親鸞聖人は人生の目的を教えられています。
親鸞聖人は、人生の目的を果たされ、その喜びを叫んでおられます。
その喜びから書かずにおれなかったのが主著の『教行信証』です。
世間のことでも、大きな目的を果たし遂げたなら、大変な喜びです。
まして、人生の目的、果たされた親鸞聖人、いかに喜びを表現しておられるか。
そこで、親鸞聖人が、
『教行信証』を書かれずにおれなかった慶びを述べられているお言葉
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、
遇い難くして今遇うことを得たり。聞き難くしてすでに聞くこと得たり。
真宗の教・行・証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここを以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり。(教行信証総序)
「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや」
親鸞聖人は御自身のことを、愚禿釈の親鸞とおっしゃっています。
親鸞聖人は、御自身のお名前を出される時は、特に、
知ってもらいたいとの御心で書かれているところです。
たとえば、
「更に親鸞珍しき法をも弘めず
如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
というお言葉などそうです。
隣のおじさんのことでない。向いの嫁のことでない。
この親鸞のことだ。
「慶ばしきかなや」親鸞聖人喜んでおられます。
何を、親鸞聖人は喜んでおられるのか。
「西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり。
聞き難くしてすでに聞くことを得たり」
とおっしゃっています。
西蕃・月氏・東夏とは、インド、中国のこと、
聖典とは、仏教の書物、教え
日域とは、日本、
仏教は、インド、中国、日本と伝わってきました。
三国流転と言います。
その仏教の教え、釈尊、
その教えをそのまま伝えられた七高僧の教え、なかなか聞き難い、
遇い難い真実の教えです。
その、真実に今あえた。
ここで、「聞く」とか、「遇えた」というのは、
真実の仏教によって救い取られたことをいいます。
その救われられた慶びをおっしゃっています。
「真宗の教・行・証を敬信して」
真宗とは他力のこと、
阿弥陀如来のお力をここで真宗とおっしゃっています。
他力の教行証・
他力の教とは、阿弥陀仏の本願のことです。
他力の行とは、阿弥陀仏の本願にすくいとられたやらずにおれない行ということ、
また、名号のことです。他力の念仏ともいえます。
他力の証とは、阿弥陀仏の本願にすくいとられて、
ひといききれた後、極楽参り間違いない、極楽に生れ、阿弥陀仏と同じ仏に生れること。
「敬信して」自分の力でない。
阿弥陀仏の本願によって、他力によってですから、敬信せずにおれない。
「特に如来の恩徳の深きことを知んぬ」
阿弥陀仏からうけし御恩の深きことをしらされた。
「ここを以て聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるなり」
阿弥陀仏の本願にすくいとられた慶びの表現。
教行信証信巻
「極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲るなり」
もろもろの聖尊とは、十方諸仏のこと、大宇宙の仏かたがみな褒め称えられる。
南無阿弥陀仏をとなうれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまうなり
(現世利益和讃)
いかに、すくいとられた世界がすばらしいか。
人生の目的がいかに崇高であるか。
知らされます。
人生には、目的があることを親鸞聖人が、はっきりとおっしゃり、
救われたらどうなるか。教えて下されています。
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