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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年06月03日

水で石を穿つ

至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、水よく石を穿つ。

「心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。

いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。

只仏法は聴聞に極まることなりと云々。(御一代聞書193番)

 

御一代聞書は蓮如上人の言行録。

蓮如上人があるときこんなことを言われたというものをまとめられたものです。

 

「堅い物といえば石である。軟らかいものといえば水である。

水に石をあけるということがある。

初志貫徹すれば何事が信心決定していなくても、

聴聞を心に入れて聞けば、阿弥陀仏の御慈悲にて
信心獲得することが出来る、だから仏法は聴聞に極まるのだ」

 

ここで特に蓮如上人が特に教えられているのは聞法相続、続けてする、

これが信心獲得に極めて大切なことである。

 

非常に堅いものが石である、一方水は非常に軟らかい、

ところが水良く石を穿つ、

 

軟らかい水が硬い石に穴をあけることがある。

一週間くらいではあかない。

五年十年二十年間断なくおちていったなら必ず穴が空く、

丁度そのように初心貫徹したならば、人生の目的必ず達成しよう、

 

絶対の幸福必ずなろうとつらぬいたならば、

未だ信心決定していなくても、真剣に聴聞の一本道進んでいったならば、

途中でやめてしまっては駄目ですけど。

 

私達の聴聞は雨だれのようになさけない聞法、

足痛いなとかいろいろなことを考えている、

丁度水のようなもの、なかなか信心開発できないが

続けてあきらめることなく聴聞していけば、

人生の目的を達成できるんですよ、ただ仏法は聴聞に極まることなり。

 

聞法相続こそ信心獲得に極めて大切であると教えられている。

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posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年06月02日

ゲームは現実逃避?

今の社会で何か欠けてるものがある。
色々あると思いますが。

 

その一つが生きる力。
なぜ苦しくても生きなければならないのか、
これが分かればその力が身につきます。

それは何か,資格ですって人が多いんだね。
英会話とか、パソコンとか。

私にかけているのは,まるい性格ですって人もいる。
くよくよしない、まあるい性格になりたい。
ということで、自己啓発セミナーに行こう。
ところが、なかなかよくならない人もいますしね。

かなり資格を持っているという人でも自殺してますしね。

その目的はなにか、これをキャッチするのは実に大事なことだと思います。

 

RPG(ロールプレイングゲーム)というものがあります。
あなたはドラクエか、FFやったことありますか。

 

勇者ってのは自分なんでしょ。
他にも踊り子とか、戦士、僧侶、魔法使い、商人、
これは、小学生じゃなくて、中、高、大、とかかなりきてるんですね。

RPGとは、役割を演じるってことでしょ。

 

日常では体験できないことを、その世界に没頭する。
人生の中で役割を演じる、これはいわば夢の世界なんですね。
これを考える時に思い出すのは,未来日記なんですね。

これなかなか大ブレイクしてるんでしょ。

 

未来日記で歌われた曲はみんなヒットする、とか。

要するに、一つのシナリオがあって、役割を演じる.

毎日の生活はあまりにも単調な同じことの繰り返しで,
だから、仮想現実の世界を楽しむっていう。

 

ところが、その刺激が余りにも強くって、
ほどよく楽に処理するってのがいい、という感じかもしれません。

だいたいこのゲーマーってのは夜更かしする。朝寝坊なんだね。
とことんゲームの世界に入りこむ。
いざ、現実に戻ると何も変わってない。
また、そういう同じことの繰り返しがイヤだってんで、またのめりこむ。
こういうことかもしれません。


目の前にあるいろいろな苦しいことからの逃避術の一つといえましょう。

 

しかし

なぜ苦しくても生きなければならないのか、
本当の生きる意味が分かれば、

生きる力が身につきます。

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タグ:生きる意味

2017年06月01日

無常だからこそイイ?

「無常だからこそイイ。はかないからこそ風流だ」

 

諸行無常というのは、

大事にしていたものを失うとか、なくすとか、

ダメになるとか、裏切られるということ。

 

駅にとめていた自転車を撤去されたらショック。

「はかないからこそ風流だ」と言っている人はいない。

 

毎週毎週金曜日のあの時間にある人気ドラマ。

これがなんの前触れもなく終わってしまって

何となく世の無常を感じましたという人もいる。

 

雲仙普賢岳が爆発した。

東日本大震災が起きた。

無常だからこそイイ。

はかないからこそ風流だといえない。

 

 

もしいても、

自分がガンの宣告されるとかたまったものじゃない。

 

お釈迦さまは人間というのは

噴火山上で踊りを踊っているようなものと言われた。

 

大爆発によって吹っ飛ぶ。これが後生の一大事。

事実を事実を説かれても説かれても迷いが深いから、あれは人のことでしょうとなる。

この後生の一大事というのは全人類が絶対逃げることができない。

突如おこる。

 

なんの言い訳も待った無しにやってくる。

そういう問題なのにも関わらず、全然自分のことと思っていない。

全然眼中にない。

 

眼中になりから、今しばらく目の前の仕事どうしたらいいか。

今しばらくどうやって楽しむか。

肉体を喜ばす。

そういうようなことにしか関心があつまってない。

全然関心があつまっていない後生の一大事はとうの昔から自分に迫ってきている。

そういうのに全然慌てもびっくりもしない人達に説かれたのが仏教。

 

仏教を学ぶ講座はこちら

 

 

 

 

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2017年05月31日

まけば生え まかねば生えぬ 善し悪しの

まけば生え まかねば生えぬ 善し悪しの

人は知らねど たねは正直

 

こういうお歌もある。

初めてきいたとき、いい歌とも思った。

こちらの方はもしあなたがキュウリの種をまいたらキュウリが生えてくる。

まいてなかったら生えてこない。

 

よい種をまいたらよい結果が帰ってくる。悪い種をまいたら悪い結果が帰ってくる。

人間は人の知らないところでよい種まきをすると、

どうか評価してもらいたいという気持ちになる。

その評価が十分でないと、私だけ・・・とふてくされる。

しかし、仮に人が評価しなくても種は正直に生えてくるから、

今は結果が来なくても必ず来る。

 

仮に悪い種をまいているがまだ結果がこないという人は、必ずやってくる。

普通、そうなると得したと思う。

あくどくて強いやつ。

 

そういうのにあこがれるかもしれないが、それは非常に恐ろしい。

悪業力も不滅だから必ず結果はやってくる。

だけど、あなたがよいことをしているのに

その結果がなかなかやってこないというのは喜ぶべきことなんだということ。

それは貯金をしているようなもの。

後で貯金が利子つきで帰ってくる。

 

因果応報

 

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2017年05月30日

少年犯罪

少年犯罪が世間を賑わせるようになって久しい。
今年も17歳少年のバスジャック事件など、
数多くの恐ろしい事件がありました。

 

少年法の改正をどうするか、という問題などは
国会で議論されるところとなっています。

 

そういえば、そんな話題が一層クローズアップされたのは
神戸での凶悪事件が先駆けでした。
サカキバラセイト と名乗るわずか14歳の少年が
顔見知りの小学生を殺害し、学校の校門に置いた。

 

そのニュースに、日本中が震撼したのはついこの間の事のようです。

さて、そのとき「サカキバラ」の言った言葉で、
巷で有名になった言葉「透明な存在の僕」
そして、本人のやった残虐非道な行為はともかく、
当時、多くの若者達がまた、この言葉に共感を覚えたそうです。

 

 

「透明な存在」とは、言い換えれば
「自分の存在が薄っぺら」
「居場所がない」
「自分がこうして存在している意味がわからない」
「生きている実感がない」
「何の為に生きているのか、分からない」

 

こういう素朴な疑問への問いかけは実に多くの
メディアで取り上げられています。

 

「命は大切です。当たり前のことで分かっているけど理解できない」
「命は地球よりも重いという。しかし不思議とその理由を知らない」

なぜ人の命は大切なのか、あらたまって、聞かれると
ハッキリと答えられない。

 

どうもこれは、子供だけの問題ではないようです。
・広島校長先生の自殺
・医師のぶちあたる矛盾(延命治療をしても、また自殺する患者)
・臓器移植の問題
・地球より重い、と言いながら戦争では雑魚のように


よく聞かれる街角の声、キャンパスの声
「何かもの足りない」
「どこか空しい」
「こんなことしていていいのだろうか」
「何かもっと、大事なことをしなければならないのでは」

そういう漠然とした不安を抱えている人は少なくない。
その不安はどこから来るのか?

結局何をするために、生きているのか、分からない
だから、存在感が希薄、薄っぺら。不安

 

例えば、
今日、この部屋に誰かから、頼まれてやってきた。
でも、何したらいいのか分からない、
とにかく居ろ、と言われる。
そんな状態では、居心地悪くない?

 

次から次へといろんな人がやってきて何か、作業をしていく。
自分だけ、何しにきたのか、分からない。
不安になりませんか?

まあ、時間をつぶそう、ということでマンガ読み始める。
でもふと気がつくと
「あれっ、こんなことしていていいのかなあ」
何か不安じゃない?
一時的に気が紛れても、何か落ち着かない。

・学校に来たけど、何が目的か分からないようなもの
・役者がとりあえず舞台にあがった、だけど何していいか分からない

 

芥川「狂人の主催したオリンピック」
とにかくみんな走っている、しかしどこに向かってか?
ゴールのないマラソン、そんなマラソンを
心から楽しめますか?

 

人生の目的を知ることが大事、必要。
それがわからないまま、ただ時の流れに身を任せると悲劇。

 

 

何しにきたか、分からないまま、時間だけがドンドン過ぎて行く
気がついたらジ・エンド。

さっきのたとえ、この部屋に入った、何しにきたか分からん、
時間がたって、もう出て行かなければならない、
そうなったら、何か心残りがないか。
もう出て行く時間だから、と言わても後味悪くないですか?


西洋の哲学者で知られるパスカルは
「あと1週間の命となってでもしなければならないことを
一生かけてでもしなければならない」
と言っています。

 

あと1週間の命となってでもしなければならないこと
それは何でしょう?
あと1週間の命で、レポート書きます?バイトしますか?
バイトでどんなにお金を貯めても、
集めたお金を全部置いて、たった一人で死んでいかなければなりません。

 

そんなこと、本当にあと1週間になってから考えますよ、と
いう人がいます。
でも、いつ「あと1週間になるか」予想できます?
ひょっとしたら、もうあと命の期限は1週間を切っていつかもしれない。

本当にあと1週間となってからでは手遅れかもしれません。
夏休みに入って、まず宿題片付けよう、という人いない。

 

みな、こんなもの1週間もあれば出来るだろう、と
たかをくくって、後回し、先送りにする。


そのうちいつか、と思いながら、結局、夏の終りが来る。
そして、しまった!と。

どういつかやらなければならないことなら、
早くに片付けてしまった方が、絶対に得でしょ。

 

この「なぜ生きるか」という事がハッキリしてこそ
心から楽しく、充実した毎日になるんです。

 

この「なぜ生きるか」という

本当の生きる目的については、

仏教に教えられています。

 

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2017年05月29日

後生の一大事とは?

一大事ということを蓮如上人はどのように仰有っているか?

この一流のうちに於て確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。

かくの如くの輩はいかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。

一大事というはこれなり。
蓮如上人『御文章』)

 

私達が一大事というのはどんな時か?
私達は、例えば会社が傾きかけた時に一大事と言う。

また、生き残るかどうかという時に一大事と言う。

 

ところが蓮如上人は

この一流のうちに於て確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。

かくの如くの輩はいかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。

一大事というはこれなり。

と仰有っている。

 

「この一流」とは親鸞聖人の教え。

親鸞聖人の教えを聞いている人の中において、

信心を獲得している人とまだしていない人がいると分けられている。

 

このことについて蓮如上人は、
この御正忌のうちに参詣をいたし、志を運び報恩謝徳をなさんと思いて、聖
人の御前に参らん人の中に於て、信心を獲得せしめたる人もあるべし、また不
信心の輩もあるべし、以ての外の大事なり

と仰有っている。

 

報恩講に参詣をして、今日だけはということで参詣して
志を運びとは御報謝のこと、

「どうか仏法のために使ってください」

と言って、
親鸞聖人の教えを聞きに来た人の中に於て

信心を獲得している人とまだ不信心の輩もある。
一大事というはこれなり、と仰有っている。

 

人を色々と分けることができる、

例えば男と女、

 

蓮如上人は信心獲得している人としていない人に分けられている、

これは一番ハッキリさせなければならないことである。

 

かくの如くの輩」とは不信心の輩のこと。
親鸞聖人が同じように分けられている御和讃のお言葉、

 

専修の人をほむるには 千無一失とおしえたり

雑修の人をきらうには 万不一生とのべたまう

 

専修の人とは信心獲得している人のこと。
雑という言葉は自力を表し、専という言葉は他力を表す。

しかし例外もある。
真に知んぬ。専修にして而して雑心なる者は大慶喜心を獲ず
専修であるが自力の者もあるということで例外もある。

しかしほとんどの場合は、専修といったら信心獲得している人のことである。

 

専修の人は千無一失とほめられ、

雑修の人は万不一生と嫌われる。

 

千無一失とは、千人いても一人も失敗することなく、

極楽に往生する事ができるということ。

千人いたらいろんな人がいるが一人も失敗する事がない。

 

万不一生とは、一万人いても一人も極楽に生れられる人はいないということ。

 

このことを蓮如上人は
一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、

みな浄土に往生すべき事更に疑なし
と仰有っている。

 

では、私たちが信心獲得せずに死んだらどうなるか、

これについて仏教では後生の一大事があると説かれている。

後生の一大事とはどういうことか?

 

私たちの行く先が後生、一日生きたということは

一日後生に近づいたということ。

万人が行くところが後生。

 

今年もあっという間に終わってしまう。

日の経つのが瞬く間に速い。

段々時間の経つのが速く感じる。

10代は各駅、

20代は準急、

30代は急行、

40代は特急、

50代は新幹線のようなものと言った人もいる。

 

大学生でも同じで1年生よりも2年生と速く感じる。

一日一日と止まることなく後生に近づいている。

一番大事な行く先が二つにキッパリと分かれる。

 

親鸞聖人、正信偈のなかにも
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
と仰有っている。

執心とは信心のこと、自力の信心と他力の信心の二つがあると分けられている。

他力の信心は深い、深信・絶対を表し、自力の信心は浅い、相対を表す。

 

専修の人は報土往生できる、

雑修の人は例え一生懸命修行しても化土にしか往生する事ができない。

専修の人が因、報土往生が果。

信心獲得は難しそうだから化土でもいいというが、
蓮如上人は

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」

と仰有っている。


信心獲得していない人は必堕無間ですよ、と釈尊は説かれている。

無間地獄に堕ちなければならない。

 

全人類はこの二つに分かれる、

専修の人は報土往生、

雑修の人は必堕無間。

 

地獄とは中国の言葉、インドではナラカ、

日本語では苦しみの世界、休まる間のない苦しみの世界

私たちはその日が充実していても、

だらだら過ごしていても間違いなく後生に近づいている。

 

私たちのXデーは21世紀のなかに必ずある
この日が来るという事に覚悟を決めなければならないが、

その後どうなるかが問題、

一大事は死ぬ時はじまるのではない、いまから一大事である。

私たちの後生の一大事とはどんなことか。

 

人間生れて生きているからには死ななければならない

死んだら後生という事は分かっている、

しかしまだまだ先だと思っている。

 

今はやらなければならないことがあると言う人がいる。

 

しかし

「後の世と 聞けば遠きに似たれども 知らずや今日もその日なるらん」

と言った人もいる。

 

後の世とは後生の事で私達はまだまだ先の事とだと思っている。

しかし「今日がその日であったか」というときが必ずある。

 

オリンピックももお来て、終わってしまう。

まだまだ先と言う事も直ぐにやって来てしまう。

後生も「来ちゃった」という時が必ずやってくる

死というのは突然やってくる。

 

「死とはきれいな部屋の中に土足で駆け上がってくる無法者のようなものである」

と言った人もいる。

 

私たちの生活ではこの様な事はないが、

死は突然やってくる、私たちの都合、お構いなしにやってくる、無常というは無情なり。

理由を言うひまなんて少しもない、

お金はいくらでも出すからと交渉するひまもない。

 

そのとき初めて専修と雑修が問題になる。

親鸞聖人は今死んだらどうなるかということに驚かれて仏法を求められた。

藤原範綱と親鸞聖人の会話「人は死ねばどこに行くのでしょうか」

この場面で、親鸞聖人と範綱の後生に対するギャップが描かれている。

必ずやってくるのが死、人が死んだらどうなるか、

これが親鸞聖人の出家の原点である。

 

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2017年05月28日

生きることを泳ぐことにたとえてみた

私たちは、苦しい人生で、何か当てになるものはないか、

人生を海にたとえると、

生きていくということは、

泳いで行く、ということ。

 

何か支えになるものはないかと思って泳いでいる。

 

見渡す限り水平線。

そこで丸太があったら、必ずそこに向かって泳いでいきますよ。

 

とりあえずあそこに泳いでいって見よう。

そしてつかまろうとしますよね。

 

そして、やれやれとつかまっている。

しかしその丸太ん棒、いつまでもつかまっておれるのか、というと、

クリーっとひっくり返って裏切る。

 

これは生き甲斐。

 

生き甲斐と思われるものにどんなものがあるか。
旅行。
貯金。これが生き甲斐の人多いそうですよ。

60歳以上の人が持っているお金、何千万、すごいお金持ってる。

最初は何かに使おうと思っているのに、

だんだん額が大きくなると、手が出せなくなる。
そして使えないまま死んでいく。

 

子供・家族。

昔は家族を犠牲にして仕事。

今は仕事を犠牲にして家族という感じ。

 

酒。繁華街に夜行くと、みんな酒ばっかり。
仕事。
趣味。
スポーツ観戦。
コレクション。

 

こういうのにみんな捕まっている。しがみついて泳いでいる。

 

これらもの生き甲斐でなくなってしまう。

楽しめなくなってしまうということがある。

丸太ん棒に裏切られる。

 

色々なパターンあると思いますけど。

これが自分の大事なものだ、と思っていたのが、

ある時突然関心がなくなってしまうことありませんか。


仕事。

山一証券、倒産するときに、社長が土下座、惨めな相ですみません。

 

ところがあの社長、中小企業の一社員として生き生きとやっている。

この会社は俺が守る、しかし倒産して苦しんだ、

今度は別の丸太に捕まっている。

 

絶対にこれ放すまいとしっかり掴んでいるものあると思いますが、

後から思うと何であんなものに。

 

いつまでも掴んでいたいと思うんだけど、それが続かなくなってしまう。

秀吉は夢のまた夢と言っている。

 

それが火宅無常の世界ということ。
万のこと、ということは、例外はない。

 

「真実有ること無し」有ること無いということは、どういう意味。

真実無し、とどう違うか。

 

有ること無し、といったら金輪際無いということ。

真実、というのは、続くもの。

それが有ること無し。

それが難度海の人生。丸太を掴んでは裏切られを繰り返す、これが難度海の人生。

 

これからも掴んでは裏ぎられ、

それをずっと繰り返す。

 

家庭悲劇続発の現代。

家庭悲劇と言えば、双子山親方の家、悲惨。

一昔前だったら、日本で一番ハッピーな家族。

一家に二人の横綱。外にも優秀な力士。

二人の子にも綺麗な奥さん。みんなの愚痴をかうような。

 

ところが今は女将さんが不倫に走ったとか。
私たちああいうの見ても、私たちああいうの関係ないと思う。

確かに家庭ではないかもしれないが、他のことで同じようなことになる。


苦しみ悩みの次々やってくる人生の荒海では、

私たちが頼りにしているものに次々と裏切られ、

別のものに捕まる。

 

泳いで行く途中に、一息ついてもまた裏切られる。
すがりついていた丸太に裏切られると、塩水飲んで苦しむ。

 

あなたは海で塩水飲んだこと有りますか。

もう二度とやりたくない、と思うようなこと。

それを何度も繰り返さなくてはならない。


ところが、丸太や板きれではなく、

絶対裏切らない大きな船が、

仏教に教えられている。

 

それは、趣味や生き甲斐の丸太や板きれではなく、

人生の目的。

 

仏教はこちらのサイトで学べる

 

 

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2017年05月27日

人生の目的達成の喜び

親鸞聖人は人生の目的を教えられています。


親鸞聖人は、人生の目的を果たされ、その喜びを叫んでおられます。
その喜びから書かずにおれなかったのが主著の『教行信証』です。
世間のことでも、大きな目的を果たし遂げたなら、大変な喜びです。
まして、人生の目的、果たされた親鸞聖人、いかに喜びを表現しておられるか。

 

そこで、親鸞聖人が、

『教行信証』を書かれずにおれなかった慶びを述べられているお言葉

 

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、

遇い難くして今遇うことを得たり。聞き難くしてすでに聞くこと得たり。

真宗の教・行・証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。

ここを以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり。(教行信証総序)


 「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや

親鸞聖人は御自身のことを、愚禿釈の親鸞とおっしゃっています。

親鸞聖人は、御自身のお名前を出される時は、特に、

知ってもらいたいとの御心で書かれているところです。


たとえば、

更に親鸞珍しき法をも弘めず

如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり

というお言葉などそうです。

 

隣のおじさんのことでない。向いの嫁のことでない。

この親鸞のことだ。
慶ばしきかなや」親鸞聖人喜んでおられます。

何を、親鸞聖人は喜んでおられるのか。
西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり。
聞き難くしてすでに聞くことを得たり

とおっしゃっています。

 

西蕃・月氏・東夏とは、インド、中国のこと、

聖典とは、仏教の書物、教え
日域とは、日本、

仏教は、インド、中国、日本と伝わってきました。

三国流転と言います。

その仏教の教え、釈尊、

その教えをそのまま伝えられた七高僧の教え、なかなか聞き難い、

遇い難い真実の教えです。

 

その、真実に今あえた。

ここで、「聞く」とか、「遇えた」というのは、

真実の仏教によって救い取られたことをいいます。

その救われられた慶びをおっしゃっています。
真宗の教・行・証を敬信して

真宗とは他力のこと、

阿弥陀如来のお力をここで真宗とおっしゃっています。

他力の教行証・

他力の教とは、阿弥陀仏の本願のことです。

他力の行とは、阿弥陀仏の本願にすくいとられたやらずにおれない行ということ、

また、名号のことです。他力の念仏ともいえます。
他力の証とは、阿弥陀仏の本願にすくいとられて、

ひといききれた後、極楽参り間違いない、極楽に生れ、阿弥陀仏と同じ仏に生れること。

敬信して」自分の力でない。

阿弥陀仏の本願によって、他力によってですから、敬信せずにおれない。
特に如来の恩徳の深きことを知んぬ

阿弥陀仏からうけし御恩の深きことをしらされた。
ここを以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり
阿弥陀仏の本願にすくいとられた慶びの表現。

 

 教行信証信巻
極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲るなり
もろもろの聖尊とは、十方諸仏のこと、大宇宙の仏かたがみな褒め称えられる。

 

南無阿弥陀仏をとなうれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまうなり

(現世利益和讃)


いかに、すくいとられた世界がすばらしいか。
人生の目的がいかに崇高であるか。

知らされます。

 

人生には、目的があることを親鸞聖人が、はっきりとおっしゃり、

救われたらどうなるか。教えて下されています。

 

仏教ウェブ入門講座

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2017年05月26日

越えなばと思いし峰に来てみれば なお行く先は山路なりけり

越えなばと思いし峰に来てみれば なお行く先は山路なりけり

という歌があります。

 

越えたら楽になれる、あの峰さえ辿り着けば、

と思って山を越える、しかし、越えても越えても次の峰が待っている。

 

小学校のとき、みんなで集団登校、集団下校。
黒いランドセルに、なぜか黄色い「交通安全」マーク入りのカバー、
いい加減、ガキじゃあるめえし…、と思った。

 

早く中学校に行きたい、そうすれば、自電車通学。

中学校入った、ランドセルでない、普通の鞄。

 

しかし、中学から制服が義務、はじめは一着しかない。
学校は毎日、洗濯なんか出来ない…。
またあこがれの自転車通学、
しかしこれが雨の日なんか大変、傘差し運転は禁止、
ごわごわした雨合羽を着て、学校についたらムレムレ。
早く高校に行きたい。

 

高校に入る。
今度は、北に向かって自転車30分、関東は空っ風で有名。
3日通って、嫌になった。毎日こんな道で行くのか…。

越えても越えても、なかなか、行きつくところに
行きついた、という満足がない。


みんな、あの峰まで登ったら楽になれる、幸せになれる、

と思うんですね。
しかし、なかなかそうならない、これはどうしてか?

その原因がハッキリしないと一生こんな調子で終ってしまう。

この原因はどこにあるのか、こういうことを
仏教はテーマとしている。

 

それについて、

みんなが「何々したい」と求めている幸せは、
相対の幸福だから、と教えられています。

 

 

ちょっと聞きなれない言葉かもしれないけれど、
「相対の幸福」とは
比べなければ喜べない幸せってこと。

 

分かりやすく言うと、大学入るのでも、
倍率の高い大学合格できたら嬉しいでしょ。
1.01倍の大学、合格してもたいしたことない。
それは、他の人と比べて喜んでいる。

比べる対象は、他の人だけでない。

 

これは見落としがちなんだけど、自分の過去、これと比べる。

同じ100万円もらうのでも、
億万長者になってもらうのと、今もらうのと、喜びが違う。

 

今までもったことがない、という過去の人にとって喜べる。

ところが100万、手に入れると、100万円持っている
という幸せな歴史が始まるんです。
比べて喜ぼうとする過去が変わりますから、
比べて喜べる現在の幸福感も変わってくる。

 

あまり嬉しくなくなってくる。
平たく言うと飽きてくる。

あんなに楽しかったスーパーマリオ、
今毎日熱中している人ありますか?
プログラムが古くなったのでない、ゲームが遅くなったのでない、
マリオは相変わらず元気に飛びはねて、ブロックに果敢に体当たり
していくんですが、それを楽しいと感じる心がない。

 

幸せとは相対なんです。

それでは、どこまで行っても、生きてきてよかった、という
ことにならないでしょ。

何のために、山また山を越えて生きていくのか、
どこまで行けばいいのか、その答えを哲学では、
絶対の幸福 と言います。

 

誰と比べる必要もない、一人いて喜べる幸せ。
比べても比べなくても大安心大満足 ということ。

仏教に教えられています。

 

仏教ウェブ入門講座

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タグ:歴史

2017年05月25日

「未来日記」本当の生きる意味

「未来日記」といえば、
「ウンナンのホントコ」というテレビ番組の看板企画。


もはや、この「未来日記」なるコーナーは、
社会現象といっていいほどの大ヒットとなっています。

 

 

サザンの「tunami」、福山の「桜坂」
ミリオンヒットを記録したこれらの曲も、
このコーナーのテーマソングでありました。

 

「ドラマみたいに切ない恋をしてみたい」と
夢見る男女を一般から公募、
主人公に選ばれた、互いに見知らぬ男女2人は、
「未来日記」という台本を読み、そのシナリオとおりに
擬似恋愛をしてゆく、というものです。

 

さて、このコーナー、最近は一人立ちして
映画にもなるそうな。

 

この未来日記には、今の自分と全く別人の
もう一人の自分の未来、そのシナリオが記されている、

ってわけです。

 

人生も30歳を過ぎると結構、先が見えたりする。
このまま今の彼女と結婚して、子供が出来て
40歳で課長、50でよくても部長とまりか…。
マイホームくらいは欲しいな…。

 

退職までローンを払って、60歳になったら、老人ホームか。

若いときは「無限の可能性」なんて言ってても
文学部英文学科に入った人が、今から医者になろう、

と頑張っても、それは非常に難しい話。

 

しばしば私達は、人生がやり直せたら、と考えます。

 

あのときの自分に戻って、もう一度やり直せたら。

そういえば、井上揚水のデビュー曲は
「人生が二度有れば」

 

 

今とは違ったシナリオ、あこがれます。

 

しかし、実際には、不可能です。

泣いても笑っても人生は一度しかない。


だからこそ、本当に自分の進むべき道は、どの方角なのか、
よくよく考えておく必要があるのではないでしょうか?

40、50になって、もう一度大学時代に…
と願ってもそれは無理な話です。

 

そのような後悔を残さぬよう、
「わが人生かけて悔いないものは何か」

本当の生きる目的を知ることが重要です。

その、本当の人生の目的を果たしてこそ、

生きる意味があるのです。

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