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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年08月03日

仏教を嫌いな人の嫌いな理由

なぜ仏教を嫌いな人は仏教嫌いなのか。


「葬式や法事で訳のわからんお経を読んだり、
たまに説教すれば、地獄だの極楽だと死んでからの事ばっかり
言って金を持っていく」

どうして「どう生きるか」を教えないのかと。


汗水働いて得たものを、持っていきやがる。
嫌いになるのも当然。

 

どう生きるかというのは、

どんな生き方をすればいいのかと言うこと。
どうすれば健康に快適に生きていくことができるか。
健康ブーム。

 

しばしばテレビや雑誌で特集が組まれている。
お昼につけるテレビは、みのもんた。
毎年毎年同じ事やっている。夏ばてしない睡眠法…

大学でしている勉強は、どう生きるかという事に携わっている。
政治、経済、法律、医学。
これらは生きる手段。

手段と言うことは目的ではない。

 

どう生きるかとは、どんな歩き方をするかどんな走り方をするかということ。
400m男子の金メダルのマイケルジョンソ、反り返って走る。
100mの金メダル、モーリスグリーン。前屈みで走る。
マラソンは、そんな走り方していたら持たない。
いろんな走り方がある。

しかし、走り方を色々考えるのもゴールにつくため。

 

目的があって初めて手段が出てくる。
反対に考えてゴールや目的がないのに、
どう走ったらいいのかと考えている人がいたらお気の毒。
どこにもたどり着けない。
ゼーゼーハーハーと走ったことが無駄になってしまう。
何のためにどこに走っていくのかわからなければ、
走りだおれるために走っているようなもの。

 

曇鸞大師が浄土論註に、

尺取り虫のたとえを言われている。

 

尺取り虫は、自分なりにペース配分を考えてぐるぐる回っている。
結果、火鉢の中へ落ちていく。
どう走ったら早く走れるのか、それだけを考えている人は悲劇あるのみ。

 

エンドレスランという体罰が体育会であるそうな。

 

いつまでもトラックを走り続けなければならない。

仏教では、どう生きるかも確かに大事だが、
「なぜ生きるか」はもっと大事でないですか?

 

どこまで走っていけば、ああ走ってきて良かったということになるのか。

人生のゴール、決勝点はどこか、その古くて新しいテーマ。
これを明かにされたのが仏教

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タグ:お経
posted by 陽葵 at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年08月02日

一向専念無量寿仏とは

信心決定していないものにとって、

一向専念無量寿仏とはどういうことになるか。

 

信心決定の体験を一向専念無量寿仏という。

一向専念無量寿仏とは、無量寿仏とは阿弥陀仏のこと

一向専念無量寿仏とは、

阿弥陀仏一つに向きなさい、阿弥陀仏だけを信じなさいということ。


信心決定していない人にとっては、

一向専念無量寿仏になるようにする、

なるように進んでいく。

 

その為に一番大切なのが聴聞
聴聞を続けていくことが、

一向専念無量寿仏に近づくことになる。
一念で一向専念無量寿仏になる。

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2017年08月01日

この身今生に向かって度せずんば

「人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、さらに
いずれの生に向ってか、この身を度せん」

の御文の、
「この身今生に向かって度せずんば更にいずれの生に向かってこの身を度せん」
はどういう意味でしょうか。

 

 

 

華厳経に出ている、大変有名なお言葉。

「人身」
普通は「にんじん」と読む。ところが変な感じ。

聞いている人が誤解する場合がある。

そこで、あえて「じんしん」と読もう。

 

「人身受け難し今己に受く」
生まれがたい人間に生まれてよかった。
人間に生まれることは大変に有り難いことだが、

よくぞ私は人間に生まれることができた。
蚊が飛んでいる。

あなたもこの夏何匹か殺しましたか?

蚊にも命があるが。

「仏法聞き難し今己に聞く。」

 

聞きがたい仏法を今私は聞かせていただいている。仏法聞けてよかった。

「この身今生に向かって度せずんば更に何れの生に向かってこの身を度せん」
この身、というのは、この体。
今生というのは、今生きているとき、ということ。
人間に生まれた、今生きているときに、度せずんば、とある。
「度せずんば」
この場合は、魂の解決ができなかったら、信心決定できなかったら、

人生の目的を果たさなかったら、ということ。

「更に何れの生に向かってかこの身を度せん」
今度いつ人間に生まれて信心決定することができるだろうか。
か〜せん。反語。〜できるだろうか、いやできない。

 

今人間に生まれたこのときに、信心決定できなかったら、

今度いつ再び人間に生まれて信心決定できるだろうか。

二度とチャンスはありませんよ。

今が絶好のチャンスですよ、ということ。

 

人間に生まれてよかった、仏法が聞けてよかった、

もし今信心決定できなかったら、

今度いつまた人間に生まれて信心決定することができただろうか。
今生が最も信心決定するチャンス。

 

人間に生まれる、善知識にあって仏法を聞く、

あなたはもうこの1つの門を突破している。

 

人間に生まれる難関を突破してきた。そう思っていないが。

ゴキブリなんかうじゃうじゃいる。

エビやカニだったら、もう食べられていたかも知れない。

 

海には沢山の魚。空には沢山の鳥。

地面には沢山のあり。
そういうものに生まれずに、人間に生まれることができた。

これが第一の関門を突破できたと言うこと。

 

せっかく人間に生まれても、仏法聞かずに死んでいく人ある。
カンボジアで地雷でどーんと死んでしまう。交通事故で死んでしまう。
東京は、日中のビジネス人工は3000万と言われている。

 

せっかく人間に生まれてきても、仏法を聞かずに死んでいく。

それではもったいない。

 

そしてもう一つ。
せっかく善知識にお会いして、仏法を聞くことができても、

生きている今信心決定できなかったら、

今度いつ人間に生まれて仏法を聞いて、信心決定することができるだろうか。

 

今が絶好のチャンスですよ。このチャンスを逃さないで下さいよ、ということ。

今しか人生の目的を果たすチャンスはありませんよ。

どうか皆さん人生の目的を達成して下さいよ、

というお釈迦様の励ましのお言葉。

 

 

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2017年07月31日

極楽浄土へは往きやすいのに往っている人が少ない理由

この一念の安心一にて浄土に往生することの、

あら、ようも要らぬ取りやすの安心や。

されば安心という二字をば、「やすきこころ」と訓めるはこの意なり。

更に何の造作もなく、一心一向に如来をたのみ参らする信心一にて、極楽に往生すべし。

あら、心得やすの安心や。また、あら、行きやすの浄土や。

(御文章二帖目第七通)

 

蓮如上人はここで、安心というのはやすきこころ。

こころえやすいといわれている。浄土へは往きやすい。

何の苦労も要らないぞと仰有っている。

それが、往き易いということ。

やすいの心も要らないやすさ。

そのまんま。ありがたいことだ。こう仰有っています。

 

この安心一つがあれば、間違いなく極楽浄土に往生するから。

何にも要らない。寝ておってもいい。なにやってもいい。本当よ。

安心というのは信心。信心決定したら、どんな人も極楽往生間違いない、

往生一定。100%間違いなく、極楽に往生できる。他にはなにも要らない。

 

飛行機なら、チケット忘れたら乗れませんよ。

ちゃんと予約したといっても、再発行のためにややこしい手続きを踏まないといけない。

駅の自動改札でも、切符がないと通れませんね。何でもそうです。

ところが、極楽に往くときは、信心一つあれば、後は何も要らない。

しかもその信心は、落とす心配も、忘れる心配もない。

どんな健忘症の人でも大丈夫。

交通事故で片足なくなっても大丈夫。

いつ死んでも、どこで死んでも、どんな死にかたしても、往生一定はハッキリしている。

雷に打たれても、溺れ死んでも。だから、心得やすの安心、行きやすの浄土。

ここまではやすいぞ、やすいぞといわれている。

 

これによりて『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。

この文の意は、安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、

(御文章二帖目第七通)

 

けれども、とあります。

信心決定して、一向専念無量寿仏になったひと
は、間違いなく極楽に往生できる。

百即百生と言われます。百人いたら、百人皆生まれる。

それを蓮如上人の御文章五帖目の第四通に

 

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、

みな浄土に往生すべき事更に疑なし。
(御文章五帖目第四通)

 

一念の信心定まったひとは、皆浄土に往生する。全く疑いはない。

だから、行きやすい。ところが、そこは易往なんです。
では、何で人がいないのかというと、

信心を取る人稀なれば浄土へは往き易くして人なしと言えるはこの経文の意なり。

(御文章二帖目第七通)

 

信心決定する人がまれだ。少ないと言われています。

だから、浄土へは行きやすいけれども人がない。こう仰有るんですね。

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2017年07月30日

3通りの念仏

仏教では、念仏を称えさえすれば救われるのではない。

念仏には、称え心によって3種類ある。

万行随一の念仏・万行超過の念仏、

そして自然法爾の念仏。
 

万行随一の念仏から、
万行超過の念仏、そして
自然法爾の念仏へ入る。

 

それが三願転入の御文を見ると判る。

ここを以って、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、

久しく万行諸善の仮門を出でて、ながく双樹林下の往生を離れ、

善本徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心をおこしき。

然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、

速に難思往生の心を離れて、難思義往生をとげんと欲す。

果遂の誓、良に由あるかな。
教行信証化土巻)

 

その次、

 

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、

真宗のかんようをひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。

いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。
(教行信証化土巻)

 

ここで18願へ入って阿弥陀仏のご恩が知らされた。
そして念仏を称えずにおれない。
ここに称名報恩ということが書かれている。
「不可思議の徳海を称念する」称名念仏のこと。

 

正信偈では、竜樹菩薩のところに

 

億念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

 

阿弥陀仏の本願を憶念すれば、自然、他力、

阿弥陀仏の本願力によって、
即時に、一念で必定に入る。必ず仏に生まれる身に定まった。

 

そのお礼が念仏。

唯、唯念仏して、のただ。
能く、これは他力をあらわす。
常に南無阿弥陀仏を称えて、大悲弘誓の恩を報じる。
一念で必定に入った、助かったあとに称える念仏。
これが親鸞聖人の教えられた念仏。

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2017年07月29日

岐阜県の火事で大きな阿弥陀如来が空に登って行かれた

南無阿弥陀仏を浄土他流の人みたいに、ただの字じゃないかなんて思ったら大変。
そういう心得違いをしている人に、
蓮如上人はそうではないぞと仰有っています。


法敬坊、蓮如上人へ申され候、

「あそばされ候御名号、焼け申し候が、六体の仏になり申し候。不思議なる事」

と申され候えば、蓮如上人、其の時仰せられ候、

「それは不思議にてもなきなり、仏の仏に御成り候は、
不思議にてもなく候。悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になるこそ不思議よ」

と仰せられ候なり。(御一代記聞書78)


法敬坊というのは蓮如上人のお弟子の一人です。

上のように蓮如上人に申し上げた。

遊ばされたと言うのは、蓮如上人がお書きになられたということ。

別に、遊んでいたわけじゃない。

蓮如上人は、たくさんの御名号をかかれた方です。

この蓮如ほどたくさん書いたものはないだろうと仰有るほど。

そして、門徒の方に与えられたんです。その中の御名号の一つが焼けてしまった。

家が火事になったんですね。

焼けた家から六体の仏様が、登って行かれた。

何という不思議なことがあるもんですねと蓮如上人にご報告した。

ところが蓮如上人は、全然不思議ではないと仰有った。

仏様が燃えて仏様になって空に登って行かれたのだから、全然不思議ではない。

これ、本当にあったことなんですよ。

岐阜県の飛騨高山でこういうことがあって、大きな阿弥陀如来が空に登って行かれたということがあって、
写真になって、新聞にも載った。

それは不思議ではないと。

不思議というのは、悪しかできない我々凡夫が、

南無阿弥陀仏を頂いて、仏様になれると言うことが不思議なんだと仰有った。

だから、南無阿弥陀仏というのは単なる字ではないんですね。

真実の宝とは、仏様そのものなんですね。仏の心なんです。

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2017年07月28日

真実の宝

蓮如上人のお言葉。真実の宝を教えられています。

 

「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主にな
るというは、信心を獲ることなり」と云々。又「当流の真実の宝という
は南無阿弥陀仏、是れ一念の信心なり」と云々。

(御一代記聞書239)

 

阿弥陀仏を信ずれば、南無阿弥陀仏が自分のものになると。
よく部屋に何かあったとき、これの持ち主は誰だと言うね。
主は誰だと。こういう言い方をしますね。
南無阿弥陀仏の主になるとは、南無阿弥陀仏の主人になると言うこと。
そして、南無阿弥陀仏が真実の宝であると。
世の中に、いろんな宝はあるけれど、真実の宝は南無阿弥陀仏であると。
ダイヤモンド・ルビーも宝。
だけどそういうものは、落としたり、なくなったりすることがあります。
せっかく取った金メダルと、ホテルに忘れた人もいるね。
しかも、金メダルって金メッキで、しばらくたつとはがれてくるんだって。
体操の加藤選手が、昔金メダルを8個取ったという。
テレビで全部持ってきてもらっていたが、6個にしか見えない。
2個は銅メダルでないかと思ったら、メッキのはがれたメダルだった。
金メダルもメッキがはがれる。その喜びも続かない。

子宝と言って、自分の子供が宝だという人もいる。
どんな金銀財宝も、子供に勝る宝はないといわれます。
ところが大切な子供でも、裏切られて、殺されてしまうお母さんもいる。
あるいは、子供が交通事故でなくなったりする。
永遠の宝ではないんですね。
女の子だったら、お父さん泣くよ。
また、息子が嫁をもらうと、嫁さんの方に行ってしまって、
お母さんの方を見向きもしなくなる。
子宝と思っていても、死ぬときまで一緒にはいけない。

この世の宝はみんな裏切って去っていく。
ところが、南無阿弥陀仏は一度自分のものになったら、絶対に離れない。
死ぬときでもついてくる。
だから心得ると言われる。これが仏凡一体。仏心と凡心が一つになる。
だから摂取不捨なんです。摂取して、捨てられない。
がっちり納め取って、絶対にすたられることがない。
落とす心配も、焼ける心配も、忘れる心配もない。
忘れ物の多い人でも、絶対に大丈夫。こう言うのを真実の宝と言います。
裏切らないから。
そして、間違いなく弥陀の浄土につれていって下さいますから、真実の宝です。
その御本尊は、掛やぶれと。
常に大切にして下さい。

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2017年07月27日

映画「連合艦隊」

映画「連合艦隊」

 

日本の連合艦隊の最後の様子が描かれている。

太平洋戦争で日本が負けていって、神風特攻隊が組織され、

優秀なパイロットは戦場で散って行くから、

戦争の終わり頃は未熟な若い者が敵艦にぶつかっていく。

 

舞い上がったが最後生きて帰ることはできない。

わずか十代の若者が敵艦にぶつかるとき、

「お母さん」と叫ぶんだね。

天皇陛下万歳なんて死んでいく人はほとんどない。

 

誰かが見ているときはしょうがないからそう言うだけで、

人間死んでいくときにどう叫ぶか。

お母さんと叫んで死んでいく。

何でその時にお母さんというのか。

お父さんじゃ駄目かな。

お父さん、何の力もないみたい。

やはりお母さん。母は偉大だ。

おかあさん、分析したら何?ひらがな5字。

何処に力がある。お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、でもやっぱりお母さんだね。

 

その少年達には母は命。

母は今も、戦場で戦っている私の幸せを念じて、ふるさとで願ってくれているに違いない。

それを感じて、敵にぶち当たる勇気を貰うんですね。

勿論戦争で死ぬことは決して勇気ではないが、

最後ぶちあたるとき、せめてふるさとで待っている母を思いだしてぶち当たる。

母の命が籠もっている。

母の願いを力として敵艦にぶつかっていく。

 

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2017年07月26日

南無阿弥陀仏が火事で燃えたら6体の仏になった件!

法敬坊、蓮如上人へ申され候、
『あそばされ候御名号、焼け申し候が、六体の仏になり申し候。不思議なる事』
と申され候へば、前々住上人、其の時仰せられ候、
『それは不思議にてもなきなり、仏の仏に御成り候は不思議にて
もなく候。悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になるこそ不思議よ』
と仰せられ候なり。

(御一代記聞書78番)

 

 法敬坊とは蓮如上人の御弟子さんです。

その法敬坊が蓮如上人にこういった。

『あそばされ候御名号、焼け申し候が、六体の仏になり申し候。不思議なる事』
遊ばされ候とはどういうことかな。御名号が遊んでいたのかな。
ひょろりんひょろりん と。

 

これは蓮如上人がお書き下された。
書いて下された。
蓮如上人はたくさんの御名号をたくさんかかれた方。
三国一の名号書きとご自分で言われている。
だから蓮如上人のご真筆の名号がたくさんある。

 

そのうちの一体が、火事で焼けてしまった。

ところが不思議なことにその家の中から六体の仏さまが天に昇っていった。
炎の中から六つの仏さまがあらわれた。
いやなんというふしぎなことが世の中にはあるものですね。
蓮如さまどういうことでしょう。

 

世界の七不思議とはありますが、ネス湖のネッシー、ヒマラヤの雪男とか。
何という不思議なことでしょう。こう蓮如上人に法敬坊が。

 

蓮如上人その時仰せられ候。

何が不思議だ。何をお前はそんなに驚いているのか。
ちっとも不思議ではないではないか。
仏さまが仏さまになって昇って行かれた当たり前だ。
それを不思議というのは、お前この南無阿弥陀仏を単なる文字だと思っているだろう。

ワシが書いた南無阿弥陀仏を唯の字だと思っているから
それが焼けて天に昇ると不思議だ不思議だと大騒ぎする。
何が不思議か。我々を絶対の幸福にする阿弥陀仏そのものだ。

 

じゃあ不思議とは何か。

不思議とは悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になること、
悪しかできない凡夫が弥陀をたのむ一念で仏になることが不思議。
想像もできないこと だと蓮如上人仰有っている。

まあ世の中にはネッシーとか雪男とか雪女とか口裂け女とか不思議なものいっぱいある。
何が不思議か。

そんなことどうでもいい。
ネッシーがいようがいまいが、トイレの花子さんがいようがいまいが。

私達にとって大事なのは、本当の幸せにしてくれるものはなにか。
私達の幸せに関係ないものはどうでもいい。
騒ぎたい人が騒げばいい。我々悪凡夫が弥陀をたのむ一念にて仏になることが不思議だ。

その不思議を不思議だと思えない。
だからこそ、不可称不可説不可思議の大功徳。
親鸞聖人が仰っていることが知らされる。
だから釈尊がその広長の舌相をもってしても説くことが できなかった。

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2017年07月25日

信心獲得とはいかなることか?

信心決定、信心獲得とは如何なる事か。


信を獲れと言われる、

信を獲るとはどういうことなのか。

 

このことについて蓮如上人が御文章の中で教えておられます。

信心獲得章。五帖目の第五通。

 

信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。

この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。

 

非常に明解に蓮如上人が信心獲得とはこういうことだと私達に教えていられる。
第十八の願を心得ると。

阿弥陀仏は、四十八の願を建てておられますが、
その第十八番目の 願。それが十八願です。

 信心獲得すると言うことは、第十八の願を心得る。
 心得るというのは
 「はい左様でございますかわかりました。わたくしめは心得ました」、
 と言う聞いてその内容がわかった ということではない。
 「お前判ったか」「はい心得ました」
 そういう意味ではない。

これどういうことかな。
体験すると言うこと。第十八の願を体験する。
そこに誓われて いる通りの身になる。
これを第十八の願を心得る。
こう仰有っています。
第十八願の ことを別にどんな言い方をするか?

「至心信楽の願」
「弥陀の誓願」
「難思の弘誓」

四十八の中から阿弥陀仏が十八番目を選び取られた。
選択の本願。
これどう言う意味?
何から何を選びとられたの?

阿弥陀如来が四十八の誓願の中からこの十八願を選びとられた。
それはどういうことかな
阿弥陀仏の本心が十八願の中に説かれている」

四十八願の中で弥陀の本心、
本当の願いが説かれているのは十八番目の願。
それで選び取られたと。
他にどんな言い方しますか。
「王本願」

どうして王本願というの?
「四十八願の中の」
王とは?
ダイエーの王か?
じゃあ、長島本願は?
ないね、そんなの。

最高の本願という意味です。
最も優れた本願。
大統領本願とはいわない。語呂がわるいね。
首相本願。最低。

 

阿弥陀仏の本心が誓われている。
『随自意の願』
阿弥陀仏の心にしたがって説かれた本願』
阿弥陀如来が自らの心にしたがって、
自らの心のままに説かれたのが十八願です。

ご自分の本心を説かれたと言うことです。
自主的に行った、とは自分の意思で行ったこと。
自らのお心にしたがって。


阿弥陀仏がご自分の本心を説かれたと言うことです。

じゃあそれ以外。
『随他意の願』
随他意の願とは?これはどう言う意味?
阿弥陀仏の本心ではない。相手の機に応じて』
相手とは?
衆生の心に応じて。
他というのは衆生と言うことです。
相手に応じて説かれた。

随他意。だから本心ではない。
相手に気を使って言わなければならないことは本心ではない。
これから私の本心を言う、というときは相手の顔色を見てはいけない。
相手が何を言おうとこれが私の本心。
ところが私の本心言えない、相手の顔色を窺わないといけない。
これが随他意。

四十八の本願の中で阿弥陀仏が御自身の本心を説かれた。
それが十八願。
それで選択本 願、王本願、随自意の本願。
何れもここに弥陀の本心が説かれている。
その第十八の願。阿弥陀仏の本心の通り心得る。
体験する。

これが信心獲得すると言うこと。
信心獲得するというは、第十八の願を心得る。

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