「越えなばと思いし峰に来てみれば なお行く先は山路なりけり」
2017年05月26日
越えなばと思いし峰に来てみれば なお行く先は山路なりけり
という歌があります。
越えたら楽になれる、あの峰さえ辿り着けば、
と思って山を越える、しかし、越えても越えても次の峰が待っている。
小学校のとき、みんなで集団登校、集団下校。
黒いランドセルに、なぜか黄色い「交通安全」マーク入りのカバー、
いい加減、ガキじゃあるめえし…、と思った。
早く中学校に行きたい、そうすれば、自電車通学。
中学校入った、ランドセルでない、普通の鞄。
しかし、中学から制服が義務、はじめは一着しかない。
学校は毎日、洗濯なんか出来ない…。
またあこがれの自転車通学、
しかしこれが雨の日なんか大変、傘差し運転は禁止、
ごわごわした雨合羽を着て、学校についたらムレムレ。
早く高校に行きたい。
高校に入る。
今度は、北に向かって自転車30分、関東は空っ風で有名。
3日通って、嫌になった。毎日こんな道で行くのか…。
越えても越えても、なかなか、行きつくところに
行きついた、という満足がない。
みんな、あの峰まで登ったら楽になれる、幸せになれる、
と思うんですね。
しかし、なかなかそうならない、これはどうしてか?
その原因がハッキリしないと一生こんな調子で終ってしまう。
この原因はどこにあるのか、こういうことを
仏教はテーマとしている。
それについて、
みんなが「何々したい」と求めている幸せは、
相対の幸福だから、と教えられています。
ちょっと聞きなれない言葉かもしれないけれど、
「相対の幸福」とは
比べなければ喜べない幸せってこと。
分かりやすく言うと、大学入るのでも、
倍率の高い大学合格できたら嬉しいでしょ。
1.01倍の大学、合格してもたいしたことない。
それは、他の人と比べて喜んでいる。
比べる対象は、他の人だけでない。
これは見落としがちなんだけど、自分の過去、これと比べる。
同じ100万円もらうのでも、
億万長者になってもらうのと、今もらうのと、喜びが違う。
今までもったことがない、という過去の人にとって喜べる。
ところが100万、手に入れると、100万円持っている
という幸せな歴史が始まるんです。
比べて喜ぼうとする過去が変わりますから、
比べて喜べる現在の幸福感も変わってくる。
あまり嬉しくなくなってくる。
平たく言うと飽きてくる。
あんなに楽しかったスーパーマリオ、
今毎日熱中している人ありますか?
プログラムが古くなったのでない、ゲームが遅くなったのでない、
マリオは相変わらず元気に飛びはねて、ブロックに果敢に体当たり
していくんですが、それを楽しいと感じる心がない。
幸せとは相対なんです。
それでは、どこまで行っても、生きてきてよかった、という
ことにならないでしょ。
何のために、山また山を越えて生きていくのか、
どこまで行けばいいのか、その答えを哲学では、
絶対の幸福 と言います。
誰と比べる必要もない、一人いて喜べる幸せ。
比べても比べなくても大安心大満足 ということ。
仏教に教えられています。
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