お釈迦様が到着されたときの韋提希の心は、
遅かったわねといった感じです。
そして、阿闍世(アジャータシャトル)やダイバへの怒りを思いっきりぶつけるわけです。
阿闍世が憎い、ダイバが憎いといってくるしむんですが、
ここでとどまるわけではありません。
論理が飛躍して、お釈迦様まで責め立てるんです。
超論理ともいわれます。目の前にいる方ですからね。
世尊、我宿何の罪ありてか此の悪子を生める。
世尊、復何らの因縁ありてか提婆達多と共に眷属為る。
(観無量寿経)
こう言って、韋提希はぶちまけているんですね。
我が身知らずもいいところなんですが、
それをお釈迦様は慈愛のまなざしで見ておられるんですね。
このときの目を半眼といわれます。
人の心を読むときは、半眼がいいといわれます。
聴聞中はいけません。どんぐりまなこでいてください。
半眼だとよろけちゃいますから、こんな風に。大変。
韋提希夫人の心をよく見ておられたんですね。
ここで、お釈迦様は何も言っておられません。
これを無言の説法といわれます。
これは、お釈迦様が抜こうとしていた苦しみというのは、
単なる痛み止めのような、一時だけのものでなくて、
根本的な苦悩の根源を抜こうと思っておられたので、
あえて無言だったんですね。
もちろん、慰めが必要なときもあります。
愚痴を聞いてもらえると、それだけでもだいぶ楽になるものです。
しかし、それでは苦悩の根源が抜けないと判断されて、
あえてなにもしゃべられなかったんですね。
そうすると韋提希は「ああお釈迦様何か仰有って」と、
のたうちまわって苦しむんですね。
全部自分に返ってくるので、ますます苦しくなる。
そして、韋提希が五体投地するんです。
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image