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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年06月23日

阿弥陀仏の本願に救われた人

然ればすなわち、浄邦縁熟して、調達闍世をして逆害を興ぜしめ、

浄業機彰れて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまえり。

これすなわち、権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、

世雄の悲、正しく逆・謗・闡提を恵まんと欲してなり。

教行信証


どんな極悪人をも救い摂り、

難度海の人生を光明の広海に浮かばせる阿弥陀如来の本願。

この本願の現存を、いかに十方衆生に周知徹底するか。
ひとえに念ずる諸仏方の、壮大無類のドラマであると、

親鸞聖人は仰せになっている。

 

大聖おのおのろともに
凡愚底下のつみびとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり

(浄土和讃)

 

親鸞聖人は、全てこの親鸞のために、

阿弥陀仏の本願があるということを、全ての人に周知徹底するために、

それ一つ念じて諸仏方が演じて下されたドラマだと、見ておられます。

 

その目的は、阿弥陀仏の本願があるという事を周知徹底するためです。

大聖というのはお釈迦様。それだけでなく、それ以外の諸仏方が、

煩悩具足、愚かで最低の悪しかできない十方衆生を、五逆罪を造っている、
どんな極悪人も助ける、そういう阿弥陀仏の本願があるという事を、

知らせるために、ご方便してくだされたと。

 

方便とは、我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う。

 

どんなものでも救う阿弥陀仏の本願があるという事を周知徹底するために、

ドラマを演じて下されたからこそ、

救われることが出来たと仰有っておられるんですね。

凡愚底下というのを、観無量寿経には、

 

仏、韋提希に告げたまわく、「汝は此れ凡夫なり。

心想羸劣にして未だ天限を得ざれば……

 (観無量寿経)

 

羸というのは悪いということ。

劣はおとっている。

そんなことばかり考えている泥凡夫。

そんな韋提希夫人が救われたということです。

仏語に虚妄なしといわれます。

 

そんな韋提希夫人がハッキリと救われている。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年06月22日

韋提希夫人は過去世に悟りを開いていた聖者か?

然ればすなわち、浄邦縁熟して、調達闍世をして逆害を興ぜしめ、
浄業機彰れて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまえり。

これすなわち、権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、

世雄の悲、正しく逆・謗・闡提を恵まんと欲してなり。

教行信証

 

韋提」とは、韋提希夫人。

お釈迦さまがおられた時代のインドで、

地球上で最初に阿弥陀仏に救われて、

この世で51段高飛びした。

 

悟りといったら52位ある。これを悟りの52位という。

全部名前が付いている。
0段から52段まである。

仏教聞いている人はどんな登り方をしても仏の境地を目指している。

 

登り方は聖道の教えに従ってのぼっていく登り方と
浄土門といって、浄土の教えによって登っていく登り方がある。

 

自分の力で一段一段登っていくのが聖道門の教え。

浄土門の教えは、0段から一気に51段まで高飛びして

一息切れたら52段に到達する。

 

韋提希夫人という人がいる。王舎城の悲劇。

この女ひどい人だった。

我が子欲しさに修行者を殺し、

産まれてきた子供を剣の林に産み落とした。

 

観無量寿経というお経に説かれているが、この韋提希が
阿弥陀仏を拝した一念に51段まで高飛びしたと説かれている。

 

一段一段登っている聖道門の人にして見れば信じられないこと。

 

経典にはハッキリ書かれている。

その韋提希夫人を巡って、この人は一体どんな人だったのかということで、

観無量寿経という経典を唐の時代に多くの人が解釈した。

 

大切な経典だという事でどう解釈するか色々な人が解釈した。

 

中でも、有名だったのが、天台、浄影、嘉祥。

有名な一宗一派を開いた人。

 

宗派を開いたのはよほどのこと。

天台は天台宗。

浄影は地論宗。

嘉祥は三論宗。

 

天台も浄影も嘉祥も観無量寿経疏というのを書いた。

三人が書いたのはそんなに差がない。

三人は韋提希夫人は権化の人と見ていた。

 

権化というのは前世に於いて相当高い悟りを開いていた人が仮に現れたもの。

それが今生お釈迦様の教えにあって51段目まで登ったんだと言った。

 

それに対して善導大師という人が現れて、

天台浄影嘉祥が言った、韋提希夫人は権化だと言ったのは間違いだと言って、

韋提希夫人は実凡だと言って観無量寿経疏をかかれた。

 

実凡というのは全く悟りを開いていない0段の、凡夫の者なんだと言われた。

その全く悟りを開いていない0段の者が阿弥陀仏を拝して51段目までいったんだ。

 

親鸞聖人は

善導独明仏正意

と言われている。
どう読むかというと、善導大師唯一人、

仏の正意に明らかであったと読む。

 

中国で一番仏教が栄えた唐の時代にお釈迦様の正しい御心に明らかであったのは

善導大師唯一人であった。

 

この仏の正意というのはイコール阿弥陀仏の本願。

善導唯一人物の正意に明らかであった。

仏意計り難しと言う言葉もあるが仏様の心が分かるのは難しいこと。

善導大師以外の人は分からなかった。

境涯が違う。

 

善導大師が天台・浄影・嘉祥の教えを破って善導大師のお名前が世にとどろいた。

まず、この人達の心を考えてみましょう。

間違っていたがそうとしか思えなかった。

0段の人がなんで51段まで高飛びするんだ。そんなのありかい。

一段登るのが大変だということが分かればこの人達の気持ちが分かる。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年06月21日

三毒の煩悩は死ぬまでなくならない

三毒の煩悩はしばしば起れどもまことの信心は彼にもさえられず、

顛倒の妄念はつねに絶えざれども更に未来の悪報をばまねかず。

(浄土真要鈔)

 

三毒の煩悩によって、

よろこびがよろこびでなくなってしまうんですね。

 

どんな幸せなことも喜べなくなってしまう。

煩悩があるからなんです。
大学に受かった喜びも、結婚の喜びも、続きません。

 

だんだん欲が出てくるので、感謝の心も続かなくなってしまう。
御恩を流してはいけません。

報恩は直ちにするというのがいいです。

恩返しは早い方がいいです。

なぜそうかと言ったら、煩悩があるからです。

 

煩悩によって喜べなくなってしまう。欲深いんですね。

そういう煩悩に遮られないまことの信心を頂けるんですね。

 

顛倒の妄念も無くなりませんが、後生の一大事はありません。

だから後生明るいんです。

どれだけ煩悩に覆われていても明るいですから。

煩悩は喜びのたねになります。

こういう言葉もあります。

 

生け花の、浮き世の水に、だまされて、花は咲けども、実らざりけり

生きている間は煩悩でどんな悪を造るか分かりません。

生きている間にどんな花が咲いて、

悪果を受けるか分かりませんが、後生は明るい。

実らないんですね。根っこがないから。

 

信心決定したら悪果がこなくなるわけではありません。

煩悩具足ですから、どんなことをしでかすか分かりませんが、

後生の一大事は解決している。

いつ死んでも極楽参り間違いなしは変わりません。
だから、生活苦、苦しみが苦しみとならない。

煩悩即菩提となる。

 

ここでいう花は生活苦

実るというのは後生の一大事

 

信心決定したら悪果がこなくなるわけではありません。

煩悩具足ですから、どんなことをしでかすか分かりませんが、

後生の一大事は解決している。

いつ死んでも極楽参り間違いなしは変わりません。
だから、生活苦、苦しみが苦しみとならない。

煩悩即菩提となる。

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2017年06月20日

仏教の先生をおろそかにすると?

善知識をおろかに思い、師をそしる者をば謗法の者と申すなり

(末灯鈔)

 

謗法」とは、仏教で最も恐ろしい罪。

おろかに」とは、「おろそかに」ということ。

 

善知識の知識とは仏教でいう先生のこと。

その先生に善知識と悪知識がある。

 

悪知識とはどういう人か。仏法をねじ曲げて伝える人。

仏教を正しく伝える人が善知識。

 

お釈迦様。

「西へ行く人に従えば西へ行くなり。東へ行く人に従えば東へ行くなり。

信無き悪知識に従えば、地獄に堕つるなり。

善知識に従えば、仏にあえるなり」

 

また「一盲衆盲をひきいて、もって火坑に堕つる」ともおっしゃる。


誰の話を聞いていてもいいというわけではない。

善知識のお話を聞かなければならない。

善知識とはそういう人。

元祖はお釈迦様。

 

親鸞聖人は善知識を謗るのが、謗法罪だと仰有った。

 

では善知識を謗るとは、具体的にはどういうことなのか。
「今日の話は分かりやすかった」

「わかりにくかった」

「今日の話は長かった」

「いや短かった」

これは、善知識をおろかに思っている姿。

分かりやすい、分かりにくいというのは、

その人の上に立たなければ言えないこと。

 

新米のアナウンサーがベテランの人に

「今日の放送はこことここがまずかった」

そんなことは言えない。

 

大学生のテストを小学生が採点しているようなもの。

それをやっている。

善知識の頭の上にあぐらをかいている。

善知識をおろかにしている姿。

善知識とは正しく仏教を説かれる方。

その善知識を謗るのは、仏教を謗ると言うこと。


私たちの考えが正しいなら、仏教を聞く必要はない。

自分の考えが正しかったらいいが、私たちに正しい考えがあるか。

何が正しいか、何が間違っているか。

 

分からないから苦しんでいる。だから教えてもらっている。

その時に聞く態度が

「自分の考えに合うから聞く、合わないから聞かない」

では分かる話も分からない。


私の心が正しいなら、仏教を聞く必要はない。

間違ったところがただされる。

仏教を聞くのは辛い。

お釈迦様は、地獄に堕ちるのは逆さまになって堕ちると言われる。

頭下足上。

なぜ逆さまかというと、私たちの心が逆さまだから。

これを顛倒、倒見ともいう。


完全に考え方が逆さま。

それで一大事が起きる。

先ほども言った。

火坑に向かって進んでいる。一大事。

自分の間違った考えを正していただく。

 

または仏教を聞いているときに居眠りするのも謗法罪。

 

 

井戸のぞく 子を呼ぶ親は 命がけ」

井戸は危ない。落ちたら助からない。

それを知らずに子供が井戸をのぞき込んでいる。

親は命がけ。

 

今日死ぬかも知れない。明日死ぬかも知れない。

今日生き延びたと言うことは、死と戦って、今日は勝ったと言うこと。

しかしこの戦いに完全勝利はあり得ない。いつか必ず負ける。

 

そして、後生は大変な一大事が待ち受けている。
ガチッとおさめとって絶対に捨てられない、

本当の幸せになって下さいと仰有っている。

 

こういう話をすると、

「こんな罪を造るぐらいなら仏教を聞かなければ良かった」

と思う人がある。

 

しかし、そういう人は身体で罪を造っている。

尊い話がされているところに行かない。

これは恐ろしい罪。
こんな話を聞くと「じゃあどうすればいいんだ」となる。

親鸞聖人はどう仰有っているか。

 

信順を因と為し、疑謗を縁と為し、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん

教行信証後序)

 

信順を因と為し」とは「この話はすごい」と言って聞ける人は、

どんどん聞いていって下さい。

疑謗を縁と為し」とは、話を聞いて「なんじゃこれは」と言う人は、
またそれを縁として仏教を聞いて下さい。

 

そしてはやく信心決定して、弥陀の浄土へ往って、

弥陀同体のさとりを開けるところまでいって下さい。


何としても助かって欲しい。

往生一定の身になって下さいということ。

「摂取不捨の利益をあずかる身に早くなって下さい」

親鸞聖人は仰有っている。

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2017年06月19日

親鸞聖人の悲痛な懺悔の御和讃

無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは 高峯岳山にことならず

(正像末和讃)

 

無明とはここでは煩悩のこと、

煩悩をあえて強められて、

無明煩悩といわれる。

 

繁くして、無明煩悩が沢山ある。

空気中に浮かぶ塵の数ほどある。

遍満とは一杯満ち満ちている。

 

愛憎違順
自分に近づいてくる人は、心がかかってかわいい人だ。

信長が秀吉を可愛がる。
ところが嫌いなやつ、イヤな奴はとことんいじめる、

そんな人間の感情を愛憎違順という。

 

それが同じ人でも自分に都合のいいときは誉めるが

同じ人が自分に刃向かってくるとなるとそれは憎しみにかわる。

 

人間の愛とは実に自分勝手でエゴ。

一番可愛いのが自分、自己愛、

本当は自分が可愛いから可愛い自分にくる者が可愛い、

自分に刃向かう者は嫌い、自己中。

 

ピカチューじゃない。

近頃虫がおおい、電車で携帯電話とか……

こういうの自己中といいます。

 

そういう自己中心てきな考え方をエゴ。自分を愛する人可愛い。
自分に刃向かう者はにくい。

かわいさ余って憎さ百倍、骨肉あいはむ、民族同士の争いも大変。

個人でも国家でもよくある、愛憎違順、

親鸞聖人にもそんなお気持ちが沢山ある。
高い峰峰、高い山、ヒマラヤ山脈のようにそういう心がある。

と懺悔されたお言葉です。

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2017年06月18日

三田誠広(作家)の殺人がいけない理由

昔の文藝春秋に、

作家の三田誠広が、

殺人がいけない理由を書いていた。


「人間というのは愚かな存在だ」
(略)

そもそも人を殺してはいけないのであれば、

戦争はすべて悪ということになるが、

それにしては世界の先進国が武器や原爆を製造している。

 

こういう現実を無視して、人殺しはよくないという論理を

若者に押しつけることは難しい。

これから人を殺そうとしている若者に対して、

どういうアドバイスができるかといえば、

人を殺してはいけないというわけではないけれども、

あまり褒められたことでもないので、やめた方がいい、

といったことをいうしかないのかもしれない。

(略)

人を殺してはいけないということを説得する黄金の論理はない。

これまでにも人は多くの人を殺してきた。

もちろん健全な生活をしている子供たちに、人の命の尊さを教えることは、

わるいことではないが、健全な生活をしている子供たちは、

もともと人を殺したいなどとは考えないものだ。

 

屈折した子供には、目立ちたいと思うなら人など殺さず、

政治家にパイでもぶつけろと教えてやるべきだろう。

 

 

 

アメリカが原爆をつくっているから

人殺しが悪いわけではないというのは、

滅茶苦茶な論理で、

非常に無責任な発言に思えます。

 

 

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2017年06月17日

なぜ人を殺してはいけないか子供に聞かれたら

文藝春秋に出ていた。

 

○野坂昭如(作家)
「殺しなさい。ただ君も殺される」

(略)

人間は人間を殺す、他の生物は、餌とするため生命を奪うが、人間は違う。

(略)

人間を人間たらしめている属性なのだから、

良いの悪いのといったって始まらない。

(略)

人間の歴史はそのまま人殺しのつながり、少年少女の百人や二百人、

金属バットで親をなぐり殺したからってどうしたというのだ。

「親」に触れたからつけ加えておく、子供の親殺し、親の子殺しは、

「殺し」に入らないと考える。

これは、ごく生物として、まっとうに地球に棲む、

人間以外の植物も含めたイキモノの、本来の姿なのだ。

(略)

「何故殺しちゃいけないか」の答えは、

「殺してごらん」。

殺したい相手、他人を認識できる世の中はすばらしい。

 

この人は無茶苦茶です。

子供や親を殺してもいいと言っています。

肉食動物は別の生物を補食しますが、

同種の生物を殺すのは、人間など、ごくわずかな生物のみです。

まったく生物の本来の姿ではありません。

作家なわりに勉強不足でもあります。

 

 

○野田正彰(精神病理学者・作家)
「愚問を生む深刻な社会の病理」

(略)

殺人手段について想像する前に、人は他者の命よりも何かの目的がよ
り価値があると思考する。

彼の命よりも自分の名誉、怒り、カネがより価値があると思い込む。

(略)

だが、他者の命より価値が高い何らかの目的がそんなに簡単に見つかるはずがない。

(略)

多くの少年犯罪では、生きる目的も求められないまま

集団への適応だけに生きてきた未熟な少年が、漠然とした空虚感を

一気に飛躍させるために殺人を行っている。

 

「人はなぜ人を殺していけないか」

と若者に問われれば、差し当たって私は

「自分が殺されたくないから、殺さない」と答える。

だがその後、そのような問いが広がっていく背景には、

生きていることの喜びを失い、

生きる目的を探求できなくなっている自分がいること、

そんな生き方を強いている社会があることを、共に考えようと伝える。

 

 

愚問とは、自分の質問をへりくだっていう場合があるが、

他人の質問を言う場合は、言うまでもないことを言うのでは?

 

問題の問いを「愚問」といっているわりには、

最終的になぜいけないのか、

生きる目的は何なのかは共に考えようというだけだ。

 

愚かな問いの答えを一緒に考えようでは、

分からないようなので、

やはり愚かとは言えないのか。

 

結局、なぜ人を殺してはいけないか

誰も分からないのだろう。

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タグ:歴史

2017年06月16日

むなしいときどうすればいいのか

「私は最近、何をしても空しい心が胸を覆っています。

無気力な状態になってしまいます。こんな心でどうする、と思っても、

惑業苦を繰り返してしまいます。

どうすればこの状態を抜け出せるでしょうか」

という人があります。

 

まだ、仏教を聞き始めたばかりの時、

人生の目的は絶対の幸福だと聞けば、よしッと思うでしょう。

 

しかし、2千万の家でも建てるのは大変。

無碍の一道に出るというのはとても大変そう、

ほとんど私には無理と思えるものです。

 

いろいろの先輩に聞いてみて、

私の推定信心決定期間をコンピューターではじきだすと、

無限大、という天文学的な数字が出た。

 

書斎に入ると次から次へとやるべきことがある。やりたくない。

しかしやらねばたまっていく。私は一番やりにくいものから始めます。

そうすれば後が楽。

 

しかし、試験の時とかは、逆がいい。

確実に出来るものから着実にやる。

また私は、今日やることは絶対今日やります。

明日には絶対延ばさない。

私が昨年病気で倒れた時、執筆すべき原稿を

こんなこともあろうかと書いておいた。

そうすればあの人は約束を守る人だと思われる。

 

最悪のことを考えておかねばなりません。

後生の一大事に関しても同じです。

最悪の事態とは、今晩死ぬことです。

私は今までそうしてきたし、これからもそうしていきます。

 

楽な方に走っていけば駄目です。

しかし、もしも何もやる気になれない、ということになったら、

まずは身近なことから、簡単なことから、確実に手をつけていくことです。

 

どこからやればいいかわからない時は、出来ることからすればいいんです。

武蔵の剣法は、親分をまず見つけてからやるんですが、その逆です。

出来るところから、倒せるやつから倒す。

 

それが六波羅蜜です。

これは自分に合うと思うものからすればいいんです。

6つすべては無理だから、できるものをすればいい。

 

また一方逆に、今死んだらどうなるもたもたしておれん、

という気持ちも大切です。

ですから昔から「急いで急がず、急がずに急げ」といわれる。

ところがこれがなかなか難しい。

あんまり急いでも足を踏み外す。

だから一歩一歩大地を踏みしめて進んでもらいたいのです。

 

苦しいことがやってきたならば、それらは報われる苦労なんです。

はるかに私たちの方が幸せなんだということを見つめて、なおかつ、

根機にかなった身近なものから着実に進んでいく、これが大事になります。

 

 

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2017年06月15日

無常も罪悪も気にかからない私はどう求めればいいか

無常も罪悪も気にかからない私はどう求めればいいでしょうか。

 

人間というのは、薄〜い氷の上を、その氷の下には凍てつくほどの冷たい水、
落ちただけで身体が凍り付いてしまうような、

そんなところを重〜い荷物を背負って歩いているようなものだと教えられます。

 

重たい荷物とは罪悪。

薄い氷とはいつ死ぬか分からない無常の身を現しています。

 

先日、ある映画の一場面を見ました。

よく、氷の下にスターが落ちていくという場面あるでしょ。

氷の下に落ちた場合、普通の人間は泳げないらしい。

筋肉が凍ってしまう。

気絶するそうです。

 

つまり、この下の世界は想像をはるかに超える。

あそこから出てこれるのは映画の世界だけ。

私たちも、あんなところ入ったことないから、そりゃひどい世界だろうな、

とか思っていても、実際入ったならば、想像を絶するものです。


一度入ったならば、後悔します。

あんな風に歩くんじゃなかった、もっと慎重に歩くべきだった。

 

しかし、上にいた時考えていたことは、もっと大きな荷物を持って帰ろうとか

もっと滑って行こうとか、そんなことしか考えてません。

薄い氷の下のことにはもう目がいきません。

 

「生」と「死」というのは、背中合わせにある。

表裏一体という言葉もありますが、仏法では生死一如といいます。

裏も見せ表も見せて散るもみじ、と言われるように、

必ず、光があったら闇がある、表があったら裏もある。

 

ところが我々の目に映ることは、どんな風に異性をゲットして、

どうすれば就職出来て、どうすれば赤点を乗り切れて・・・そんなことばかりで、

薄い氷の下にはどんな世界が広がっているのか、まったく気にしていません。

 

お釈迦様は「出息入息不待命終」と言われます。

また「一息つがざれば千載に長くいく」ともいわれます。

 

 

しかし、そこで想像している後生の一大事とはまったく違う世界が待っている。

にもかかわらずその世界に心がかからない。

 

心にかかるとかかからないとかに関わらず、

厳粛な事実としてこうしたことはあるのです。

もしみなさんの家が焼けたら驚くでしょう。

夫が死んだら驚くでしょう。

 

しかしもっと驚かなくてはならないことが待っているのに、

驚くべきことに驚かず、恥ずべきことに少しも恥じずにいる心、

それに驚くのが罪悪観・無常観ということです。

この自分の相を、よくよく聞かせていただくのが、聴聞です。

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タグ:聴聞
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2017年06月14日

秘事法門の特徴

浄土真宗の異端である

秘事法門の特徴とは?


彼らの言う正しい仏教の先生「善知識」から

「それでよい」と信心が認可される。

 

信心を認可する。

 

「それでいいんだよ」と知識が言ったかどうかで判断するのが秘事法門の特徴

 

「これで助かったんだろうか?」という言葉が出てくる。

「それでいいんだよ」と言われるとこれでいいような気がする。

 

秘事法門は、体験談のオンパレード

教えよりも体験談が好き。

 

「信心も色々、獲信も色々」

真実の信心は一つ

 

お釈迦さまの大無量寿経

本願成就文に教えられた信心一つが真実信心

 

改邪鈔には、

かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の

「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、

このほか未だ聞かず。

とある。

 

かの心行を獲得せんこと

とは、信心獲得したかどうかは。

 

念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文

とは本願成就文のこと。

 

依憑」とはものさし。

 

唯一の物差し 願成就にピタッと一致する体験かどうか。

これ以外の体験はどんなに素晴らしい、

どんなに嬉しい、

どんなに泣けた体験でもくだらない体験。

 

I先生か誰かに尋ねなければ安心できないような信心。

 

真実の信心は阿弥陀仏と自分の一対一。

他人が分かるものではない。

阿弥陀仏と自分しか分からない。

 

善知識は必要だが最後はいらない。

 

後世物語聞書

如何なる人来りて云い妨ぐとも、すこしも変わらざる心を金剛心という

「如何なる人」善知識・仏も入る。

 

体験談しか聞かなくて体験したから、

教えがないから「これでいいんでしょうか」と聞く。

 

善知識が「いいんだよ」なんて言えない。

本人以外わからない。

その人と阿弥陀仏の間の事。

 

人の上に信・未信を立ててはならない。
法の上に信・未信は立てなければならない。
教えの面で明らかにしなければならない。

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