(歎異抄第7章)
無碍の一道といいますのは、一切がさわりとならなくなった、
たった一つの世界です。
たった一つというのは「絶対」という意味です。
これは親鸞聖人が仰有ったことをお弟子が書いたものですが、
親鸞聖人が直に書かれた言葉では、
「外の雑縁さらになし」とあります。
外の雑縁さらになくなくると。
まったくなくなるということです。
幸せを邪魔するもの、生命の歓喜を邪魔するものは
まったくなくなるということです。
外の雑縁に二つあります。
一つは、他人からの非難中傷攻撃。人から非難される。
「間違いだ。やめなさい」といわれると、動揺しますね。
二つ目は、自分の心の中にある悪業煩悩。
欲・怒り・愚痴が出てくると、こんなことではだめだなと喜べなくなる。
幸不幸を左右するもので、他人の評価というのは非常に大きいです。
それだけ評価されたい、大事にされたい、
認められたいという気持ちが強いんです。
国民全員とはいわないけど、身の回りの人から認められたいと思うでしょう。
みんなに無視されると、それだけで淋しくなりますね。
他人の目によって、自分の心って変わりますね。
小さな子供から「かっこいい」といわれると、
それだけでも有頂天になったりしますね。
すごく左右されます。
これこそ真実と思っても、ちょっと誰かが批判しているのを聞くと落ち込んでしまう。
そんなことないのは自分が一番よく分かっていても。極端ですね。
自分の幸せがころころ左右されるんですね。
非常に振り回されています。
悪業煩悩。
こういう心が出てくると、それまで幸せで喜べたことが喜べなくなってしまいます。
昔、チェッカーズの歌に「君に会うために生まれてきたと判った」
というのがあるんですけど、そういう錯覚ってたまにありますね(笑)
でもその人が別の人が好きだということが判ったりすると、もう嫉妬の嵐でしょう。
宝くじで一億円あたったCMで、めちゃめちゃ喜んでいるでしょ。
でも、一億円が手にはいると、今まで視界になかったものが目にはいるようになってきて、
もうちょっと欲しいという心が出てきます。
大学はいったときはうれしかったでしょう。
でもすぐに次の欲求が出てきて喜べなくなる。
そうやって感謝の心を邪魔するんですね。
ところが親鸞聖人は、人からどれだけ非難攻撃されようが、
どれだけ悪業煩悩が逆巻こうが、全く問題にならない世界があると仰有っている。
人間に生まれてきてよかったという気持ちは一点の曇りもないと仰有っている。
それを歎異抄第七章に、非常な名文で明らかに仰有っているのです。
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