一大事ということを蓮如上人はどのように仰有っているか?
この一流のうちに於て確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩はいかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。
私達が一大事というのはどんな時か?
私達は、例えば会社が傾きかけた時に一大事と言う。
また、生き残るかどうかという時に一大事と言う。
ところが蓮如上人は
この一流のうちに於て確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。
かくの如くの輩はいかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。
一大事というはこれなり。
と仰有っている。
「この一流」とは親鸞聖人の教え。
親鸞聖人の教えを聞いている人の中において、
信心を獲得している人とまだしていない人がいると分けられている。
このことについて蓮如上人は、
「この御正忌のうちに参詣をいたし、志を運び報恩謝徳をなさんと思いて、聖
人の御前に参らん人の中に於て、信心を獲得せしめたる人もあるべし、また不
信心の輩もあるべし、以ての外の大事なり」
と仰有っている。
報恩講に参詣をして、今日だけはということで参詣して
志を運びとは御報謝のこと、
「どうか仏法のために使ってください」
と言って、
親鸞聖人の教えを聞きに来た人の中に於て
信心を獲得している人とまだ不信心の輩もある。
一大事というはこれなり、と仰有っている。
人を色々と分けることができる、
例えば男と女、
蓮如上人は信心獲得している人としていない人に分けられている、
これは一番ハッキリさせなければならないことである。
「かくの如くの輩」とは不信心の輩のこと。
親鸞聖人が同じように分けられている御和讃のお言葉、
専修の人をほむるには 千無一失とおしえたり
雑修の人をきらうには 万不一生とのべたまう
専修の人とは信心獲得している人のこと。
雑という言葉は自力を表し、専という言葉は他力を表す。
しかし例外もある。
「真に知んぬ。専修にして而して雑心なる者は大慶喜心を獲ず」
専修であるが自力の者もあるということで例外もある。
しかしほとんどの場合は、専修といったら信心獲得している人のことである。
専修の人は千無一失とほめられ、
雑修の人は万不一生と嫌われる。
千無一失とは、千人いても一人も失敗することなく、
極楽に往生する事ができるということ。
千人いたらいろんな人がいるが一人も失敗する事がない。
万不一生とは、一万人いても一人も極楽に生れられる人はいないということ。
このことを蓮如上人は
「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、
みな浄土に往生すべき事更に疑なし」
と仰有っている。
では、私たちが信心獲得せずに死んだらどうなるか、
これについて仏教では後生の一大事があると説かれている。
後生の一大事とはどういうことか?
私たちの行く先が後生、一日生きたということは
一日後生に近づいたということ。
万人が行くところが後生。
今年もあっという間に終わってしまう。
日の経つのが瞬く間に速い。
段々時間の経つのが速く感じる。
10代は各駅、
20代は準急、
30代は急行、
40代は特急、
50代は新幹線のようなものと言った人もいる。
大学生でも同じで1年生よりも2年生と速く感じる。
一日一日と止まることなく後生に近づいている。
一番大事な行く先が二つにキッパリと分かれる。
親鸞聖人、正信偈のなかにも
「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」
と仰有っている。
執心とは信心のこと、自力の信心と他力の信心の二つがあると分けられている。
他力の信心は深い、深信・絶対を表し、自力の信心は浅い、相対を表す。
専修の人は報土往生できる、
雑修の人は例え一生懸命修行しても化土にしか往生する事ができない。
専修の人が因、報土往生が果。
信心獲得は難しそうだから化土でもいいというが、
蓮如上人は
「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」
と仰有っている。
信心獲得していない人は必堕無間ですよ、と釈尊は説かれている。
無間地獄に堕ちなければならない。
全人類はこの二つに分かれる、
専修の人は報土往生、
雑修の人は必堕無間。
地獄とは中国の言葉、インドではナラカ、
日本語では苦しみの世界、休まる間のない苦しみの世界
私たちはその日が充実していても、
だらだら過ごしていても間違いなく後生に近づいている。
私たちのXデーは21世紀のなかに必ずある
この日が来るという事に覚悟を決めなければならないが、
その後どうなるかが問題、
一大事は死ぬ時はじまるのではない、いまから一大事である。
私たちの後生の一大事とはどんなことか。
人間生れて生きているからには死ななければならない
死んだら後生という事は分かっている、
しかしまだまだ先だと思っている。
今はやらなければならないことがあると言う人がいる。
しかし
「後の世と 聞けば遠きに似たれども 知らずや今日もその日なるらん」
と言った人もいる。
後の世とは後生の事で私達はまだまだ先の事とだと思っている。
しかし「今日がその日であったか」というときが必ずある。
オリンピックももお来て、終わってしまう。
まだまだ先と言う事も直ぐにやって来てしまう。
後生も「来ちゃった」という時が必ずやってくる
死というのは突然やってくる。
「死とはきれいな部屋の中に土足で駆け上がってくる無法者のようなものである」
と言った人もいる。
私たちの生活ではこの様な事はないが、
死は突然やってくる、私たちの都合、お構いなしにやってくる、無常というは無情なり。
理由を言うひまなんて少しもない、
お金はいくらでも出すからと交渉するひまもない。
そのとき初めて専修と雑修が問題になる。
親鸞聖人は今死んだらどうなるかということに驚かれて仏法を求められた。
藤原範綱と親鸞聖人の会話「人は死ねばどこに行くのでしょうか」
この場面で、親鸞聖人と範綱の後生に対するギャップが描かれている。
必ずやってくるのが死、人が死んだらどうなるか、
これが親鸞聖人の出家の原点である。
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