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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年08月05日

生き甲斐と人生の目的の違い

生き甲斐とは、完成のないものですから、

死ぬまで求道ということです。

 

達成というものはもうない、

それで、家康も、
「重荷を背負うて遠き道を行くが如し」
と詠んでいるのです。

 

死ぬまで求道になってしまうのです。

 

道を求めるということは、
決して楽なことではないです。

 

死ぬまで求道とは、結局死ぬまで苦しみということになります。
不実の信心とは、完成のないものなのです。

では、なぜ不実の信心は完成がないのか、
よく知らねばなりません。

 

五欲、欲にも代表的なものが五つあります。

 

五欲を満たして幸せになろうと、
お金、彼女、家などです。

 

欲を満たして幸せになろうとするものです。

しかし、欲にはきりがないです。
無限の欲望で、有限の人生を満たしきることはできない。
人生が無限であれば、満たすこともできるかもしれないですが。
どこまで行ってもきりがない。

「越えなばと、思いし峰に来てみれば なお行く先は 山路なりけり」
小学校終わったら勉強しなければいいかというと、
中学校でもしなければならない、

中学出ても、
高校出ても、勉強しなければならないのです。

社会に出ても、やっぱり勉強ですよ。

 

人間関係学、そんな人はまずいないです。
結婚したら、やっぱり難しいです。
そんなものが次々出てきます。

だから、死ぬまで求道になる。
趣味や生き甲斐には、死ぬまで完成がないのです。

 

それに対して人生の目的には、完成がある。

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タグ:結婚
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月04日

法施と財施が宿善になる

法施をすることがものすごい宿善になる。
六度万行の中でも最高の布施行。
布施の中にも法施と財施。中でも法施は最大の宿善。
親鸞聖人の御和讃で。
諸善万行ことごとく

 至心発願せるゆえに

 往生浄土の方便の

 善とならぬはなかりけり

諸善万行。もろもろの善。沢山ある善。
それらが悉く

 

至心発願せるゆえに。これは信前の人の心。
信後の心でない。十九願のことだから。
真剣に、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたい、という心。

それは、必ず往生浄土の方便の善となる。
往生浄土の方便の善。これが宿善。

 

人生の目的は、浄土往生ハッキリした身になること。

その、方便になる善。
真実に近づける善。
方便というのは真実に近づけるもの。
信前の人が、阿弥陀仏極楽浄土に生まれたい、という気持ちでやった善が、
往生浄土の方便の善にならないものはない。

六度万行の中の一番最初が布施行。
この布施行を筆頭として、諸善万行ことごとくは、宿善になるのだ。

その善の中でも、布施の中の法施、これが一番の宿善になる。
友達に、両親に仏法話する。なかなかできない。
念仏称えるのは誰でもできる。
しかし、仏法伝えて分かってもらう、というのはなかなか難しい。
これ以上宿善になることはない。もちろん聴聞とお勤めをのぞいて。
聴聞が第一。お勤めが第二。
六度万行の中で法施が第一。

仏法のためにお金を施す。これは法施と同じ。
施主、というのがある。

お金を出されて、多くの人の御法縁を開かれた。
話をされるのは講師だが、あの方々も法を施された。

法施にならない財施もあるが。
法財施。法施と財施と両方すること。

信後は、法施が最高の仏恩報謝になる。
信前は、最高の宿善になる。

 

親鸞聖人のこのお言葉。

諸善万行ことごとく

 至心発願せるゆえに

 往生浄土の方便の

 善とならぬはなかりけり

往生浄土の方便の善になる。
その最大のものが法施と財施。
だから、生きる力になる。
真実に近づいていくんだから。どんどんどんどん生きる力になる。
「法財施生きる力の元と知れ」

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月03日

仏教を嫌いな人の嫌いな理由

なぜ仏教を嫌いな人は仏教嫌いなのか。


「葬式や法事で訳のわからんお経を読んだり、
たまに説教すれば、地獄だの極楽だと死んでからの事ばっかり
言って金を持っていく」

どうして「どう生きるか」を教えないのかと。


汗水働いて得たものを、持っていきやがる。
嫌いになるのも当然。

 

どう生きるかというのは、

どんな生き方をすればいいのかと言うこと。
どうすれば健康に快適に生きていくことができるか。
健康ブーム。

 

しばしばテレビや雑誌で特集が組まれている。
お昼につけるテレビは、みのもんた。
毎年毎年同じ事やっている。夏ばてしない睡眠法…

大学でしている勉強は、どう生きるかという事に携わっている。
政治、経済、法律、医学。
これらは生きる手段。

手段と言うことは目的ではない。

 

どう生きるかとは、どんな歩き方をするかどんな走り方をするかということ。
400m男子の金メダルのマイケルジョンソ、反り返って走る。
100mの金メダル、モーリスグリーン。前屈みで走る。
マラソンは、そんな走り方していたら持たない。
いろんな走り方がある。

しかし、走り方を色々考えるのもゴールにつくため。

 

目的があって初めて手段が出てくる。
反対に考えてゴールや目的がないのに、
どう走ったらいいのかと考えている人がいたらお気の毒。
どこにもたどり着けない。
ゼーゼーハーハーと走ったことが無駄になってしまう。
何のためにどこに走っていくのかわからなければ、
走りだおれるために走っているようなもの。

 

曇鸞大師が浄土論註に、

尺取り虫のたとえを言われている。

 

尺取り虫は、自分なりにペース配分を考えてぐるぐる回っている。
結果、火鉢の中へ落ちていく。
どう走ったら早く走れるのか、それだけを考えている人は悲劇あるのみ。

 

エンドレスランという体罰が体育会であるそうな。

 

いつまでもトラックを走り続けなければならない。

仏教では、どう生きるかも確かに大事だが、
「なぜ生きるか」はもっと大事でないですか?

 

どこまで走っていけば、ああ走ってきて良かったということになるのか。

人生のゴール、決勝点はどこか、その古くて新しいテーマ。
これを明かにされたのが仏教

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タグ:お経
posted by 陽葵 at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月02日

一向専念無量寿仏とは

信心決定していないものにとって、

一向専念無量寿仏とはどういうことになるか。

 

信心決定の体験を一向専念無量寿仏という。

一向専念無量寿仏とは、無量寿仏とは阿弥陀仏のこと

一向専念無量寿仏とは、

阿弥陀仏一つに向きなさい、阿弥陀仏だけを信じなさいということ。


信心決定していない人にとっては、

一向専念無量寿仏になるようにする、

なるように進んでいく。

 

その為に一番大切なのが聴聞
聴聞を続けていくことが、

一向専念無量寿仏に近づくことになる。
一念で一向専念無量寿仏になる。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月01日

この身今生に向かって度せずんば

「人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、さらに
いずれの生に向ってか、この身を度せん」

の御文の、
「この身今生に向かって度せずんば更にいずれの生に向かってこの身を度せん」
はどういう意味でしょうか。

 

 

 

華厳経に出ている、大変有名なお言葉。

「人身」
普通は「にんじん」と読む。ところが変な感じ。

聞いている人が誤解する場合がある。

そこで、あえて「じんしん」と読もう。

 

「人身受け難し今己に受く」
生まれがたい人間に生まれてよかった。
人間に生まれることは大変に有り難いことだが、

よくぞ私は人間に生まれることができた。
蚊が飛んでいる。

あなたもこの夏何匹か殺しましたか?

蚊にも命があるが。

「仏法聞き難し今己に聞く。」

 

聞きがたい仏法を今私は聞かせていただいている。仏法聞けてよかった。

「この身今生に向かって度せずんば更に何れの生に向かってこの身を度せん」
この身、というのは、この体。
今生というのは、今生きているとき、ということ。
人間に生まれた、今生きているときに、度せずんば、とある。
「度せずんば」
この場合は、魂の解決ができなかったら、信心決定できなかったら、

人生の目的を果たさなかったら、ということ。

「更に何れの生に向かってかこの身を度せん」
今度いつ人間に生まれて信心決定することができるだろうか。
か〜せん。反語。〜できるだろうか、いやできない。

 

今人間に生まれたこのときに、信心決定できなかったら、

今度いつ再び人間に生まれて信心決定できるだろうか。

二度とチャンスはありませんよ。

今が絶好のチャンスですよ、ということ。

 

人間に生まれてよかった、仏法が聞けてよかった、

もし今信心決定できなかったら、

今度いつまた人間に生まれて信心決定することができただろうか。
今生が最も信心決定するチャンス。

 

人間に生まれる、善知識にあって仏法を聞く、

あなたはもうこの1つの門を突破している。

 

人間に生まれる難関を突破してきた。そう思っていないが。

ゴキブリなんかうじゃうじゃいる。

エビやカニだったら、もう食べられていたかも知れない。

 

海には沢山の魚。空には沢山の鳥。

地面には沢山のあり。
そういうものに生まれずに、人間に生まれることができた。

これが第一の関門を突破できたと言うこと。

 

せっかく人間に生まれても、仏法聞かずに死んでいく人ある。
カンボジアで地雷でどーんと死んでしまう。交通事故で死んでしまう。
東京は、日中のビジネス人工は3000万と言われている。

 

せっかく人間に生まれてきても、仏法を聞かずに死んでいく。

それではもったいない。

 

そしてもう一つ。
せっかく善知識にお会いして、仏法を聞くことができても、

生きている今信心決定できなかったら、

今度いつ人間に生まれて仏法を聞いて、信心決定することができるだろうか。

 

今が絶好のチャンスですよ。このチャンスを逃さないで下さいよ、ということ。

今しか人生の目的を果たすチャンスはありませんよ。

どうか皆さん人生の目的を達成して下さいよ、

というお釈迦様の励ましのお言葉。

 

 

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2017年07月31日

極楽浄土へは往きやすいのに往っている人が少ない理由

この一念の安心一にて浄土に往生することの、

あら、ようも要らぬ取りやすの安心や。

されば安心という二字をば、「やすきこころ」と訓めるはこの意なり。

更に何の造作もなく、一心一向に如来をたのみ参らする信心一にて、極楽に往生すべし。

あら、心得やすの安心や。また、あら、行きやすの浄土や。

(御文章二帖目第七通)

 

蓮如上人はここで、安心というのはやすきこころ。

こころえやすいといわれている。浄土へは往きやすい。

何の苦労も要らないぞと仰有っている。

それが、往き易いということ。

やすいの心も要らないやすさ。

そのまんま。ありがたいことだ。こう仰有っています。

 

この安心一つがあれば、間違いなく極楽浄土に往生するから。

何にも要らない。寝ておってもいい。なにやってもいい。本当よ。

安心というのは信心。信心決定したら、どんな人も極楽往生間違いない、

往生一定。100%間違いなく、極楽に往生できる。他にはなにも要らない。

 

飛行機なら、チケット忘れたら乗れませんよ。

ちゃんと予約したといっても、再発行のためにややこしい手続きを踏まないといけない。

駅の自動改札でも、切符がないと通れませんね。何でもそうです。

ところが、極楽に往くときは、信心一つあれば、後は何も要らない。

しかもその信心は、落とす心配も、忘れる心配もない。

どんな健忘症の人でも大丈夫。

交通事故で片足なくなっても大丈夫。

いつ死んでも、どこで死んでも、どんな死にかたしても、往生一定はハッキリしている。

雷に打たれても、溺れ死んでも。だから、心得やすの安心、行きやすの浄土。

ここまではやすいぞ、やすいぞといわれている。

 

これによりて『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。

この文の意は、安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、

(御文章二帖目第七通)

 

けれども、とあります。

信心決定して、一向専念無量寿仏になったひと
は、間違いなく極楽に往生できる。

百即百生と言われます。百人いたら、百人皆生まれる。

それを蓮如上人の御文章五帖目の第四通に

 

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、

みな浄土に往生すべき事更に疑なし。
(御文章五帖目第四通)

 

一念の信心定まったひとは、皆浄土に往生する。全く疑いはない。

だから、行きやすい。ところが、そこは易往なんです。
では、何で人がいないのかというと、

信心を取る人稀なれば浄土へは往き易くして人なしと言えるはこの経文の意なり。

(御文章二帖目第七通)

 

信心決定する人がまれだ。少ないと言われています。

だから、浄土へは行きやすいけれども人がない。こう仰有るんですね。

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2017年07月30日

3通りの念仏

仏教では、念仏を称えさえすれば救われるのではない。

念仏には、称え心によって3種類ある。

万行随一の念仏・万行超過の念仏、

そして自然法爾の念仏。
 

万行随一の念仏から、
万行超過の念仏、そして
自然法爾の念仏へ入る。

 

それが三願転入の御文を見ると判る。

ここを以って、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、

久しく万行諸善の仮門を出でて、ながく双樹林下の往生を離れ、

善本徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心をおこしき。

然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、

速に難思往生の心を離れて、難思義往生をとげんと欲す。

果遂の誓、良に由あるかな。
教行信証化土巻)

 

その次、

 

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、

真宗のかんようをひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。

いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。
(教行信証化土巻)

 

ここで18願へ入って阿弥陀仏のご恩が知らされた。
そして念仏を称えずにおれない。
ここに称名報恩ということが書かれている。
「不可思議の徳海を称念する」称名念仏のこと。

 

正信偈では、竜樹菩薩のところに

 

億念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

 

阿弥陀仏の本願を憶念すれば、自然、他力、

阿弥陀仏の本願力によって、
即時に、一念で必定に入る。必ず仏に生まれる身に定まった。

 

そのお礼が念仏。

唯、唯念仏して、のただ。
能く、これは他力をあらわす。
常に南無阿弥陀仏を称えて、大悲弘誓の恩を報じる。
一念で必定に入った、助かったあとに称える念仏。
これが親鸞聖人の教えられた念仏。

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2017年07月29日

岐阜県の火事で大きな阿弥陀如来が空に登って行かれた

南無阿弥陀仏を浄土他流の人みたいに、ただの字じゃないかなんて思ったら大変。
そういう心得違いをしている人に、
蓮如上人はそうではないぞと仰有っています。


法敬坊、蓮如上人へ申され候、

「あそばされ候御名号、焼け申し候が、六体の仏になり申し候。不思議なる事」

と申され候えば、蓮如上人、其の時仰せられ候、

「それは不思議にてもなきなり、仏の仏に御成り候は、
不思議にてもなく候。悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になるこそ不思議よ」

と仰せられ候なり。(御一代記聞書78)


法敬坊というのは蓮如上人のお弟子の一人です。

上のように蓮如上人に申し上げた。

遊ばされたと言うのは、蓮如上人がお書きになられたということ。

別に、遊んでいたわけじゃない。

蓮如上人は、たくさんの御名号をかかれた方です。

この蓮如ほどたくさん書いたものはないだろうと仰有るほど。

そして、門徒の方に与えられたんです。その中の御名号の一つが焼けてしまった。

家が火事になったんですね。

焼けた家から六体の仏様が、登って行かれた。

何という不思議なことがあるもんですねと蓮如上人にご報告した。

ところが蓮如上人は、全然不思議ではないと仰有った。

仏様が燃えて仏様になって空に登って行かれたのだから、全然不思議ではない。

これ、本当にあったことなんですよ。

岐阜県の飛騨高山でこういうことがあって、大きな阿弥陀如来が空に登って行かれたということがあって、
写真になって、新聞にも載った。

それは不思議ではないと。

不思議というのは、悪しかできない我々凡夫が、

南無阿弥陀仏を頂いて、仏様になれると言うことが不思議なんだと仰有った。

だから、南無阿弥陀仏というのは単なる字ではないんですね。

真実の宝とは、仏様そのものなんですね。仏の心なんです。

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2017年07月28日

真実の宝

蓮如上人のお言葉。真実の宝を教えられています。

 

「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主にな
るというは、信心を獲ることなり」と云々。又「当流の真実の宝という
は南無阿弥陀仏、是れ一念の信心なり」と云々。

(御一代記聞書239)

 

阿弥陀仏を信ずれば、南無阿弥陀仏が自分のものになると。
よく部屋に何かあったとき、これの持ち主は誰だと言うね。
主は誰だと。こういう言い方をしますね。
南無阿弥陀仏の主になるとは、南無阿弥陀仏の主人になると言うこと。
そして、南無阿弥陀仏が真実の宝であると。
世の中に、いろんな宝はあるけれど、真実の宝は南無阿弥陀仏であると。
ダイヤモンド・ルビーも宝。
だけどそういうものは、落としたり、なくなったりすることがあります。
せっかく取った金メダルと、ホテルに忘れた人もいるね。
しかも、金メダルって金メッキで、しばらくたつとはがれてくるんだって。
体操の加藤選手が、昔金メダルを8個取ったという。
テレビで全部持ってきてもらっていたが、6個にしか見えない。
2個は銅メダルでないかと思ったら、メッキのはがれたメダルだった。
金メダルもメッキがはがれる。その喜びも続かない。

子宝と言って、自分の子供が宝だという人もいる。
どんな金銀財宝も、子供に勝る宝はないといわれます。
ところが大切な子供でも、裏切られて、殺されてしまうお母さんもいる。
あるいは、子供が交通事故でなくなったりする。
永遠の宝ではないんですね。
女の子だったら、お父さん泣くよ。
また、息子が嫁をもらうと、嫁さんの方に行ってしまって、
お母さんの方を見向きもしなくなる。
子宝と思っていても、死ぬときまで一緒にはいけない。

この世の宝はみんな裏切って去っていく。
ところが、南無阿弥陀仏は一度自分のものになったら、絶対に離れない。
死ぬときでもついてくる。
だから心得ると言われる。これが仏凡一体。仏心と凡心が一つになる。
だから摂取不捨なんです。摂取して、捨てられない。
がっちり納め取って、絶対にすたられることがない。
落とす心配も、焼ける心配も、忘れる心配もない。
忘れ物の多い人でも、絶対に大丈夫。こう言うのを真実の宝と言います。
裏切らないから。
そして、間違いなく弥陀の浄土につれていって下さいますから、真実の宝です。
その御本尊は、掛やぶれと。
常に大切にして下さい。

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2017年07月27日

映画「連合艦隊」

映画「連合艦隊」

 

日本の連合艦隊の最後の様子が描かれている。

太平洋戦争で日本が負けていって、神風特攻隊が組織され、

優秀なパイロットは戦場で散って行くから、

戦争の終わり頃は未熟な若い者が敵艦にぶつかっていく。

 

舞い上がったが最後生きて帰ることはできない。

わずか十代の若者が敵艦にぶつかるとき、

「お母さん」と叫ぶんだね。

天皇陛下万歳なんて死んでいく人はほとんどない。

 

誰かが見ているときはしょうがないからそう言うだけで、

人間死んでいくときにどう叫ぶか。

お母さんと叫んで死んでいく。

何でその時にお母さんというのか。

お父さんじゃ駄目かな。

お父さん、何の力もないみたい。

やはりお母さん。母は偉大だ。

おかあさん、分析したら何?ひらがな5字。

何処に力がある。お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、でもやっぱりお母さんだね。

 

その少年達には母は命。

母は今も、戦場で戦っている私の幸せを念じて、ふるさとで願ってくれているに違いない。

それを感じて、敵にぶち当たる勇気を貰うんですね。

勿論戦争で死ぬことは決して勇気ではないが、

最後ぶちあたるとき、せめてふるさとで待っている母を思いだしてぶち当たる。

母の命が籠もっている。

母の願いを力として敵艦にぶつかっていく。

 

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