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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年07月14日

仏の慈悲の特徴

仏様の慈悲とは、どういうものか教えられた言葉に、
「仏の慈悲は、苦ある者に偏に重し」

 

たとえば、苦しんでますか?

それとも楽してますか?


苦しんでます、という事は、よかったねぇ。余計に重い。

苦しみや悩みの色濃い人と、さほど苦しんでいない人と。
苦しい者に、余計に重くかかるのだ。

 

特に、仏法を求めてゆく上で、家庭の苦労とか、仕事の苦労とか。
別に仏法を聞き求めても、求めなくても、

どんな場合にも問題になるのですが。


真実を求めてゆく時に、苦しみや悩み、可哀想だ、

とは、ちょっと思いませんね。

実は、そういう人に、偏に重くかかって下さるのが、仏の慈悲だ、

ということです。

 

 

親鸞聖人が比叡山で修行をしておられたとき、

不思議な女性とめぐりあい、

「私もお山に連れていって下さい」

といわれました。


ところが、女人だから、連れてゆけないよ。

とルール通りの回答をすると、
「親鸞さま、あなたまでそんな事おっしゃるのですか」
どうもおかしい事でありませんか。
「メスの獣や鳥がおりませんか。すでに汚れています。

人間のメスだけが汚れているのならば、苦しんでいる、

その苦しんでいるものに重くかかるのが仏の慈悲と聞いております」

 

仏教では、女人という言葉を使って、

女の人というよりも、苦しんでいる人
男性でも、苦しんでいる人もいますし、

女性でも全然苦しんでいない人もいる。

 

最近では、女性よりも男性の方が悩みやすいですよね。

何を、そんな事悩んでもしかたないだろ。

女性よりも男性が多い時代に突入。

 

そこで、そういうこれ、女人の事を、

仏教の言葉で、悪人とも言いまして、
仏の慈悲が、苦ある者に重い、という事は、苦しんでいる人、

苦悩の人が正客である。


そういう人に、より強く慈悲がかかって、その慈悲によって、救いとる。
苦悩の人が正客であるという事を、悪人正機の教え、といいます。

ほぼ同じ意味を表す、女人成仏。


親鸞聖人の御和讃や

蓮如上人の御文章には、

女人成仏、という言葉がよく出てきて、

浄土真宗の特徴です。

 

そんなものを目当てに救う、そんな教えだという事ですが、

仏教の別の言葉で言うと、何の事でしょう。
これは、阿弥陀仏の本願の事であります。

 

阿弥陀仏の本願といいますのは、
阿弥陀仏の大慈悲心によってたてられた願いの事ですから、

慈悲という言葉を使って阿弥陀仏の本願を表しますと、
大悲の弘誓。
大悲の願船。
超世の悲願。

 

沢山ありますけれど、阿弥陀仏の本願とは、まったくこれもって、

阿弥陀仏の大慈悲心によって立てられたものでありますから。

苦しきものに重い、そんなものの為に建てられた本願。

 

そんなものの元になっている、仏の慈悲とは、何か。

知る必要があります。

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2017年07月13日

三願転入

親鸞聖人自身が三願転入の道を通って18願へ出た、
と告白されている三願転入のお言葉

 

ここを以って、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久し
  く万行諸善の仮門を出でて、ながく双樹林下の往生を離れ、善本徳本の真門
  に回入して、偏に難思往生の心をおこしき。然るに今特に方便の真門を出で
  て、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思義往生をとげん
  と欲す。果遂の誓、良に由あるかな。

                                                 (教行信証化土巻)


「双樹林下の往生を離れ」
双樹林下往生とはどういうことか。

 

これは19願の往生。だから19願を離れ。

万行諸善の仮門を出でて、というのと同じこと。

「万行諸善の仮門」が因。

「双樹林下往生」が果。化土往生。

 

 万行諸善の仮門 — 因 — 自力
 双樹林下往生   — 果 — 化土往生

 

もし善ができたら。

釈尊がなくなられるときに、沙羅双樹の木の下で淋しく往生された。

 

そして、
「善本徳本の真門に回入して」
20願のことを「植諸徳本の願」といわれる。
諸徳本とは名号のこと。

 

蓮如上人は

 

南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、

さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、

無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。
                                             (御文章5帖目3通)

 

釈尊は、

十方恒沙の諸仏如来、皆ともに無量寿仏の威神功徳の

不可思議なるを讃嘆したまう。
                                            (大無量寿経下巻)

 

私達が想像できないのではない。十方の諸仏が想像できない名号。
そういう素晴らしい功徳のある名号。

それを称えなさい、そうすれば助けます。

これが20願。これを「善本徳本の真門」ともいう。

20願に入った。「回入」。

正信偈の「回入」とは意味が違う。

 

「偏に難思往生の心をおこしき」
難思往生、これも20願のこと。

 

 善本徳本の真門 — 因 — 半自力半他力
 難思往生       — 果 — 化土往生

 

称える念仏は他力。だけれども称え心は自力。

だから半自力半他力。
難思往生。

18願を難思義往生と言う。

「義」の字を1字取った。化土往生。

「然るに今特に方便の真門を出でて」

 

20願を出た。
「選択の願海に転入し」
選択の願海とは18願。他力の信心。そこに転入した。

転入とは一念ではいるということ。

回入はいつとはなし。
「速に難思往生の心を離れて」

 

20願を離れて、
「難思義往生をとげん」
難思義往生、18願のこと。

 

 選択の願海 — 因 — 他力
 難思義往生 — 果 — 報土往生 極楽往生

どうして「とげんと欲す」とあるのか。

 

難思義往生を遂げようとしている、ということ。

親鸞聖人教行信証かかれたのは関東におられた52歳のとき。

まだ死んでおられない。

難思義往生遂げておられない。

だから未来形で書かれている。

他力の信心は現在だけれども、往生は死んでからの往生だから。

「果遂の誓、良に由あるかな。」
果遂の誓とは20願。結果を遂げさせて見せる。

結果とは18願。まことであった、といわれている。

 

そういう道のりを親鸞とおった。そしてこの世界へ出た、といわれている。

では、この三願転入のみちのりは親鸞聖人だけのことではないか。

親鸞聖人がご苦労された。我々はそんなことする必要はない。

捨てよといわれているではないか。

そういう人結構いる。この道は十方衆生が通らなければならない、

ということをいうにはどうすればいいか。

 

「十方衆生」と誓われている。

最初からいきなり18願へ入れるのならば、わざわざ19願20願説かれる必要はない。

方便を通らずしては絶対に真実に入ることはできない。

だから善導大師は19願のことを「要門」といわれている。

「要」とは、必要、重要、肝要。

かならずここを通らなければあの世界へ入れない。

 

三願転入の御文、親鸞聖人だけでなく、

すべての人、みんなこの道を通る。

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2017年07月12日

三願転入の20願

三願転入の20願

 

 

設い我仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞き、

念を我が国に係けて諸の徳本を植え、

至心に廻向して我が国に生れんと欲わんに、

果遂せずば、正覚を取らじ。

大無量寿経

 

我が名号を聞き、六字の名号の大功徳を聞きなさい。

そうすれば私の国に思いがかかるでしょう。

そして、名号を唱えなさい。

称えた念仏を真の心で私に差し向けなさい。

これは自力回向。

 

そういう人は、結果を遂げさせて見せましょう。
果遂とは、18願の世界に出させて見せる、

ということ。

これもいろいろな名前がある。

 

「植諸徳本の願」と名く

「係念定生の願」と名く

「不果遂者の願」と名く

「至心廻向の願」と名く

教行信証

 

称える名号は他力でも、唱える心は自力。

残念ながら他力になりきっていない。

だから、どんなに頑張っても化土にしか行けない。

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2017年07月11日

三願転入の三願とは

ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、
久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本・
徳本の真門に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方
便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、
難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。

教行信証化土巻)

「ここを以って愚禿釈の鸞」

これからいうことは私自身のことです。

親鸞聖人の書かれるものの特徴、非常に重要なこと、信じがたいこと、

疑問のおきそうな文章には必ず自分の名前を明記される。

曖昧さがない。

 

「釈」という字は釈尊の弟子の、仏弟子親鸞、ということ。

「愚」おろかな。

「禿」普通は頭の禿げた、という字。

非僧非俗をあらわす言葉と言われる。

ご自分のことを卑下しておっしゃっている。

 

「論主の解義を仰ぎ」

論主、普通は天親菩薩をいう。

「千部の論主」といわれる。

沢山の本を書かれた。

 

ただ、ここでは龍樹菩薩も含めておっしゃっておられると思っていい。

「千部の論主」といったら、天親菩薩。

浄土論。

解義とは教え。

それをあおいで、ということだから、

龍樹菩薩、天親菩薩の教えを仰いだ。

 

「宗師の勧化によりて」

宗師とは、普通は善導大師のことをいう。

 

 真心徹到するひとは

 金剛心なりければ

 三品の懺悔するひとと

 ひとしと宗師はのたまへり

 

(高僧和讃)

 

宗師はのたまへり、宗師は教えられました。

ここでは善導大師のこと。

しかし三願転入では、七高僧の中の残りの5人。

曇鸞大師道綽禅師、善導大師、源信僧都、法然上人。

 

七高僧の教えに親鸞導かれて、ということ。

当然ここには別格として釈尊がおられる。

仏教説かれた元祖善知識。お名前を出すまでもない。

これらの方々のみちびきによって、ということ。

善知識方に導かれて。

 

「ひさしく万行諸善の仮門を出でて」

「万行諸善の仮門」とは19願のこと。

そもそも三願転入の三願とは。

 

阿弥陀仏という仏様は本願を48建てられている。

釈尊は500願。本願の数からいうと釈尊のほうが多い。

けれども仏の偉大さ、本願の数で決まるのではない。

数でいうと薬師如来は12願。

その本願の内容による。人間でもそう。

 

そのひとが心にどういうものを願っているか。

どういう理想を持っているのか。

日本一になってやろう、という人と世界一になってやろう、

という人では心の大きさが当然変わってくる。

 

阿弥陀仏の本願がなぜ素晴らしいか、その数ではない。

内容が素晴らしい。

だから阿弥陀仏は本師本仏といわれる。

仏様はみんな本願持っておられる。

だから本当は本願寺といっただけでは誰の本願だろう、といえないことはない。

だけれども本願寺といったら、阿弥陀仏が本尊だな、と思う。

それだけ阿弥陀仏と本願には密接な関係がある。

それは阿弥陀仏が他の仏と比較にならないくらい素晴らしい本願を建てられているから。

 

その中でも、18、19、20の3つを三願といわれる。

 

それはどうしてか。

48の本願の中で十方衆生を救う、とちかわれているのは、この3つしかない。

そして、是は他の仏様の本願にはない。

十方衆生を救う、釈尊の500願に一つもない。

だから約束の相手からしても阿弥陀仏の本願のスケール他と比較にならないくらい大きい。

だからこの3つを「摂生の願」という。

こんな本願建てられるのは阿弥陀仏しかいない。

だからこの3つを三願という。

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2017年07月10日

仏教の結論とは?

仏教の結論は、

一向専念無量寿仏。

 

一向専念無量寿仏とは、
無量寿仏とは阿弥陀仏

一向専念とは一つに向かう。

阿弥陀仏一仏に向かう。

 

他へ向いてはだめですよ、

一つに向きなさい。

専念も何か一つのことに打ち込んでいる。

もっぱら念ずる、信ずる。

それだけを信ずる。

専門の専。

 

靴の専門店というと、何が置かれているか?

靴。

かぼちゃくださいといってもない。

服の専門店でかなづちくださいといってもない。

専念ですから阿弥陀仏以外のものはない、

阿弥陀仏だけを信ずる。

この「一向専念無量寿仏」という漢字8文字、

これが仏教の結論なのですね。
だから親鸞聖人はこの一向専念無量寿仏を何度も何度も徹底的に教えられた。
だから浄土真宗のことを一向宗ともいう。

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2017年07月09日

仏教を主とせよ

「仏法を主とし、世間を客人とせよ」といえり。

「仏法の上よりは、世間のことは時に隨い相働くべき事なり」と云々。

(御一代記聞書157)

 

 

仏法が主人ですよ。

世間が客人。お客さん。

人生の主人は仏法、

仕事はお客さん。

 

だから仏法がまずあって、その上で世間のことは

時にしたがって行いなさい。


非常にハッキリした蓮如上人のお言葉。

主人を間違えてはいかんぞ。

仏法が主人だ。仕事は客人だ。

家にどっかりと構えているのは主人でなくてはならない。

そこにお客さんがごめんくださいと会いに来る。そして帰る。

主人は帰らない。

 

主人がおられませんか,おられないなら帰っちゃう。

仏法がないなら意味がない。

目的がこっちなのだから。

世間は手段なのだから。

目的と手段を間違えてはなりませんよ。

これを間違えたら生きる意味がない。

主人のいないお客さんは帰っていく。

ご主人はいますか。いません。

ああそれはよかったじゃあがらせてもらいます。

変だろう。

そういう人はいない。

 

このように,親鸞聖人も蓮如上人も人生の目的はなにか。

私達は何に命をかけるべきなのか。

何に人生を費やすべきか。間違ってはならない。

仕事をする為に生まれてきたのではないですよ。

仏法聞くためですよ。

信心決定する為に生まれてきたのですよといわれている。

その目的を見失ってどれだけ仕事に打ち込んでも

生まれてきてよかったという喜びはありません。

 

では仏教に何が教えられているのか。それが生きる意味です。

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2017年07月08日

親鸞聖人のお歌 フィニッシュ

「祖師は紙衣の 九十年」

 

祖師は親鸞聖人、紙衣というのは御苦労された、

波瀾万丈の御生涯

 

お父さん、お母さんなくされ

二十年間修行され

肉食妻帯、

三大諍論、

死刑、

流刑、

弁円

日野左衛門、

善鸞義絶、

ひとえに私達のために御苦労された。

 

29歳まではご自身のための御苦労ですが

それからは私達の為にされた御苦労。

 

それを言われている。実際に紙でできた衣着ておられた、

貧乏ということでない。

大変な御苦労をこの様に言われる。

 

「その徳音は 今日までも

 実語は胸に 伝わりて
 慈悲の御教え いまぞ知る」

 

美しい表現、徳音とは親鸞聖人の御教えということ。
それは今日まで伝わってきている。

実語も親鸞聖人の御教え、

 

生きる意味を教えられた親鸞聖人の御教え、

真実のお言葉
慈悲の御教えも親鸞聖人の御教え。

 

同じ親鸞聖人の御教え
私達生きている人間にとって最も大切な

本当の生きる意味かを教えられた親鸞聖人の御教えを

この様に法尋が違う言葉で表現している。

 

こういうところから、

かなり教学も深かったのであろうとうかがえる。

 

我々は今その親鸞聖人の御教え、

生きる意味、聞き難い真実の仏法を聞くことができた。

 

「厳しく伝う 遺訓に」

遺訓も親鸞聖人の御教え、厳しい教えということ。

 

三重廃立、外道、聖道仏教、

自力を捨てよ、厳しい教え、一向専念無量寿仏。

 

「宗義ますます 親まる」

 

宗義も親鸞聖人の教え。

違う表現で色々言われている。

 

親鸞聖人の教えをますます多くの人が聞かれている

「報謝のまこと 真影の

 みまえにふして ちかうなり」

親鸞聖人のお写真の前で私は誓います。

 

身を粉にして、この御恩を報います、

骨を砕いても受けし御恩に報います。

 

阿弥陀如来と善知識、

親鸞聖人の御恩に報いさせていただきますと

真剣に誓わずにおれないと法尋は締めくくっている。


身を粉にしても骨を管着ても

ここまで導いて下さった親鸞聖人の御恩に報いると誓わずにおれない、

また身を粉にしても骨を砕きても決勝点まで進ませて頂きますということ。

このように大変な名文で法尋がうたっている。

 

親鸞聖人のお歌に三大諍論は出ていません。

そういうことまでは法尋と言う人もかけなかったのでしょう。

 

 

三大諍論と言うことを真宗の学者で書いている人は全くいない。

御伝鈔のあらすじを書いている人はいても

今日の私達に判るように書いている人はいないと言われます。

 

真宗の学者でも三大諍論しっいてる学者は十人いないと言われる。

 

法尋もかけなかった、
親鸞聖人の本当の御教えがおさまっている。

 

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タグ:生きる意味
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2017年07月07日

親鸞聖人のお歌 新潟から関東へ

親鸞聖人は35歳のときに、新潟県に流刑にあわれた。

その後5年間、新潟県で活躍された。


「建暦二年免されて」

許されるということはないのですが、建暦に許された

 

「配所の五年」

五年仏法を伝えられた。

 

「 夢の跡」

振り返ってみれば夢のようなもの、

5年間もアッという間四年生も思っているかも知れない。

誰しもが知らされるものです。

 

「名残惜しまれ 昨日今日

 帰洛の旅の身の軽さ」

新潟を離れることを名残惜しまれ、京都に帰ると身の軽さ、

それはまた法然上人にお会いして仏法聞かせていただけるという喜び、

法然上人からもっと聞かせていただきたいと思っておられた。

信心決定したならもっともっと仏法聞かせていただきたいとなる。

その時の法然上人と親鸞聖人の教学は差があったでしょうから

もっと学ばせていただきたいという思いがあったでしょう、

また法然上人に会えると喜ばれていた。

 

無常の風は惨ましく」

ところが法然上人は亡くなられていた

「恩師の死去は聖人の

 衣の袖に便り来て」

 

素晴らしい言い方。名文。

親鸞聖人大変なショツク

意識不明になれて、記録によれば吐血なされた、

血を吐かれたと記録に残っています。

 

「こころを傷めきづつきぬ

 悲しきかなや愚禿鸞

 きびすを返し常陸へと

 すすまぬ御足 運ばれて」

法然上人を流刑にあわせた都に用事はない、

と関東へ。

群馬や茨城。

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2017年07月06日

親鸞聖人のお歌

親鸞聖人のお歌
宝尋という明治の人の作です。

 

おそれおおくも いまここに
宝甚、自分のような者が親鸞聖人のような偉大な方、

貴い方の御一代を書き、述べさせていただくというのはおそれ多い。

 

燕雀いずくんぞ大鵬の志をしらずや

大鵬というのは一飛び四十里を飛ぶ、ちっちゃい雀が大鵬の心は判らない。

自分は小さな雀のようなのもである、

親鸞聖人大鵬のような方、おそれ多いですが、書かせていただきます。

 

見真大師が 真宗を 開きたまいし 御苦労をのべて御恩を よろこばん

 

見真大師は親鸞聖人のこと、

親鸞聖人のお名前はいくつか変わっています。

松若丸、範宴、善信、綽空、親鸞
見真大師というのは明治以降に付けられた名前で明治天皇がつけた。

 

親鸞聖人は権力者を大変嫌われた。

「主上臣下法に背き義に違し怒りをなしあだを結ぶ」
「上一人よりはじめて、偏執のやから一天にみてり」

親鸞聖人の御心からいうと宝尋と言う人もこの程度の人だったということになる。

親鸞聖人は在家、天皇の権威を大変嫌っていた。

 

何で親鸞聖人のお名前を明治天皇がつけたのか、

仏教のそれぞれの宗派が自分の宗派を権威づけるために

天皇に名前を付けてもらったりしていた。

つけ方は浄土真宗本願寺派の人がつくって

大金貢いでこれでつけてくださいと

くだらない権威づけをしていた。


しかし内容としては、

親鸞聖人は常に真実を見られ、

真心を明らかにされたという意味では

親鸞聖人に大変ふさわしい名前ではある。

 

 

見真大師が 真宗を 開きたまいし 御苦労をのべて御恩を よろこばん

 

親鸞聖人が浄土真宗を開かれた御恩を書かせていただき

知らさせて頂き、

御恩を喜ばせていただきます。

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タグ:浄土真宗
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2017年07月05日

劣化する青少年に明日はあるか

「劣化する青少年に明日はあるか」というタイトルの

『ウェッジ』という経済紙の昔の記事

 

○将来になんの希望もない青少年このままでは劣化が進むだけ
カネと利益に狂奔する政治家、不良品作りに励む企業、経営することを忘れ
た経営者、母親殺しに走る少年———。いずれも、いまの日本を象徴する現象
であるが、こうした現象をとらえて"日本、日本人が劣化している"とする議論
が飛び交っている。成蹊大学教授の竹内靖雄氏もその一人で、過日の毎日新聞
にこのような一文を寄せている。

「連日マスコミに取り上げられている不祥事、愚行、犯罪の氾濫を見ると、日
本人そのものの「劣化」が進んでいるのではないかと心配している。「このまま
では日本は滅びる」といった悲観論へと飛躍する人が出てくるのも無理はない」

京大教授の中西輝政氏も「劣化しつつある日本人の心を鍛え直す手立てを一
日も早く考えねばならない」とも警鐘を乱打しているのだ。

そのなかで、最大の問題は次世代の旗手であるはずの青少年が将来になんの
希望も見いだせず、のたうちまわっていることであろう。その姿を浮き彫りに
したのが、さきの日本青少年研究所の日本、韓国、中国、米国の「中学、高校
生の21世紀の夢に関する調査」ではなかろうか。

例えば、「人生目標」について、日本の中高生の多くが「自分の趣味をエン
ジョイする。その日を楽しく暮らす」と答えたが、中国は「自立した人間にな
る。家庭円満。社会貢
献。勉強ができる」、韓国は「自分が損をしても正しいことをする。特技を持
つ」、米国は「勉強がよくできる。素敵な異性を見つける」であった。また
「人類にとって21世紀は希望のある社会になるだろうか」という問いに、中国
の9割弱、米国の6割弱がそうなるだろうとしているが、日本はなんと3割強し
かいないのである。

そうした心情は、「将来就きたい職業」にも如実に現れており、「公務員や
フリーター」が上位を占める日本の中高生に対し、中国のそれは「会社の経営者や管
理者、法律家」、韓国は「先端技術者、教師」、米国が「スポーツ選手、芸術
家、会社管理者」である。

失速寸前に陥った原因は教育の荒廃に他ならない

いかに、日本の中高生が大志を抱くこともなく前途に夢と希望をなくしてし
まっているかが、おわかりいただけるだろう。識者のなかには、それを豊かさ
の代償と切り捨ている手合いもいるが、この国の行く末を考えない愚者のたわ
ごと以外の何物でもないだろう。中高生が上昇する手掛かりをつかめず、失速
寸前の状態に陥っているのは、ひとえに羅針盤であるはずの親や教師が人間と
しての生き方、あるべき姿、理想などを語り、教えなくなったことだろう。

NHKの朝のテレビ小説「私の青空」で、孫に「箸の使い方や魚の食べ方」を
教え、わが
子の金髪頭に「その髪を切れ」と怒鳴るシーンが茶の間の話題を集めたことが
ある。頑固親父を演じた伊東四郎の名演技もあるが、振り返ると一昔前にはこ
の類の頑固親父が平均的な父親の姿であったのだ。

いまでは、わが子とテレビゲームにうつつをぬかす父親、パートに夢中にな
り食事に手を抜く母親。そのような親がわが子に何を教え、夢を与えることが
できるだろうか。こうしたふがいない親の背中を見て育ってきた子どもが劣化
していくのは当然なことであろ
う。それを手助けしているのは、受験に勝つことしか教えず、教育委員会や父
兄の顔色しか見ない「デモ、シカ先生」があまりにも跋扈していることであろ
う。

イギリスに長年勤務したことのある三菱商事の廣田康人報道室長は「イギリ
スで教師が子どもに教えるのは忍耐、あわてるな、堂々と生きよう」の3点で
あり、「物理、文学、哲学などに優秀な学生が集まり、教師は尊敬の的となっ
ている」と語っている。斜陽の道を歩いてきたイギリスがここにきて、よみが
えろうとしているのは、国の礎である教育が荒廃していなかったからに、他な
らないだろう。

(引用終わり)

 

「デモ、シカ先生」って知ってるかな?

どういう先生か。
最近多いんだけどねこういう先生。

 

仕方なく仕事がないから先生しかないかと、とりあえず先生になる先生のこと。

不況で、民間に就職できない。しかたがない、教師でもやるかと。

先生でも仕方がない。教師にしかなれない。

というような人。

近頃は先生しかなれないって、先生も大変だ。

教員試験は非常に難しい。一昔前は非常に多かった。

他の就職がみんな失敗して最後に残るのが教師。

そういう先生は教えようという情熱がないから、

問題なく事勿れ主義で教師も一応公務員だから生活は保証される。

やる気はないけど此れがオレの一生かな。

こういうのがでもしか教師。

それの反対を何というか知っているかな?

 

グレイトティーチャー鬼塚って言うんだよ。

劣化する青少年。劣というのは劣る。

人間としてだんだん劣っているのではないかということだね。

人間として劣っていくってどういうことだろう。

昔はよく、少年よ大志を抱けといわれたものです。

 

北海道大学に招かれたクラーク博士が教え子たちに叫んだ。

少年よ大志を抱け。大きな志を持て。

それが君を大きくする。人間として飛躍させる。

それが君を幸福にする。その大きな志が最近は言われない。

 

一番はじめに「将来に何の希望もない青少年」というタイトルがある。
カネと利益に狂奔する政治家。

汚職でつかまった人がいる。
不良品作りに励む企業、雪印かな。
経営することを忘れた経営者、これはそごうの水島だな。

母親殺しに走る少年。これも多い。

 

いずれも、いまの日本を象徴する現象であるが、こうした現象をとらえて"
日本、日本人が劣化している"とする議論が飛び交っている。

成蹊大学教授の竹内靖雄氏もその一人で、

過日の毎日新聞にこのような一文を寄せている。

「連日マスコミに取り上げられている不祥事、愚行、犯罪の氾濫を見ると、

日本人そのものの「劣化」が進んでいるのではないかと心配している。

「このままでは日本は滅びる」といった悲観論へと飛躍する人が出てくるのも無理はない」

京大教授の中西輝政氏も「劣化しつつある日本人の心を鍛え直す手立てを一
日も早く考えねばならない」とも警鐘を乱打している。

 

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