人の心得のとおり申されけるは、「我が心はただ籠に水を入れ候様に、
仏法の御座敷にては有がたくも尊くも存じ候が、やがてもとの心中になされ候」と申され候所に、
蓮如上人仰せられ候、「その籠を水につけよ」と「わが身をば法にひてて置くべき」由仰せられ候。
万事信なきによりて悪きなり。
善知識のわろきと仰せらるるは、信の無きことを僻事と仰せられ候事に候。
(御一代記聞書87)
ある人が蓮如上人に申し上げた、自分の心は丁度籠みたいなものです。
聴聞しているときは仏法有り難いなぁ、尊いなぁと思っているのですが、
家につくとそんな殊勝な心はなくなってまた元の心になってしまう。
あなたも仏法を聴聞したとき、大事だなぁ、後生の一大事だなぁ、とこう思っていても、
とことことこっと階段おりて行くとだんだん心が曇ってきて井の頭せんのって
家についたらそんな殊勝な心はどこへやら、家族と喧嘩したり、
テレビつけてたり、もとにもどってしまう。
昔の同行は
寺はてるてる 道々くもる 家に帰れば雨風じゃ
と言っています。
昔は寺で仏法聞いていてた。今は葬式法事の場所だが。
仏法聞いて、是は頑張らなきゃと思った。
道々曇る。
説法が終わって家に帰るわけですが、道々曇ってくる。
だんだん仏法の事忘れてくる。籠から忘れてくる。
家に帰れば雨風じゃ、孫の面倒観る、夕食じゃ、風呂入れろ、
仏法はそっちのけ、どう生きるかで頭いっぱい、昔の人は歌った。
ですからいつの時代もそう
信心決定、後生の一大事の解決もとめても何か同じ事の繰り返し、
自分の求道はぐるぐるまわっているような感じがし、
このような質問をせずにおれなくなる。
実際はぐるぐるこんな道をまわっているような気がする。
卒業のある、決勝点のある道を進んでいるんですが、
しかし実際に心に感じるのは何か同じ事の繰り返しで
自分の求道は少しも進歩せず何時も同じ調子、
いつも家と会社の往復、同じ事の繰り返しのように感じている。
こんな道求めているのにぐるぐる果てしない道を求めているような気がする。
真面目にこの道進んでいけば、流転輪廻をしているわが身の姿が知らされて来るんですね。
これを仏教で流転輪廻といいます。
同じ所ぐるぐるまわっている、そういう姿ですね、全人類の姿です。
同じ所ぐるぐる回るんです。
朝起きて、学校行って仕事して働いて寝る、また朝起きて、仕事して、
働いて、同じ事をぐるぐる繰り返している、
ファッションもそう、スカート長くなったり短くなったり、
髪の毛黒くなったり茶色くなったり、
四年に一回のオリンピックも同じ事ぐるぐる繰り返している。
政治経済もぐるぐる、信心決定を求めて仏法聞き始めたのですが、
なにか同じ事の繰り返しで自分の心は少しも進歩せず、変わらないように思える。
新しい知識が増えたときは進んでいると実感する。
しかし同じ話を聞いて聞いているときは喜べるんですが、
家に帰るときはそれがなくなる、全く同じ、高校の時の自分と同じ。
自分の求道が進歩せず同じ所をぐるぐるまわりこのような質問をせずにおれなくなる。
籠で水をすくうような気持ちがする。
籠とは我々の心を喩えられている。
これは我々の心。水とは入れようとしているもの、有り難い、尊い、
もったいない、すっきりした、ハッキリしたという心、
水というのは有り難い。この様な心を水に喩えられている。
ですから水をくむというのは自分の心をこの様にしようと努力している。
ところがくんでもくんでも籠のなかの水はみたされない。
何とか水をくもうとするのだが、抜けてしまう。
仏法聞いているときは給っているような気がするがすぐすると
ざーっと抜けてしまう。
水をくむとはこういう心を自分の心にしようと努力していることを言うのだが、
くんでもくんでも籠の中には水は満たされない、
同じ事の繰り返しである。
水をくんではザーッと抜ける。
仏法聞いて、またざーっとぬける。
これを仏教では流転輪廻という。
尊い、有り難い、嬉しい、という心は全人類が求めている心。
有り難い、嬉しい、ハッキリした、このような心を得る手段として。
お金、名誉、地位、財産、家、金メダル、その他生き甲斐は全てそう。
これはこの様な心を得るための手段、そして求める。
金メダルという金メッキした円盤を求めてこのような心になりたいと
全人類は求めている。
ところがその喜びはやはり続かない、ざーっと抜けていく。
お金、地位、名誉、財産を通して、この様な心になりたいと思うのですが、
喜びは続かない。
アッというまに過ぎ去ってしまう。
高橋選手も「楽しかったオリンピックもあっというまに終わってしまいました」
みんな流転輪廻している。
金メダルとった慶びも続かない、四年後めざさなければならない。
オリンピック、世界選手権、優勝してもそんな心みんな無くなってしまう。
ですから全人類は流転輪廻している、そんな姿を仏法聞いていくと知らされる。
ですからこの問いに答えられる人、は全人類をも指導できる人である。
全人類は流転輪廻して苦しんでいる。
どこまで行っても是で終わったと言うことはない、
本当の安心も無ければ満足もない。
普通の布教師に聞いても誰もそんな物じゃ、ハッキリ助かると言うことは無いんじゃ、
今生でハッキリすっきりするということはないのだ
蓮如上人のようなよほどの名士に合わなければわからない
蓮如上人は其の籠を水につけなさい。
蓮如上人のこの以外な答えは何を意味するのか、
まず、籠を水でいっぱいにすることが出来ると言うこと、
人生の目的果たした、大安心大満足がくずれない幸せが有るんだということを
蓮如上人は仰っている、この世から生きているただいまから私達の心、
有り難い、嬉しい、助かった、という心で一杯にすることが出来ると言うこと。
それを一つ言われている。
その方法も仰っている。
籠の中に水を入れようとしているのが間違いなのだ、
心の籠の中に水を入れようとしているのが間違い。
仏法の中に飛び込めといわれている。
自分の心に南无阿弥陀仏の大功徳を頂くのでなく、
自分が南無阿弥陀仏を頂こうというのでなく、
自分が飛びこませて頂く。
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