「後生の一大事、命あらん限り、油断あるまじく候」
ごく当然の当たり前のことを言われているが、注意散漫でいる。
こういうことで、油断をするなといわれていた。
蓮如上人が御文章の中で油断をするなとおっしゃっている
道宗の「後生の一大事、命あらん限り、油断あるまじく候」
と同じ意味のところ。
御文章1帖目6通、睡眠。
そもそも当年の夏このごろは、なにとやらん、ことのほか睡眠におかされてねぶたく候うは、いかんと、案じ候えば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候う。まことにもってあじきなく、名殘おしくこそ候え。さりながら、今日までも、往生の期もいまやきたらんと、油断なくそのかまえは候う。それにつけても、この在所において、已後までも信心決定するひとの退転なきようにもそうらえかしと、念願のみ昼夜不断におもうばかりなり。この分にては、往生つかまつり候うとも、いまは子細なく候うべきに、それにつけても面々の心中も、ことのほか油断どもにてこそはそうらえ。命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候う。よろずにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じそうらえ。明日もしらぬいのちにてこそ候うに、なにごとをもうすもいのちおわりそうらわば、いたずらごとにてあるべく候う。いのちのうちに、不審もとくとくはれられそうらわでは、さだめて後悔のみにてそうらわんずるぞ。御こころえあるべく候う。あなかしこあなかしこ。
この障子のそなたの人々のかたへまいらせ候う。のちの年にとりいだして御覧候え。
文明5年卯月25日書之
文明5年というのは、蓮如上人はおいくつくらいか。
蓮如上人がすっかりお歳を召されていることが分かる。
御文章は、大変お忙しいところ書かれたもの。
一番お若い頃に書かれたものが1帖目1通。
このときが57歳。
当時生きている、そして説法されている、
またお手紙を書かれているということは考えられなかった。
平均寿命40歳くらい。とても考えられないこと。
6通は59歳くらいと思われる。
いつ御説法がお休みになられてもおかしくない。
このあと、28年間書かれている。
4帖目15通は85歳。このあと、御布教も続けられた。
ご苦労も多かった。大変お疲れでいらした。
43歳のとき、法主の座を継承されて、東奔西走されて、わらじかけで、
3頭の馬を乗りまわされて御布教された。
目の前に人がいるなら、叫ばれるものの、御説法が終わると
目の前に見ることができない人に、筆にまかせて、
言の葉に乗せて送ろうとされた。
門徒の人に当てて書かれたお手紙が御文章。
最初におっしゃったお言葉。
そもそも当年の夏このごろは、なにとやらん、ことのほか睡眠におかされてねぶたく候うは、
いかんと、案じ候えば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候う。
今年の夏が大変暑い。体力がばてて、すぐに眠たくなる。夏になると眠たく
なる。年寄れば行歩も叶わず眠たくもあるなり、とも言われている。
この蓮如も年をとって、あとわずかで死んでいかねばならない。人生の終わ
りが刻一刻と近づいている。人間、一年長く生きているときは、死に近づいた
ということ。年をとったということは、死に近づいたということ。
蓮如上人という方は、命のあるうちに、後生の一大事の解決をされた。
極楽に向かって近づいている。
信心決定されてから、極楽往生を遂げる間、あなたがた、滝壷に向かっている船に乗っているんだぞ。
油断するな油断するな。
後生の一大事を解決するまで油断するなと精一杯おっしゃっているのが次。
「まことにもってあぢきなく、名残惜しく候へ」
仏教を聞いているのも続かない。
自分も説法に出れなくなる。一足先に後生へと旅立って行く。
この蓮如がいつ往生の最後の時が来ても、悔いを残さないように、
いつ死んでも、燃えかすのないよう、精一杯話をしようと、
油断のないように蓮如はやってきた。
さりながら、今日までも、往生の期もいまやきたらんと、油断なくそのかまえは候う。
どうかして、この後生の一大事があるから、早く信心決定してもらいたい。
早く救われる身になる人が出てもらいたい。
それにつけても、この在所において、已後までも信心決定するひとの退転なきようにもそうらえかしと、
念願のみ昼夜不断におもうばかりなり。
4帖目15通の最後にも、
存命のうちに皆々信心決定あれかしとおっしゃっている。
御文章書かれるはじめからおっしゃっている。
皆さん油断してはならない。
この分にては、往生つかまつり候うとも、いまは子細なく候うべきに、
それにつけても面々の心中も、ことのほか油断どもにてこそはそうらえ。
命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候う。
他人事でない。あなたのこと。
よろずにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じそうらえ。
明日もしらぬいのちにてこそ候うに、なにごとをもうすもいのちおわりそうらわば、
いたずらごとにてあるべく候う。
仏縁に恵まれた人には、どうか中途半端で終わってもらいたくない。
精一杯この蓮如は説いてきました。
仏法に明日はない。だから日々全力投球せずにおれないのだ。
昨日の説法は今日の辞世、今日の説法は明日の辞世と思っている。
仏縁深く仏法を求める人は、どうか同じ覚悟で精進してもらいたい。
いつも死と隣り合わせで生きている。
昨日聞けたから、今日聞けるとは限らない。
人生いつ最後の時がくるか分からない。そう思うと、皆さんの前に立った時も、
全力投球せずにはおれない。
満身の力を込めて、セーブするわけにはいかない。全力投球であると。
目の前に来られた方の後生がかかっている。
次に御縁がない人がある。
二度と仏法を聞けなくなる時がある。
何とかこの一座で、後生の一大事の解決をしてもらいたい。
同時に善知識も生身の体。
今日私が後生へと旅立っていかないとなると、昨日の説法が辞世の言葉になる。
だけど、私は絶対にこうなるのなら、
あのとき、もっと真剣にやっておけば良かったと後悔したくない。
生きている時は全力で、精一杯後生の一大事を説き切る。
だから同じ覚悟で精進してもらいたい。
蓮如上人もいつ死んでも悔いがないように、
どうか信心決定してもらいたい。
必死でお叫びつづけられた。
いのちのうちに、不審もとくとくはれられそうらわでは、
さだめて後悔のみにてそうらわんずるぞ。
御こころえあるべく候う。