文藝春秋に出ていた。
○野坂昭如(作家)
「殺しなさい。ただ君も殺される」
(略)
人間は人間を殺す、他の生物は、餌とするため生命を奪うが、人間は違う。
(略)
人間を人間たらしめている属性なのだから、
良いの悪いのといったって始まらない。
(略)
人間の歴史はそのまま人殺しのつながり、少年少女の百人や二百人、
金属バットで親をなぐり殺したからってどうしたというのだ。
「親」に触れたからつけ加えておく、子供の親殺し、親の子殺しは、
「殺し」に入らないと考える。
これは、ごく生物として、まっとうに地球に棲む、
人間以外の植物も含めたイキモノの、本来の姿なのだ。
(略)
「何故殺しちゃいけないか」の答えは、
「殺してごらん」。
殺したい相手、他人を認識できる世の中はすばらしい。
この人は無茶苦茶です。
子供や親を殺してもいいと言っています。
肉食動物は別の生物を補食しますが、
同種の生物を殺すのは、人間など、ごくわずかな生物のみです。
まったく生物の本来の姿ではありません。
作家なわりに勉強不足でもあります。
○野田正彰(精神病理学者・作家)
「愚問を生む深刻な社会の病理」
(略)
殺人手段について想像する前に、人は他者の命よりも何かの目的がよ
り価値があると思考する。
彼の命よりも自分の名誉、怒り、カネがより価値があると思い込む。
(略)
だが、他者の命より価値が高い何らかの目的がそんなに簡単に見つかるはずがない。
(略)
多くの少年犯罪では、生きる目的も求められないまま
集団への適応だけに生きてきた未熟な少年が、漠然とした空虚感を
一気に飛躍させるために殺人を行っている。
「人はなぜ人を殺していけないか」
と若者に問われれば、差し当たって私は
「自分が殺されたくないから、殺さない」と答える。
だがその後、そのような問いが広がっていく背景には、
生きていることの喜びを失い、
生きる目的を探求できなくなっている自分がいること、
そんな生き方を強いている社会があることを、共に考えようと伝える。
愚問とは、自分の質問をへりくだっていう場合があるが、
他人の質問を言う場合は、言うまでもないことを言うのでは?
問題の問いを「愚問」といっているわりには、
最終的になぜいけないのか、
生きる目的は何なのかは共に考えようというだけだ。
愚かな問いの答えを一緒に考えようでは、
分からないようなので、
やはり愚かとは言えないのか。
結局、なぜ人を殺してはいけないか
誰も分からないのだろう。
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