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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年07月03日

不審と不知の違い

蓮如上人仰せられ候、「不審と一向知らぬとは格別なり。

知らぬことをも不審と申すこといわれなく候。

物を分別せずして、あれは何と、これは如何、などいうようなる事が、不審にて候。

子細も知らずして申す事を不審と申し紛らかし候」由仰せられ候。

(御一代記聞書221)


蓮如上人、よく不審といわれる。
「命の内に不審もとくとく晴れられそうらわでは定めて後悔のみにてそうらわんずるぞ」

 

蓮如聖人が不審といわれているのは疑情のことをいわれている。

生きている内に疑情を晴らしなさいよ。

そうしないと後悔しますよ。

ところが、その無明とか疑情ということが分かるのはそうとう聴聞しないと分からない。

よーく聞いている人が初めて、無明疑情不審というものに気がついてくる。

合点を過ぎて、かなり聞いた人が初めて出てくる心、ところが全然聞いていない人、それは不審ではない。

一向知らぬ。不知といわれる。

 

「不審と一向知らぬとは格別なり。

不審と不知とは全然違うぞ。

 

不審というのは、よーく聞いて分かっている人がどうしてもここ一つわからん。

それが不審。ぜんぜんまだ何も聞いていない人は不知。

何もしらん。格別なり。全く違うことですよ。

 

知らぬことをも不審と申すこといわれなく候。

何も聴聞しないでわからんわからんといっていることをこれが不審だ、それはいわれのないこと。

不審とは言えないこと。

 

物を分別せずして、あれは何と、これは如何、などいうようなる事が、不審にて候。

たとえていうならば、物事をよくわきまえて分別できた人が、

あれはなんだ、これはどうだ、こういうことが不審。

 

よく知っている人があれはなんだ、これはなんだ、それが不審。

 

ところが

子細も知らずして申す事を不審と申し紛らかし候」

ろくに何も知らないのにそれを不審といって勘違いしている。

混同している。そういう人が多い。

わたしが不審を晴らしなさい、といっているのはそういうことではないぞ。

 

たとえば、みなさんが仏法、仏ということすらわからないときに、

よく分かりませんといっているのは不知。本当に分からない。

 

ところが聞いていってなるほどなるほど、理解が進んで、わかった合点した。

更にそこから進んでいよいよ分からなくなってくるのが不審。

その前でわからんわからんといっているのは不知、何も知らない。

それをこれが不審だ、といっているのはだめですよ。

それが聞いていって分かって、分かってから出てくる、疑問。


ここ一つわからん、ここ一つはっきりしたい。

それを蓮如上人ははらしなさい、といわれている。

それが一念で晴れる。破無明闇。

そういう蓮如上人のお気持ち、それはこの辺の人はまだわからん。

それは無理もない。

けれどそういう人が多かったので、蓮如上人はそれは違うよ、

といわれている。

 

まず仏教を学ぶにはこちら

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タグ:蓮如 聴聞
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年07月02日

因果の道理で何が因で何が縁?

因果の道理は、自業自得

あなたの受ける結果の、全ての原因はあなたの行いにある。

例えば、手すりにつかまっていなくて、電車が揺れたときに人にぶつかった。
人にぶつかったのは自分。その自分がぶつかったという結果。

その原因は自分にある。
手すりにつかまっていない人は大勢いる。
手すりにつかまっていない人二人。

つかまっていない、という因は同じ。

でも、片方はぶつかり、片方はぶつからない。
なぜ結果が違ったか。

 

仏教では、因と縁がそろって結果が生じる。

因だけでも結果は生じませんし、

縁だけでも結果は生じない。

因と縁がそろって初めて結果が起きる。

 

なぜ因が同じなのに結果が違うのかというと、縁が違ったから。

 

電車が揺れた、というのが縁。
片方は、電車がグラッと揺れた。

もう片方は揺れなかった。

 

両方とも手すりにつかまっていないという因は同じ。

しかし、片方にだけ縁が加わった。

因縁和合してぶつかった、という結果が生じた。
自分が受ける結果の因は全て自分にある。
因があっても縁が来なければ結果は起きない。

電車が揺れなければぶつからない。
縁を選ぶこともあるし、容赦なく他から来ることもある。

 

 

 

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2017年07月01日

おつとめの心がけ

質問 朝夕のお勤めで心掛けるべき事は?

また、してはいけないこと、しなければならないことは何ですか?

 

 

宿善が厚くなる、2番目の行いが朝晩のお勤め。
お勤めとは、親鸞聖人の正信偈

蓮如上人の御文章を拝読すること。

 

浄土真宗では、親鸞聖人、蓮如上人を大善知識として尊敬している。
だから、その親鸞聖人、蓮如上人の書かれたものを朝晩拝読している。
本当なら、親鸞聖人、蓮如上人のじかの御説法を聞かせていただくのがよいが、

お二人とも現代はおられないので、書き残されたものを拝読する。

 

直接聴聞するのに匹敵する大切な行い。
正信偈は、一行七字、百二十行。八百四十文字。
そこに込められた親鸞聖人のお心を聞かせていただく。

正信偈は、親鸞聖人が一字一涙の思いで書かれた。

 

一字一涙というのは、一文字書かれるごとに、何とか皆さんに早く信心決定し
てもらいたい、という気持ちを込められて涙を流されて書かれたもの。
正信偈に書かれてあることを読ませていただくと分かる。
初めの2行が大変大事。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

 

北陸の方にいくと、真宗の盛んな家族が多い。
小さな子供でも「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と読んでいる。
意味は知らなくても拝読することが大事。
読書百遍、意自ずから通ず。
漢字を読めば何となく意味をつかむことが出来る。
読んでいるうちに意味が感じられるようになってくる。
ですが、正しい意味を知るに越したことはないので。

帰命、無量寿如来、南無、不可思議光。四つの言葉が組み合わさってできている。

 

帰命と南無という言葉は同じ意味。
南無というのは印度の言葉。それを中国の人が帰命という言葉に置き換えた。
日本語で言うと、救われた、助けられた、という意味。

無量寿如来というのは阿弥陀如来のこと。
不可思議光。如来という言葉が下に省略されている。
不可思議光、これで阿弥陀如来のこと。
どちらも阿弥陀如来のこと。

これは、親鸞聖人がまず御自分の体験を仰有ったお言葉。
いや、どこにも「親鸞は」とは書かれていない。
親鸞聖人の書かれた正信偈。
隣のおっさんが、ということでない。
自分のこと言うときに、私達「私が」というのは省略する。
「大学受かったよ」私がに決まっている。
いちいち「私が受かったよ」とは言わない。

二回仰有っているが、本当は三回でも百回でも千回でも言わずにおれなかっ
た。
阿弥陀仏に救われた世界があるんだよ、というお気持ちを込めて書かれた。
そして、どうして親鸞がこんな身に救われたのか、

その後に、釈尊、七高僧の事が書かれている。

「法蔵菩薩因位時〜」
それは阿弥陀仏が本願を建てて下さったから。
「如来所為興出世唯説弥陀本願海」
ここからお釈迦様のことが紹介されている。
「印度西天之論家〜」
中夏=中国。日域=日本
ここから七高僧が紹介されている。
龍樹大士出於世」
天親菩薩造論説」
印度の方。

本師曇鸞梁天子
親鸞聖人、鸞の字は、曇鸞大師からもらわれた。
親の字は、天親菩薩から。

 

道綽決聖道難証」
善導独明仏正意」
以上三方が、中国の方。

源信公開一代教」
「本師源空明仏教」
以上お二方が日本の方。

最後「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」
道俗。道というのは、お坊さん、お寺さん、仏法を説かれる人。
俗というのは、在家で仕事しながら仏法を聞いておられる方。
道俗で全ての人々。
時衆というのは、そのときそのときで集まってこられた人。
全ての皆さんよ、共に同心して下さい。
親鸞、阿弥陀仏に救われて、この幸せな身にしていただきました。

どうか皆さんも、この親鸞と同じ心になっていただきたい。

 

では親鸞と同じ心になるにはどうすればよいのか。
それは、唯斯の高僧の説、善知識の御説法を信じなさい。

仏法では聞即信という。

真剣に聴聞して下さい。それ一つだ。

聴聞に極まる。聞いて聞いて聞き抜きなさい。

聞くというのは信ずるということ。


これが正信偈にこめられている親鸞聖人の御心。

親鸞聖人が右へ行け、と仰有るのに、蓮如上人が左へ行け、

と仰有るはずがない。

 

親鸞聖人が右へ行け、と仰有ったら、蓮如上人も右へ行け、と仰有る。

親鸞聖人と蓮如上人は同じ事を教えておられる。


御文章は「あはれあはれ存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。

まことに宿善まかせとはいいながら述懐の心暫くも止むことなし。

 

と教えられている。
信心決定あれかし。その為にはまことに宿善まかせ。

聴聞に極まる。

 

ですから、お勤めの時に心掛けることは、

こういう親鸞聖人、蓮如上人の御心を聞かせていただくんだ、ということを知る。

してはいけないこと、しなければならないこと。
お勤めの時にねっころがって。

これはどうか?

 

お勤めは、仏前、阿弥陀仏の前でさせていただくことだから、

できれば服装を整えて。

男性ならネクタイして。

 

 

家の仏壇が曹洞宗のもので安置されているのが釈迦仏。

それの前でお勤め、はダメ。

そういうのは雑行という。

雑行は絶対にしてはならない。

阿弥陀仏一仏。

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2017年06月30日

蓮如上人が最も嬉しいこと

蓮如上人仰せられ候、「何たる事を聞召しても、御心にはゆめゆめ適わざるなりと。

一人なりとも人の信をとりたることを聞召したき」と、御独言に仰せられ候。

「御一生は人に信をとらせたく思召され候」由仰せられ候。

(御一代記聞書187番)

 

蓮如上人が最も喜ばれること。

どんなことを聞いても、この蓮如の心には全くかなわない。

 

蓮如上人様、金メダル取りました。

それがどうした。全く心にかなわない。

そんなちっぽけなことで何を喜んでいるのか。

蓮如上人様ノーベル賞取りました。

何をそんなこと。つまらん。

 

一人でもいい、信心決定出来た、ということを聞きたい。

それを独り言に仰有った。

蓮如上人の御一生は、兎に角信心決定あれかし、信心決定してくれ、

そう言う御一生なんだ。それ以外なにもない。

それが最も蓮如上人の喜ばれること。

逆に言えば、それ以外のことをどれだけしても、信心決定しておらん、

それが悪だ、と言われる。

 

信心決定、それ一つ出来ないと、言語道断の悪。

信心決定出来なかったけど、金メダルとれた、よかったよかった。

そんなことは一言も仰有っていない。

ビックリする。

 

世間中の人が、金メダルで騒いでいる。感動を有り難う。

しかし三日ほどするとみんな冷めてしまう。

どうせなら冷めない感動を。

信心決定していない人を見ると、身を切り裂くように悲しい、

と仰有っている。

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タグ:蓮如
posted by 陽葵 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年06月29日

極楽は常住の国

信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。

されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。

人間は不定のさかひなり。

極楽は常住の国なり。

されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。

御文章5帖目11通御正忌

 

ただ参っておればよいのではないですよ。

浄土真宗の家に生れたから助かっとるのではないですよ。

忘れないのが信心ではないですよ。

健忘症のひとはどうなる?だから、大変なんですよ。

大事なんですよ。

 

人間は不定のさかひなり。

人間は定まってない。何時どうなるか分らない。

一寸先は闇。

 

オリンピックでソフトボール銀メダルを取った

ピッチャー高山さん。

そのお母さんも突然なくなった。

シドニーまで、オーストラリアまでいかれて、全試合見られた。

そうやって日本に帰ったら、突然容態が変った。

全く人間は不定の境。何時どうなるか分らない。

明日の命が全く保証できない。


極楽は常住の國

されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。

だから、浄土真宗では、信心が最も大事とされているんだ。

言うんだ。

それをよーくしらなかったら、駄目ですよ。

せっかく人間に生れてきて、信心決定しなかったら駄目ですよ。

金メダルとっても駄目ですよ。

 

オリンピックで金メダルといったら、

スポーツ選手にとって、これ以上はない。

それを走れなくなるまで走る。

キリがない。

 

信心決定すれば、死ねば極楽浄土へ生まれますから、

信心決定しましょう。

 

 

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2017年06月28日

名号は南無阿弥陀仏?

名号は南無阿弥陀仏でなければならないのでしょうか、

帰命無量寿如来とかひらがなでなむあみだぶつではどうでしょうか?

 

答 名号であればよいですから昔から九字の名号、十字の名号があります。
しかし何れも名号でなければなりません。

 

九字の名号とは

「南無不可思議光如来」

十字の名号は

「帰命尽十方無碍光如来」

ですが、最も親しまれるのは六字の名号です。

親鸞聖人も十字名号、九字名号を使われたことはあります。

名号と言うことが大事です。

「聞其名号」

とあります。問題はその心です。

ひらがな、決して字にとらわれるわけでないですが漢字の方が良いでしょう。

大切なのは名号であること。

英語は、いいよ。元々は印度のサンスクリット語ですから。

心を受け取るのが大切。
どれでも悪いことではない。

ブラジルやアメリカで正信偈横書きされるように。

日本人に一番親しみやすく受け取りやすいのは

漢字の六字名号でしょう。

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タグ:正信偈
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2017年06月27日

仏法は大切に求めるより聞くもの

仏法をきける機会は多いようで少ない。

そういう法座にいっても、自分のこととしてきいている。

 

自分のこととして真剣にきいている時間はすくないので、

まことの仏法をきける時間はほんのわずかしかないんだよ、

これがききがたい仏法をきいていると思う心。

 

仏法を聞かせて頂くご縁、本当にかわってしまう。

人間生まれてから死ぬまでの間80年あるとする。

 

一生涯のトータルはほんのちょこっとしかなくなってしまう。

しかしそんなこと考えて仏法をきいてない。

 

社会にでてからほとんど仏法をきく機会がない

 

 

人間というのは大事なものが大事であったことが失ってから分かる。

大事だってことがどれだけ大事かってこと別れて初めてわかった。

 

右みても左みても世間中が仏法知らない。

そうなってはじめてありがたさが分かる。

仏法を聞かせて頂くご縁がどれだけ大切か、

失って分かるのではあまりにも遅すぎるんだな。

 

一度地獄にいりて長苦をうけるときははじめて人中の善知識を憶う

善導大師
 

あなたが後生へつっこんで二度と仏法をきけなくなったとき。

あなたが人間界にいたときに後生の一大事有ることと

それを一念で解決する弥陀の本願あること話しくだされる

善知識がおられるのに

きかなったことはじめて後悔する。

 

親が亡くなったとき何もできないまま逝ってしまった。

後悔する。

 

高校までは弁当をつくってもらっていた。

大学に入ると、自分で弁当を作る。

失敗してまずくて、親元を離れて知る親のありがたさ。

 

満足におかえししてなくてなる、墓に布団をきせられず。

 

わたしたち自分を幸せにしてくれた人が傍にいる。

いるときは邪魔にする。

あたりまえで。い

なくなってもっと大切にしておけばよかったと思う。

 

いまから120年ほどまえ、トラブリューというバンドがあった。

そいつらの歌、なんでもないようなことが幸せだったと思う、

なんでもないような夜のこと二度とは思えない夜。

なんでもないような毎日がすぎていく。

 

カップヌードルのお湯をいれたらあなた鼻水がでている。

鼻水すすっているじゃない。

二人してげらげらとわらう。

二人が笑うときはそんなとき。

 

あとは仕事したり、上司にしかられたり。

しかし別れた。そうするとああやってなんでえもなかったけど、

あの日がものすごく幸せだったんだな。幸せだったんだなと感じるの。

恋人と過ごした日々、そのときは喧嘩したつまらなかった。

 

しかし失ったとき初めてそのつらさが分かる。

恋人や親は相対の幸福、

しかし失ったときはじめてそのありがたさが分かる。

 

●私たちは無二の善知識におあいしている。先輩がいて、後輩がいて、真実の
善知識がおられて、弥陀の本願をきかせていただける。

これは当たり前ではない。

 

世界にたくさんの人がいてもほんのわずかしかあえない。

人類の数千年の歴史、善知識にあい、

後生の一大事があって、一念弥陀の本願。

これをきかせていただける人ほんのわずかしかいない。

 

ここにいるみなさんも私もいつまでもきかせていただけるわけではない。

やがて一息切れて後生の一大事つっこんでいく。

その前にわずかきかせていただけるだけ。

 

親をうしなったときああ別れていくのだな。

恋人と別れてあのときたのしかったな。

 

後生の一大事ひきおこって、八万劫中、おこったとき、

はじめてばかだったなと思う。

はやく大導師になっておけばよかった、とりかえしつかない。
いまはしばしの間こうはいいて先輩いて、

なにしろ善知識がおられて、

八万劫中大苦悩を解決してくださる弥陀の本願きかせていただける、

そんな大事に求めなければ必ずあとで後悔するぞ、

ということで仏法は大切に求めるより聞くものなり

と言われている。

 

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タグ:歴史
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2017年06月26日

お釈迦さまの無言の説法

お釈迦様が到着されたときの韋提希の心は、

遅かったわねといった感じです。

 

そして、阿闍世(アジャータシャトル)ダイバへの怒りを思いっきりぶつけるわけです。
阿闍世が憎い、ダイバが憎いといってくるしむんですが、

ここでとどまるわけではありません。

 

論理が飛躍して、お釈迦様まで責め立てるんです。

超論理ともいわれます。目の前にいる方ですからね。

怒り愚痴の心で苦しんでいる姿です。

 

世尊、我宿何の罪ありてか此の悪子を生める。

世尊、復何らの因縁ありてか提婆達多と共に眷属為る。
(観無量寿経)

 

こう言って、韋提希はぶちまけているんですね。

我が身知らずもいいところなんですが、

それをお釈迦様は慈愛のまなざしで見ておられるんですね。

 

このときの目を半眼といわれます。

人の心を読むときは、半眼がいいといわれます。
聴聞中はいけません。どんぐりまなこでいてください。

半眼だとよろけちゃいますから、こんな風に。大変。

 

韋提希夫人の心をよく見ておられたんですね。

ここで、お釈迦様は何も言っておられません。

これを無言の説法といわれます。

 

これは、お釈迦様が抜こうとしていた苦しみというのは、

単なる痛み止めのような、一時だけのものでなくて、

根本的な苦悩の根源を抜こうと思っておられたので、

あえて無言だったんですね。

 

もちろん、慰めが必要なときもあります。

愚痴を聞いてもらえると、それだけでもだいぶ楽になるものです。

 

しかし、それでは苦悩の根源が抜けないと判断されて、

あえてなにもしゃべられなかったんですね。

 

そうすると韋提希は「ああお釈迦様何か仰有って」と、

のたうちまわって苦しむんですね。

 

全部自分に返ってくるので、ますます苦しくなる。
そして、韋提希が五体投地するんです。

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タグ:聴聞
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2017年06月25日

食欲について

が妨げられると、どんなことをするか分かりません。

 

太平洋戦争の末期、フィリピンの方に行った日本兵に、

先輩から「おい、喰われるなよ」という言葉がかけられたといいます。

 

要するに、食べるものがなくて、同じ仲間で殺し合って、

その肉を食べたということです。

 

自分さえよければ後はどうなってもいいということですね。

韓国では、犬を食べるそうです。

中国だったら、ネコを食べるといいます。

 

日本人は驚きますが、

そういう文化で、そういう環境なら普通のことです。

縁さえ来たらどんなことでもするのが私たちです。

人も殺す。どんなことでもしてしまいます。

縁が来ていないだけです。

 

韋提希夫人はそれだけ苦しんでいたわけで、

私たちもそういう縁が来たら、やってしまうんですね。

 

王舎城の悲劇を通して、

そういう恐ろしいことを思う私たちなんだと、

そしてそういう恐ろしいことをやって、苦しむ、

惑業苦で自業苦から地獄に引きずり込まれる姿を

知らねばなりません。

 

 

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2017年06月24日

仏教で恩とは?

恩という字は、因を知る心という成り立ちです。

私達はいろんな人のお世話になっている。どんな人がいるか?

 

両親に育てていただいた恩があります。

大学に上げるまでだいたい三千万かかる。

三千万といったら、大変な額です。

自分の子供でなかったら、そこまでできません。

またお金だけでなく、いろんな面でお世話になっている。

心配して貰っていますね。

友人。

友達がいたからこそ頑張ってこれたということもあると思います。
兄弟。

励ましたり、色々やってもらったからやってこられた。
店。

こういう人も確かにそうです。

学校の先生。

面倒見てくれる先輩。
あげればきりがない。

身の回りのもの、なにもかもが、恩を受けているものです。

 

恩を感ぜざる者は畜生に劣る。ご恩を有り難く感謝する者は成功し、
恩を当然と流す者は信用を失い、恩を仇で返す者は身を亡ぼすのである。

 

といわれます。

 

仏教では、知恩感恩報恩といわれます。

知恩
恩を知る。
感恩
知っているだけではだめ、恩を感じる。
報恩
恩に報いる。

世間でも大事だといわれる。

 

恩を知り、感じ、報いる。

親孝行など、恩返しが大切です。

 

 

 

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教