その後序のお言葉。
「慶しきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。
慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。
唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。
若しこの書を見聞せん者は、信順を因と為し、疑謗を縁と為し、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん」
のお言葉なんですが、
それはまさにこの阿弥陀仏に救われた体験を書かれているんです。
大波小波がさかまく海面がある。
その上には月がある。その天上の月が水の上に影をおとす。
この天上の月と水上の月とは2つであって1つ。
波がたったら水上の月はめちゃくちゃになります。
だから水面にペンキ持っていって月を書こうかと思ってもそれは無理。
天空からの光が宿った月は水面がどんなに乱れても壊れない。
月ではあっても水なんですね。
これが金剛心なんです。
さかまく波にたとえられたのは、煩悩です。
煩悩はあるがまま。いろいろの感情が起きている。
しかし、その心の中に、真実の心を頂く。
すると煩悩具足のままで至徳具足となります。
これによって動くまんまが動く、変わるまんまが変らない、そういう信心になるんです。
こういう信心は、親鸞聖人が弥陀をたのんだ信一念の体験以外にないんです。
ほとんどの信心というのは、あてにもならないものを信じている。
まことの阿弥陀仏を信じるのも、まことの心でなければなりません。
雲があったら波がさかまいているだなんて分からない。
この雲にたとえたのは疑情ですが、
それが破れたら無量の光明によって散り乱れる煩悩があきらかにされ、
そして鮮明不動の他力の信心を獲得できる。
その慶びを書いたのがこの文章なんです。
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