この一念の安心一にて浄土に往生することの、
あら、ようも要らぬ取りやすの安心や。
されば安心という二字をば、「やすきこころ」と訓めるはこの意なり。
更に何の造作もなく、一心一向に如来をたのみ参らする信心一にて、極楽に往生すべし。
あら、心得やすの安心や。また、あら、行きやすの浄土や。
(御文章二帖目第七通)
蓮如上人はここで、安心というのはやすきこころ。
こころえやすいといわれている。浄土へは往きやすい。
何の苦労も要らないぞと仰有っている。
それが、往き易いということ。
やすいの心も要らないやすさ。
そのまんま。ありがたいことだ。こう仰有っています。
この安心一つがあれば、間違いなく極楽浄土に往生するから。
何にも要らない。寝ておってもいい。なにやってもいい。本当よ。
安心というのは信心。信心決定したら、どんな人も極楽往生間違いない、
往生一定。100%間違いなく、極楽に往生できる。他にはなにも要らない。
飛行機なら、チケット忘れたら乗れませんよ。
ちゃんと予約したといっても、再発行のためにややこしい手続きを踏まないといけない。
駅の自動改札でも、切符がないと通れませんね。何でもそうです。
ところが、極楽に往くときは、信心一つあれば、後は何も要らない。
しかもその信心は、落とす心配も、忘れる心配もない。
どんな健忘症の人でも大丈夫。
交通事故で片足なくなっても大丈夫。
いつ死んでも、どこで死んでも、どんな死にかたしても、往生一定はハッキリしている。
雷に打たれても、溺れ死んでも。だから、心得やすの安心、行きやすの浄土。
ここまではやすいぞ、やすいぞといわれている。
これによりて『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。
この文の意は、安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、
(御文章二帖目第七通)
けれども、とあります。
信心決定して、一向専念無量寿仏になったひと
は、間違いなく極楽に往生できる。
百即百生と言われます。百人いたら、百人皆生まれる。
それを蓮如上人の御文章五帖目の第四通に
一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑なし。
(御文章五帖目第四通)
一念の信心定まったひとは、皆浄土に往生する。全く疑いはない。
だから、行きやすい。ところが、そこは易往なんです。
では、何で人がいないのかというと、
信心を取る人稀なれば浄土へは往き易くして人なしと言えるはこの経文の意なり。
(御文章二帖目第七通)
信心決定する人がまれだ。少ないと言われています。
だから、浄土へは行きやすいけれども人がない。こう仰有るんですね。
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