同行の前にては喜ぶなり。これ名聞なり。
信の上は一人居て喜ぶ法なり。
(御一代記聞書154)
「一人いて喜ぶ法」とは、誰とも比較しない、
魂の自由人になるということ。
親鸞聖人の法、聞き求めている人でも
何かの先頭集団から遅れをとるということはある。
そのとき感情的に落ち込んでどうとかいうのは愚かしいこと。
一人一人が原点確認して後生の一大事求めていく。
感情的に落ち込むことに幻惑されないで、
原点を確認して確実に進んでいく。
そういうこと私も心がけていきましょう。
そういうこといっても失意の人には、報われる苦労。
人生は苦なりという言葉があるように、どういう道とっても人生は苦しみ。
仏法の為にお金、体力、神経使ってもまったく報われないという人がいる。
それで、仏法以外の所に、大変追ぎ込んでいる人がいる。
セカンドスクールに通うのに、免許を取るのに、こういうものをつぎ込む。
就職活動にそうとうのものをつぎ込む。
社会に出て何年かたってリストラされて、
死んでいく時に置いていくものに一生懸命なっている。
そちらのほうがまったく報われない。
最近話題なのが、そごう。心斎橋のそごう。バブルの典型。
そのA級戦犯に水島会長がいる。数千万円が貸される。私腹を肥やす。
水島会長の立場にたてば、拡張や社員をまかなったり、裏工作したり、
大変苦労したと思う。
しかし、今は失墜。全然苦労が報われない。
ユーゴの大統領が失墜して、やられている。
コソボの紛争があった時にも頑張っていた。
当時は相当の金も時間も使った。
しかし今は悲しい状況。
そして、死んで行くときには何一つ持って行けない。
すべて水の泡になってしまう。
私たちが、受験を乗り越え、就職を乗り越え、
なんやかんやを乗り越えて頑張っている。
ガリガリ勉強とか、バリバリ社員だけではつまらない人は、
気晴らし力を身につける。
テレビ番組見て笑うとか、ドラクエとか・・・。
いま直面していることが大変だから、その時その時の気晴らし。
しかし越えていかなければ山は変わっていない、
全て失うこと変わっていない、
後生突っ込んでいくこと変わらない。
その中仏法者だけが、後生の解決できたぞ
という決勝点に向かって進む苦労だけが、
死が来ても崩れない幸せになれる、
報われる苦労。
人の心得のとおり申されけるは、
「我が心はただ籠に水を入れ候様に、仏法の御座敷にては有がたくも尊くも存じ候が、
やがてもとの心中になされ候」
と申され候所に、蓮如上人仰せられ候、
「その籠を水につけよ」と「わが身をば法にひてて置くべき」由仰せられ候。
万事信なきによりて悪きなり。
善知識のわろきと仰せらるるは、信の無きことを僻事と仰せられ候事に候。
(御一代記聞書89)
「寺は照る照る道道曇る家に帰れば雨風じゃ」
という歌がある。寺で喜んでいても、煩悩のむら雲が出てきて、
煩悩のジャングル。
人間はさっきまで聞いていた話、原点の確認もふっとんでしまう。
どこにお金を使えば報われるか、報われないか、忘れてしまう。
目的をはき違えていると、使うだけ、苦労するだけ損。
その為には、仏法を説かれている場所に来ないと見失ってしまう。
自分もそうだし、来ていない人もそう。
重ねて縁を与え縁を求めていきましょう。
オリンピックのメダリストたちも、一度は止めようとおもったが、
そこを諦めずメダルを取っている。
死ぬほどいやなことがあるかもしれないが、諦めたら終わり。
そこを進む苦労こそ報われる苦労。
それは仏教の教え聞かせて頂かなけけばできない。
一歩一歩進んでいく。
そこを進んでいって得られるものこそ、
一人いて一人喜べる世界。