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2017年07月26日
南無阿弥陀仏が火事で燃えたら6体の仏になった件!
法敬坊、蓮如上人へ申され候、
『あそばされ候御名号、焼け申し候が、六体の仏になり申し候。不思議なる事』
と申され候へば、前々住上人、其の時仰せられ候、
『それは不思議にてもなきなり、仏の仏に御成り候は不思議にて
もなく候。悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になるこそ不思議よ』
と仰せられ候なり。
(御一代記聞書78番)
法敬坊とは蓮如上人の御弟子さんです。
その法敬坊が蓮如上人にこういった。
『あそばされ候御名号、焼け申し候が、六体の仏になり申し候。不思議なる事』
遊ばされ候とはどういうことかな。御名号が遊んでいたのかな。
ひょろりんひょろりん と。
これは蓮如上人がお書き下された。
書いて下された。
蓮如上人はたくさんの御名号をたくさんかかれた方。
三国一の名号書きとご自分で言われている。
だから蓮如上人のご真筆の名号がたくさんある。
そのうちの一体が、火事で焼けてしまった。
ところが不思議なことにその家の中から六体の仏さまが天に昇っていった。
炎の中から六つの仏さまがあらわれた。
いやなんというふしぎなことが世の中にはあるものですね。
蓮如さまどういうことでしょう。
世界の七不思議とはありますが、ネス湖のネッシー、ヒマラヤの雪男とか。
何という不思議なことでしょう。こう蓮如上人に法敬坊が。
蓮如上人その時仰せられ候。
何が不思議だ。何をお前はそんなに驚いているのか。
ちっとも不思議ではないではないか。
仏さまが仏さまになって昇って行かれた当たり前だ。
それを不思議というのは、お前この南無阿弥陀仏を単なる文字だと思っているだろう。
ワシが書いた南無阿弥陀仏を唯の字だと思っているから
それが焼けて天に昇ると不思議だ不思議だと大騒ぎする。
何が不思議か。我々を絶対の幸福にする阿弥陀仏そのものだ。
じゃあ不思議とは何か。
不思議とは悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になること、
悪しかできない凡夫が弥陀をたのむ一念で仏になることが不思議。
想像もできないこと だと蓮如上人仰有っている。
まあ世の中にはネッシーとか雪男とか雪女とか口裂け女とか不思議なものいっぱいある。
何が不思議か。
そんなことどうでもいい。
ネッシーがいようがいまいが、トイレの花子さんがいようがいまいが。
私達にとって大事なのは、本当の幸せにしてくれるものはなにか。
私達の幸せに関係ないものはどうでもいい。
騒ぎたい人が騒げばいい。我々悪凡夫が弥陀をたのむ一念にて仏になることが不思議だ。
その不思議を不思議だと思えない。
だからこそ、不可称不可説不可思議の大功徳。
親鸞聖人が仰っていることが知らされる。
だから釈尊がその広長の舌相をもってしても説くことが できなかった。
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2017年07月25日
信心獲得とはいかなることか?
信心決定、信心獲得とは如何なる事か。
信を獲れと言われる、
信を獲るとはどういうことなのか。
信心獲得章。五帖目の第五通。
信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。
この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。
非常に明解に蓮如上人が信心獲得とはこういうことだと私達に教えていられる。
第十八の願を心得ると。
阿弥陀仏は、四十八の願を建てておられますが、
その第十八番目の 願。それが十八願です。
信心獲得すると言うことは、第十八の願を心得る。
心得るというのは
「はい左様でございますかわかりました。わたくしめは心得ました」、
と言う聞いてその内容がわかった ということではない。
「お前判ったか」「はい心得ました」
そういう意味ではない。
これどういうことかな。
体験すると言うこと。第十八の願を体験する。
そこに誓われて いる通りの身になる。
これを第十八の願を心得る。
こう仰有っています。
第十八願の ことを別にどんな言い方をするか?
「至心信楽の願」
「弥陀の誓願」
「難思の弘誓」
四十八の中から阿弥陀仏が十八番目を選び取られた。
選択の本願。
これどう言う意味?
何から何を選びとられたの?
阿弥陀如来が四十八の誓願の中からこの十八願を選びとられた。
それはどういうことかな
「阿弥陀仏の本心が十八願の中に説かれている」
四十八願の中で弥陀の本心、
本当の願いが説かれているのは十八番目の願。
それで選び取られたと。
他にどんな言い方しますか。
「王本願」
どうして王本願というの?
「四十八願の中の」
王とは?
ダイエーの王か?
じゃあ、長島本願は?
ないね、そんなの。
最高の本願という意味です。
最も優れた本願。
大統領本願とはいわない。語呂がわるいね。
首相本願。最低。
阿弥陀仏の本心が誓われている。
『随自意の願』
『阿弥陀仏の心にしたがって説かれた本願』
阿弥陀如来が自らの心にしたがって、
自らの心のままに説かれたのが十八願です。
ご自分の本心を説かれたと言うことです。
自主的に行った、とは自分の意思で行ったこと。
自らのお心にしたがって。
阿弥陀仏がご自分の本心を説かれたと言うことです。
じゃあそれ以外。
『随他意の願』
随他意の願とは?これはどう言う意味?
『阿弥陀仏の本心ではない。相手の機に応じて』
相手とは?
衆生の心に応じて。
他というのは衆生と言うことです。
相手に応じて説かれた。
随他意。だから本心ではない。
相手に気を使って言わなければならないことは本心ではない。
これから私の本心を言う、というときは相手の顔色を見てはいけない。
相手が何を言おうとこれが私の本心。
ところが私の本心言えない、相手の顔色を窺わないといけない。
これが随他意。
四十八の本願の中で阿弥陀仏が御自身の本心を説かれた。
それが十八願。
それで選択本 願、王本願、随自意の本願。
何れもここに弥陀の本心が説かれている。
その第十八の願。阿弥陀仏の本心の通り心得る。
体験する。
これが信心獲得すると言うこと。
信心獲得するというは、第十八の願を心得る。