれましたよ、
こういう完成がある、決勝点がある。

 

どんな人にもある、まっくらがりの心が、一念いで破られ、

何がやってきても崩れない、本当の幸せになれる、決勝点があるぞ。


ゴール、決勝点があるぞ、こういう事を、生きている人に向かって

釈尊は言われたわけです。

この決勝点の事を、信の一念、と仏教で言います。

 

日本晴れの心を、信って仏教では言いますね。

一念とは、あっという間もない。

ぎゃーという間もない、一念いで大安心大満足の日本晴れの心に、

心が180度がらっと大変わりする。

 

 

突破したのか、突破していないのか、

わからないという事はありえない話で
がらっと変わる。

 

火に手を突っ込んで、あちっちちち・・・。

生きている人に説かれた仏の教えを生きている内に聞いて、

果たした人は、がらっと心の大転回があるので、

 

廻心ということただ一度あるべし。

歎異抄

 

一生涯でたった一度ある。

ある人で一度、ない人はない。

 

これは、生きている人に向かって説かれたので、

死んでいる人に説かれたという事はありえない。

 

丁度、ここからここまでは、暗い部屋が、

闇黒に閉ざされていて、光がまったくなかった。

 

スイッチをONにする。
闇幕で覆われていた部屋をさっと開ければ、

ずーっとまっくらがりであった部屋でありましても、

一念いで、部屋が明るくなる。

 

こういう事を、仏教の言葉で、明来闇去。

明かりが来て、たちまち光に包まれる。

 

丁度、私達人間の心の奥底にも、

千年来まっくらがりだった蔵のような心があって、
心が、決勝点を突破しますと、がらっと変わる、

そういう決勝点がありますから、

仏教を聞けば、その決勝点を、すべての人が突破する。


永遠に消えない光を心に頂いて、大安心大満足の心に、

がらっと180度変わるんだ、と教えられます。

 

 

仏教の教えを学ぶ総合サイト

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タグ:歎異抄

2017年06月06日

魔界外道も障碍することなし

信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし

歎異抄


信心の行者には魔界外道も障碍することなし、

魔界外道というと、一つ目小僧とか妖怪を思い出すかもしれませんが、
魔界外道とは真実の信心を妨げるもののことです。

 

親鸞聖人は誰も邪魔することが出来なかった。

親鸞聖人が受けた非難に3通り。

 

親鸞聖人は

阿弥陀仏一仏でないと助けることがが出来ない、

外道を捨てよと言われましたが、

権力者は、日本は神の国だという神信心のものですから外道です。

 

親鸞聖人は

偏ったことを言っている
偏執者と言われました。

 

そうゆう非難を浴びられても

この親鸞聖人の前進を止めることは出来ないどころか

ますます突き進んでおられます。

 

親鸞聖人が権力者に言い返されたお言葉は。

主上臣下法に背き義に違しいかりをなしあだを結ぶ

とんでもない奴等だ!!!と言われています。

 

もっと激しいのが口伝鈔に

上一人よりはじめて偏執のやから一天にみてり

神信心している権力者から偏執者と言われていますが、

親鸞聖人は
「お前らこそ助ける力もないものにむりやりすがっているではないか!!」」
と徹底的に天皇に言い返されている。

 

また親鸞聖人は聖道門仏教を捨てよと言われましてたから、
聖道門のものからこてんぱんに言われています。
あの親鸞は「肉食妻帯の破戒僧だ」と言われましたが、
この程度のことで親鸞聖人の前進はとまりませんでした。

聖道の諸教は行証久しく廃れ
諸寺の釈門教にくらくして真仮の門戸も知らず

弥陀の本願には老少善悪の人を選ばず、何を勘違いしているのか!!

 

また弥陀の本願を念仏称えたら助かるとか言っている連中から

「背師自立の横着者」
と言われていますが、恐らくは親鸞聖人は一番悲しまれた。

定散の自信に迷うて金剛の真信にくらし

 

 

信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし

とは、一切の者は親鸞聖人の前進を妨げることは出来ないと言われている

親鸞聖人の体験のことです。

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2017年06月05日

わろきこと

人の心得のとおり申されけるは、「我が心はただ籠に水を入れ候様に、

仏法の御座敷にては有がたくも尊くも存じ候が、やがてもとの心中になされ候」と申され候所に、

蓮如上人仰せられ候、「その籠を水につけよ」と「わが身をば法にひてて置くべき」由仰せられ候。

万事信なきによりて悪きなり。

善知識のわろきと仰せらるるは、信の無きことを僻事と仰せられ候事に候。

(御一代記聞書87)


ある人が蓮如上人に申し上げた、自分の心は丁度籠みたいなものです。

聴聞しているときは仏法有り難いなぁ、尊いなぁと思っているのですが、

家につくとそんな殊勝な心はなくなってまた元の心になってしまう。

 

あなたも仏法を聴聞したとき、大事だなぁ、後生の一大事だなぁ、とこう思っていても、

とことことこっと階段おりて行くとだんだん心が曇ってきて井の頭せんのって

家についたらそんな殊勝な心はどこへやら、家族と喧嘩したり、

テレビつけてたり、もとにもどってしまう。

 

昔の同行は

寺はてるてる 道々くもる 家に帰れば雨風じゃ

と言っています。

 

昔は寺で仏法聞いていてた。今は葬式法事の場所だが。

仏法聞いて、是は頑張らなきゃと思った。

道々曇る。

 

説法が終わって家に帰るわけですが、道々曇ってくる。

だんだん仏法の事忘れてくる。籠から忘れてくる。

家に帰れば雨風じゃ、孫の面倒観る、夕食じゃ、風呂入れろ、

仏法はそっちのけ、どう生きるかで頭いっぱい、昔の人は歌った。

 

ですからいつの時代もそう

信心決定、後生の一大事の解決もとめても何か同じ事の繰り返し、

自分の求道はぐるぐるまわっているような感じがし、

このような質問をせずにおれなくなる。


実際はぐるぐるこんな道をまわっているような気がする。

卒業のある、決勝点のある道を進んでいるんですが、

しかし実際に心に感じるのは何か同じ事の繰り返しで

自分の求道は少しも進歩せず何時も同じ調子、
いつも家と会社の往復、同じ事の繰り返しのように感じている。

 

こんな道求めているのにぐるぐる果てしない道を求めているような気がする。

 

真面目にこの道進んでいけば、流転輪廻をしているわが身の姿が知らされて来るんですね。

これを仏教で流転輪廻といいます。

同じ所ぐるぐるまわっている、そういう姿ですね、全人類の姿です。

 

同じ所ぐるぐる回るんです。

朝起きて、学校行って仕事して働いて寝る、また朝起きて、仕事して、

働いて、同じ事をぐるぐる繰り返している、

ファッションもそう、スカート長くなったり短くなったり、

髪の毛黒くなったり茶色くなったり、

四年に一回のオリンピックも同じ事ぐるぐる繰り返している。

 

政治経済もぐるぐる、信心決定を求めて仏法聞き始めたのですが、

なにか同じ事の繰り返しで自分の心は少しも進歩せず、変わらないように思える。

 

新しい知識が増えたときは進んでいると実感する。

しかし同じ話を聞いて聞いているときは喜べるんですが、

家に帰るときはそれがなくなる、全く同じ、高校の時の自分と同じ。

 

自分の求道が進歩せず同じ所をぐるぐるまわりこのような質問をせずにおれなくなる。

籠で水をすくうような気持ちがする。

 

籠とは我々の心を喩えられている。

これは我々の心。水とは入れようとしているもの、有り難い、尊い、

もったいない、すっきりした、ハッキリしたという心、

水というのは有り難い。この様な心を水に喩えられている。

 

ですから水をくむというのは自分の心をこの様にしようと努力している。

ところがくんでもくんでも籠のなかの水はみたされない。

 

何とか水をくもうとするのだが、抜けてしまう。

仏法聞いているときは給っているような気がするがすぐすると

ざーっと抜けてしまう。

 

水をくむとはこういう心を自分の心にしようと努力していることを言うのだが、

くんでもくんでも籠の中には水は満たされない、

同じ事の繰り返しである。

 

水をくんではザーッと抜ける。

仏法聞いて、またざーっとぬける。

これを仏教では流転輪廻という。

尊い、有り難い、嬉しい、という心は全人類が求めている心。

有り難い、嬉しい、ハッキリした、このような心を得る手段として。

 

お金、名誉、地位、財産、家、金メダル、その他生き甲斐は全てそう。

これはこの様な心を得るための手段、そして求める。

金メダルという金メッキした円盤を求めてこのような心になりたいと

全人類は求めている。

 

ところがその喜びはやはり続かない、ざーっと抜けていく。

お金、地位、名誉、財産を通して、この様な心になりたいと思うのですが、

喜びは続かない。

アッというまに過ぎ去ってしまう。

 

高橋選手も「楽しかったオリンピックもあっというまに終わってしまいました」

みんな流転輪廻している。

金メダルとった慶びも続かない、四年後めざさなければならない。

オリンピック、世界選手権、優勝してもそんな心みんな無くなってしまう。

ですから全人類は流転輪廻している、そんな姿を仏法聞いていくと知らされる。

 

ですからこの問いに答えられる人、は全人類をも指導できる人である。
全人類は流転輪廻して苦しんでいる。

どこまで行っても是で終わったと言うことはない、

本当の安心も無ければ満足もない。

 

普通の布教師に聞いても誰もそんな物じゃ、ハッキリ助かると言うことは無いんじゃ、

今生でハッキリすっきりするということはないのだ

蓮如上人のようなよほどの名士に合わなければわからない

蓮如上人は其の籠を水につけなさい。

蓮如上人のこの以外な答えは何を意味するのか、

まず、籠を水でいっぱいにすることが出来ると言うこと、

人生の目的果たした、大安心大満足がくずれない幸せが有るんだということを

蓮如上人は仰っている、この世から生きているただいまから私達の心、

有り難い、嬉しい、助かった、という心で一杯にすることが出来ると言うこと。

 

それを一つ言われている。

その方法も仰っている。

籠の中に水を入れようとしているのが間違いなのだ、

心の籠の中に水を入れようとしているのが間違い。

 

仏法の中に飛び込めといわれている。

自分の心に南无阿弥陀仏の大功徳を頂くのでなく、

自分が南無阿弥陀仏を頂こうというのでなく、

自分が飛びこませて頂く。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教