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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2017年05月24日

信の一念の意味

信の一念が肝要である。
では次に信の一念の意味。

 

「信の一念」には二つの意味がある。

 

一つは時尅の一念。これは救われる時、時間です。
それが一念である。アッという間もない短い時間。

 

それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。
「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
教行信証信巻)


もう一つは、信相の一念。
信相とは、信心のすがたということです。
救われた人の、信心のすがた。心の状態。
それが一念である。


二つの意味、この二つをよく知って下さい。

時尅の一念は阿弥陀仏に救われる時間が一念、

それが時尅の一念。

 

信相の一念は救われたときの心のすがた。信心のすがた。

それが一念である。

「一念」と言うは、信心二心無きが故に「一念」と曰う
(教行信証信巻)

 

二心がない。二心とは?
二心とは無明の闇。

 

人生の目的?とてもそんなものわかりませんよ。
生きている間はどうにもなりませんよ。
生きている目的、そんなものどうにもなりませんよ。
そうやって諦めている心が無明の闇。
世界中の人が何のたに生まれて来たのかという

この質問に答えられない。

 

それを無明の闇というんです。

人生に対する大いなる諦め。
『人生の目的』という本を書いた五木寛之さん、
真っ暗な無明の闇を抱えている。
ハッキリしない。もやっとしている。
こっちにしようかあっちにしようか決められないでしょう。
そういう心を二心という。

 

そういう心のなくなった状態を一念という。
無明の闇がなくなった状態を一念という。
それが信相の一念。救われた心のすがた。
その信相の一念が初めて立つのが時尅の一念。

ここからが信相の一念の始まり。

その二つを信の一念という。

信の一念といった場合二つの意味がある。
真実の信心は一念におさまる。

 

その根拠は

「一念」と言うは、信心二心無きが故に「一念」と曰う。

 

無明の闇が晴れた状態。
それが真実の信心。
晴れたときが時尅の一念。
晴れたことが信相の一念。
だからここから先はずっと一念。
時尅の一念は一回だけ。
信相の一念はここから死ぬまでずっと信相の一念です。

そういう違いがあるけどね。
何れもこれは『大無量寿経』の

「信心歓喜乃至一念」の願成就文の一念について
親鸞聖人が仰有ったこと。

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posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2017年05月23日

「一念」とはこれ信楽開発の時尅の極促を顕す

信の一念が肝要

 

『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す。教行信証

 

どなたの御言葉ですか。親鸞聖人の御言葉。

どんな意味?
「一念」というのはあっともすっともぎゃーとも言う間のない、

時尅の極促

 

信楽とは、本願成就文では信心歓喜といわれたもの。
開発する。
一人一人の心の中に大安心大満足という信心の華が開く。
いつ開くのかというと、時尅の極促に開く。

一億分の一秒よりも短い時間。
それを時間の極まりと言う。
何十億分の一秒よりも、何兆分の一秒よりも短い時間。
時間のことです、時尅の極促というのは。

促は極めて速い。
速達の速。
親鸞聖人の時代はメールがないから、時尅の極メール。
電子メールって早いでしょ。ボタンを押したら届くから。
今時速達なんか全然早くない。
日本全国速達で東京に送ったら一日で届くか。

メールならすぐに届く。
親鸞聖人の時代はメールがありませんから、極促、
促すという字が書かれている。アッという間に信心の華が開く。

それが教行信証に書かれている。
信巻です。
教行信証六巻の中で一番大切なのは信巻。
だから教行信証の眼目という。
眼目が信巻。
最も大事なところ。
眼目、これも眼、これも目。
ガンをとばすんじゃないよ。
眼目だ。それが信巻上下二巻なんだね。
この教行信証信巻は本願成就文の解説です。
その中でこの信巻の末、下巻の一番最初に信一念釈がある。

 

あの一念はどう言う意味かと言うことをここで親鸞聖人は書かれている。

 

夫れ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、是れ信楽開発
の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり。

 

こう言うことを親鸞聖人ずばっと書いておられる。

真実の信楽ってなに?

本願成就文に説かれている信心、

それはどんな信心?
真実の信心です。

 

世の中に沢山の宗教があってそれらを信じている沢山の人がいて、

沢山の信心があるが、真実の信心は一念あり、こう仰有っている。

 

真実の信心には、必ず一念と言うことがある。
逆に言うと、一念と言うことのない信心は

真実の信心ではないと言うことです。

 

そういうことだね。

真実の信心には必ず一念がある。

 

一念のない信心は真実の信心ではない。

Aならば必ずBである。ということは、
Bでなければ、Aではない。

 

キリスト教に一念と言うことがあるかな。

ない。

 

イスラム教にあるかな。ない。

 

神道にあかるな。ない。

 

天理教にあるかな。ない。

 

どの宗教に一念が有ると教えているか。

そんな宗教があるか。

 

幸福の科学にあるか。ない。
 

親鸞聖人がここで仰有っていることは、

真実の信心には必ず一念と言うことがある。


何千年経っても古くならない御言葉。

これから一万年経っても通用する言葉。
どこに持っていっても通用する。

 

100年経ったら通用しなくなる言葉ではない。

アメリカに持っていったら通じない言葉ではない。

大宇宙何処に持っていっても真実の信楽に一念有り。

 

この体験のない信心は真実の信心ではない。

真実の信心なら必ず一念を突破した信心。

そこで一念とは信楽開発の時尅の極促をあらわす。

 

アッという間もない一念。

これが仏教の肝要です。

要の中の要です。

 

それを親鸞聖人は教行信証の眼目の信巻の下巻の

一番最初に持ってきておられる。

 

これからどんな宗教が星の数ほど出てきても、どんな人が出てきても、

その信心に一念があるかどうかでそれが真実の信心かが判る。
これ以外に真実の信心はない。

 

仏教ウェブ入門講座

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タグ:教行信証
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2017年05月22日

御文章1帖目6通睡眠

後生の一大事、命あらん限り、油断あるまじく候

 

ごく当然の当たり前のことを言われているが、注意散漫でいる。

こういうことで、油断をするなといわれていた。

 

蓮如上人が御文章の中で油断をするなとおっしゃっている

道宗の「後生の一大事、命あらん限り、油断あるまじく候」
と同じ意味のところ。

 

御文章1帖目6通、睡眠。
そもそも当年の夏このごろは、なにとやらん、ことのほか睡眠におかされてねぶたく候うは、いかんと、案じ候えば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候う。まことにもってあじきなく、名殘おしくこそ候え。さりながら、今日までも、往生の期もいまやきたらんと、油断なくそのかまえは候う。それにつけても、この在所において、已後までも信心決定するひとの退転なきようにもそうらえかしと、念願のみ昼夜不断におもうばかりなり。この分にては、往生つかまつり候うとも、いまは子細なく候うべきに、それにつけても面々の心中も、ことのほか油断どもにてこそはそうらえ。命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候う。よろずにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じそうらえ。明日もしらぬいのちにてこそ候うに、なにごとをもうすもいのちおわりそうらわば、いたずらごとにてあるべく候う。いのちのうちに、不審もとくとくはれられそうらわでは、さだめて後悔のみにてそうらわんずるぞ。御こころえあるべく候う。あなかしこあなかしこ。
    この障子のそなたの人々のかたへまいらせ候う。のちの年にとりいだして御覧候え。

文明5年卯月25日書之
                                            
文明5年というのは、蓮如上人はおいくつくらいか。
蓮如上人がすっかりお歳を召されていることが分かる。

御文章は、大変お忙しいところ書かれたもの。

一番お若い頃に書かれたものが1帖目1通。

このときが57歳。

当時生きている、そして説法されている、
またお手紙を書かれているということは考えられなかった。

平均寿命40歳くらい。とても考えられないこと。

 

6通は59歳くらいと思われる。

いつ御説法がお休みになられてもおかしくない。

このあと、28年間書かれている。

4帖目15通は85歳。このあと、御布教も続けられた。

ご苦労も多かった。大変お疲れでいらした。

 

43歳のとき、法主の座を継承されて、東奔西走されて、わらじかけで、

3頭の馬を乗りまわされて御布教された。

 

目の前に人がいるなら、叫ばれるものの、御説法が終わると
目の前に見ることができない人に、筆にまかせて、
言の葉に乗せて送ろうとされた。


門徒の人に当てて書かれたお手紙が御文章。

最初におっしゃったお言葉。

 

そもそも当年の夏このごろは、なにとやらん、ことのほか睡眠におかされてねぶたく候うは、
いかんと、案じ候えば、不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候う。

 

今年の夏が大変暑い。体力がばてて、すぐに眠たくなる。夏になると眠たく
なる。年寄れば行歩も叶わず眠たくもあるなり、とも言われている。
この蓮如も年をとって、あとわずかで死んでいかねばならない。人生の終わ
りが刻一刻と近づいている。人間、一年長く生きているときは、死に近づいた
ということ。年をとったということは、死に近づいたということ。


蓮如上人という方は、命のあるうちに、後生の一大事の解決をされた。
極楽に向かって近づいている。

 

信心決定されてから、極楽往生を遂げる間、あなたがた、滝壷に向かっている船に乗っているんだぞ。

油断するな油断するな。
後生の一大事を解決するまで油断するなと精一杯おっしゃっているのが次。
「まことにもってあぢきなく、名残惜しく候へ」

仏教を聞いているのも続かない。
自分も説法に出れなくなる。一足先に後生へと旅立って行く。

この蓮如がいつ往生の最後の時が来ても、悔いを残さないように、
いつ死んでも、燃えかすのないよう、精一杯話をしようと、
油断のないように蓮如はやってきた。

さりながら、今日までも、往生の期もいまやきたらんと、油断なくそのかまえは候う。

 

どうかして、この後生の一大事があるから、早く信心決定してもらいたい。
早く救われる身になる人が出てもらいたい。

それにつけても、この在所において、已後までも信心決定するひとの退転なきようにもそうらえかしと、

念願のみ昼夜不断におもうばかりなり。


4帖目15通の最後にも、
存命のうちに皆々信心決定あれかしとおっしゃっている。
御文章書かれるはじめからおっしゃっている。
皆さん油断してはならない。

この分にては、往生つかまつり候うとも、いまは子細なく候うべきに、

それにつけても面々の心中も、ことのほか油断どもにてこそはそうらえ。

命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候う。

 

他人事でない。あなたのこと。

よろずにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じそうらえ。

明日もしらぬいのちにてこそ候うに、なにごとをもうすもいのちおわりそうらわば、

いたずらごとにてあるべく候う。


仏縁に恵まれた人には、どうか中途半端で終わってもらいたくない。
精一杯この蓮如は説いてきました。

仏法に明日はない。だから日々全力投球せずにおれないのだ。
昨日の説法は今日の辞世、今日の説法は明日の辞世と思っている。
仏縁深く仏法を求める人は、どうか同じ覚悟で精進してもらいたい。

いつも死と隣り合わせで生きている。
昨日聞けたから、今日聞けるとは限らない。
人生いつ最後の時がくるか分からない。そう思うと、皆さんの前に立った時も、
全力投球せずにはおれない。
満身の力を込めて、セーブするわけにはいかない。全力投球であると。

目の前に来られた方の後生がかかっている。
次に御縁がない人がある。
二度と仏法を聞けなくなる時がある。
何とかこの一座で、後生の一大事の解決をしてもらいたい。
同時に善知識も生身の体。
今日私が後生へと旅立っていかないとなると、昨日の説法が辞世の言葉になる。
だけど、私は絶対にこうなるのなら、
あのとき、もっと真剣にやっておけば良かったと後悔したくない。
生きている時は全力で、精一杯後生の一大事を説き切る。
だから同じ覚悟で精進してもらいたい。

蓮如上人もいつ死んでも悔いがないように、
どうか信心決定してもらいたい。
必死でお叫びつづけられた。

 

いのちのうちに、不審もとくとくはれられそうらわでは、

さだめて後悔のみにてそうらわんずるぞ。

御こころえあるべく候う。

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2017年05月21日

命あらん限り油断あるまじく候

後生の一大事、命あらん限り油断あるまじく候

 

 

これは誰のお言葉か?

 

赤尾の道宗。

富山に五箇山というところがある。

赤尾に道宗という人があった。

 

寒いときでも、御法座があるとどこでも参詣した。
大変に熱心に教えを求めて、鮮やかな信心をいただいて、

後の人にメッセージを残した。21か条。

有名なこと。

 

赤尾の道宗というとどういうことで有名か。
蓮如上人のおっしゃることであれば、仰せのままに、

はいかしこまりたると素直に従う。

 

善知識の仰なりとも「成るまじき」なんど思うは
大なる浅間しき事なり。

然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも

「畏まりたる」と申すべく候。(御一代記聞書)

 

ごちゃごちゃいうところ、

善知識に聞かせていただくときに、

凡夫の浅知恵では間に合わない。

 

だから、はいかしこまりたる。

琵琶湖の湖を一人して埋めよということでも従う。

 

その赤尾の道宗が

「命のある限りは、決して油断をするな」

と言っている。

 

油断をしていない人には言う必要がない。

後生の一大事を聞いたことのない人に言われているのではない。

何度言われても、油断して忘れてしまう人に言われている。

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タグ:蓮如
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2017年05月20日

弥勒菩薩と肩を並べる

自力の悟りを目指す修行者の理想的な人が弥勒菩薩

 

弥勒菩薩と言うのは、悟りの52位を自力で登っていった

理想的な修行者なんです。

その弥勒菩薩が今51段。

 

親鸞聖人の教えはそんな修行なんか一日もしない。

教行証というのは、教えを信じて修行して、ようやく悟りを開く。

その行の厳しいこと。

 

室衣座の三規なんかまだまだ初歩だから。

で、弥勒菩薩はその行を忠実に実行して51段まで悟った人なんです。

だから自力の仏教では理想的な人、理想的な菩薩なんです。

 

その弥勒菩薩が今51段。

ところが親鸞聖人の唯信独達の法門というのは、一日も修行しないで、

信ずる一つでその弥勒と肩を並べる。

 

51段を高飛びするっていう教え。

とんでもない教えでしょう?

あまり驚かないのは全然修行してないから。

 

台湾の仏教の人はいろいろな仏を前に並べて、

日曜日になると、朝から晩までその三つ並んでいる仏に向かって礼拝する。

その礼拝の仕方が唯手を合わせて頭を下げる程度じゃない。

立った人が座って、頭を絨毯につくほど下げて、そしてまた立って、そしてまた座って。

それを朝から晩まで繰り返す。

それが台湾の仏教で言う行なんだね。

 

そういう人たちに親鸞聖人のこの唯信独達の教えと言うような話をしても

理解できない。

「で、結局何をするんですか」と、「どんな行があるんですか」、

こう聞いてくる。

「いや、行は無いんです。信心一つで51段高飛びするんです」

と言っても、理解ができない。

「それどういうことですか」と、

「私信じてますよ。信じて、だから何をやるんですか」と、

必ず聞いてくる。

何かやらないと、もう落ち着かない。

何か行をしないと。

「行は何ですか」と必ず聞いてくる。

それくらい、「いや、教えはわかりました。だから、行は何ですか」。

これが普通なんですよ。

「教えは信じますから、行を教えてください。その行を私はやりたいんです」

と、こういう事なんです。

 

ところが、「いや、行は関係ない。信ずる一つで悟りが開ける。51段を高飛びする」。

もう、理解ができない。

「いや、それどういうことですか?信ずる一つってどういうことですか」。

こういうわけです。

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2017年05月19日

極楽浄土へ往けるかどうかは平生の一念でハッキリする

然れば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。

平生のとき不定の念に住せばかなうべからず。
(執持鈔)

 

執持鈔は覚如上人の書かれたもの。

覚如上人とはどんな方か。

覚如上人の曾御祖父さんが

親鸞聖人。

 

親鸞聖人の7人の子供さんの末娘の、

覚信尼のお孫さんが覚如上人。

 

平生の一念とは信心決定した一念。

信の一念。

 

生きているときに、往生の得否は定まる。

 

往生の得否とは、この往生は死んでから。

体失往生。死んでからの往生。

 

自分は死んでから極楽往生できるかできないか、それが平生の一念で決まる。

 

生きているときにハッキリする。

平生の一念によりて往生の得否は定まる。
ハッキリする。

 

平生の一念を突破した人は間違いなく極楽に往生できる。

 

「平生のとき不定の念いに住せば往生はかなうべからず」、

一念を突破した人は間違いなく極楽往生できますと。

 

だけど、ここを突破してない、

不定の念いに住している人は、つまりまだ信前、

心が定まってない人はできません、

かのうべからず」。

権力とは関係ない。平生の一念で決まる。

往生の得否が定まる。

非常にハッキリしている。

 

親鸞聖人も「信心一つで平生の一念でハッキリしますよ」、
蓮如上人も「一念の信心定まったらハッキリしますよ」、
覚如上人も「平生の一念でハッキリしますよ」。

 

いずれも信心一つでハッキリする。

唯信独達といいます。

 

だから一人いて喜べる。

自分が死んだら間違いなく弥陀の浄土にいける、

大宇宙で最も楽しいところにいける。

大宇宙の宝を丸貰いして、弥陀の極楽浄土がハッキリする。

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タグ:蓮如 往生
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2017年05月18日

法施と財施

昔、メキシコオリンピックで体操。

 

加藤が個人で金メダルとった。

日本で最高、金メダル8つもっている。

 

この間テレビ見て、金メダルならべてた。

ところがどう見ても6つしか並んでない。

ほかは銅メダルにしか見えない。

「どうもメッキはげちゃいまして」。

 

金メダルメッキはがれたら銅メダルみたいになっちゃう。

幸福は色あせるというけれども、本当に色あせる。

 

金メダル取るためにみんな必死になっている。

それでも色あせる。

 

それにくらべたら法施、真実の仏法を伝える。

 

板敷山の弁円

「山も山 道もむかしにかわらねど かわりはてたる我が心かな」

と歌った。

 

それはそう。

今までまったく知らなかった人生の目的、それを知って達成したら大変わりする。

あの弁円一人に伝えるために親鸞聖人数珠ひとつもたれて、

左右なく、左右なくとは一人で、右も左もない。

 

そのすがたに弁円もうたれた。

まさしく身を捨てよ。

 

かわりはてたる我が心。心がおお変わりする。

 

そしてその心は永遠に変わらない。

死が来ても。

 

郷ひろみと松田聖子がデートする。

郷ひろみと別れて4ヶ月後に再婚。

 

それがまたデートしてトルーラブストーリー。

 

人間の心、あてにならない。

日本で一番幸せだといわれたのが。

息子二人が横綱。

その家庭がいまや崩壊。

人間の幸せなんていつどう崩れるかわからない。

 

そんな幸せと次元の違う幸せを伝える、それが法施。

 

 

その次に上げられるのが財施。

これもまた尊い善。

時間やお金を施す。

結局仏法の為にこれらを使うということは法施にもなる。

仏法のために財施をするならば、

それが仏法の為につかわれるならば、それは間接的な法施。

 

本当に生きた時間、生きたお金。

 

たとえば一生懸命受験勉強した、それが報われた、

それは大学に合格したときに言える。

無駄じゃなかった。

それは合格したときに言える。

金メダルとっていままで苦しい中頑張ってきてよかった、といえる。

 

けれども絶対に大学に受からない、その大学目指して勉強する。

勉強する気になる?やっぱり落ちた。

 

報われなかったということ。

絶対にデートできない彼女口説こうという気になる?

 

結末が絶対報われないと分かったら、どうして努力しようとなる。

その努力報われる?生きた努力といえる?

 

絶対当たらない宝くじ。買うきする?

 

私たちは自分の努力が報われて幸せに成れたときに、

あのときのお金、時間は無駄じゃなかった、と思う。

 

ところが結果不幸になった。

そうしたらそれは生きた時間、生きたお金とはいえない。

悲劇になってしまう。

 

どれだけの財産があってもそのために息子たちがけんかしてしまったら、

生きたお金といえるか。

そのお金も死に金。

 

財施がなぜ尊いのか。

それは仏法の為に費やされた体力、お金、努力、絶対にそれは廃らぬ、無駄にならないから。

だから生きたお金、時間、労力になる。

 

私たちはそういう布施の精神、しっかりと持ちたいと思う。

このまえの投書。

 

中年のサラリーマンの投書。

電車に乗った。

回り中、金髪とか。音楽聴いている人もいる。

携帯でしゃべりっぱなしのひともいる。

ああ、俺たちが戦後過労死するほど働いてきた結果がこの日本か。

そうおもっていると、そばで勉強している学生がいた。

いやー日本もすてたもんじゃないな、と思った。

ところがその中年の男性腹痛起で突然うずくまった。

そのとき、いままで音楽聴いていた、携帯ではなしてた人、口々に大丈夫、

と声かけてくれた。

 

ところが勉強していた人、チラッと見て、また勉強続けた。

それをみて考えがガラッと変わった。

 

俺は何を考えていたんだ。

こんな勉強ばっかりしている子が増えたら世の中大変だ、

そこでガラッと評価が変わった。

 

一生懸命出世しておれが金持ちになって、おれが世の中動かしてやる。

そういう人が増えたら大変。

それよりも布施の精神を持っている人のほうが大事。

そうしてみるとこの子達のほうが立派じゃないか。

そういう体験談。

 

もちろん一番いいのは勉強もしつつ、勉強も勿論大事。

しかし、それよりも大事なのは布施の心。

人間として大事なのは、生きる目的を知り、そしてそれを伝えようという気持ち。

人を蹴落としてでも、オレが幸せに成ればいい、

そういう人は決して幸せになれない。

 

自利利他の精神。

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タグ:弁円
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2017年05月17日

一人居て喜ぶ信

親の恩を親の恩と本当に感じることが出来るのも、生きる目的を知ってこそ。
その生きる目的をおしえられたのが善知識のご恩。

親のご恩よりもどうしても先に来る。

 

蓮如上人は、信心決定という世界は、一人いて喜べる法とおっしゃっている。

 

同行の前にては喜ぶなり。これ名聞なり。信の上は一人居て喜ぶ法なり

(御一代記聞書154)

 

誰かがいて、その誰かと比べて、俺の方が幸せだなあ。

これがさっき言った、お金とか権力とか。

誰かと比べて喜べる、これは名聞。

相対の幸福、自分より劣っている誰かと比べないと自分が喜べない。

それは名聞である。

 

ところが、信の上には。

信心決定というのは、誰がいなくても一人で喜べるものなんだ。

これが人生の目的なんだ。

 

一人一人の生まれてきた目的を一人一人果たせば一人一人喜べる。

これが絶対の幸福。

 

生まれてきて良かった、と喜べる。誰と比べる必要もない。

そしてそれは死がきて崩れるようなちっぽけなものではない。

 

私たちにとって最大の善知識。

お釈迦様は当然として、親鸞聖人のご恩、大変なものがある。

決して忘れてはならないもの。

蓮如上人は、親鸞聖人のご恩、
いたるところで教えておられます。

 

 

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2017年05月16日

この世で最も不幸な人は感謝の心のない人である

この世で最も不幸な人は感謝の心のない人である

 

幸せな人は、必ず感謝できる。

自分が幸せな原因を知っている人は感謝できる。

でも自分が幸せじゃない人は感謝の心がない。

うらみ、のろい、愚痴。

幸せな人をねたむ。

感謝の心とは正反対。

 

たとえどんなにお金があっても、権力があっても、

頭が良くっても、感謝の心がなかったら、幸せとは言えない。

 

逆に感謝の心のある日とは幸せな人。

また実はそういう人は本当の意味で強い人。

 

逆にいうと感謝の心のない人は弱い人。

 

人間苦しくなったときに、なにもかも投げ出したくなったとき、
そんなときに本当に自分を支えてくれるもの。

あるいは自分が持っている力を本当に引き出してくれるもの。

オリンピック。一流の人。
共通しているのは、もちろん自分で努力している。
いざというとき、本当に自分の力を発揮できる人は
こういう心のある人。

日本のハンマー投げ、室伏選手。
日本新記録。彼のお父さんがコーチ。
彼はお父さんを大変尊敬している。
そして信頼している。
だからこそまた感謝の心が強い人。
人間辛い苦しいときにそこをもう一歩乗り越える力、恩、感謝の心。

 

よくマンガでヒーローがいる。
スポーツもの、大変な強敵、負けそう、そういうとき、
お世話になった方々が浮かび上がって
「俺は一人で闘ってるんじゃない!!」

人間の眠れる力を呼び覚ます。

 

シドニー、マラソンの高橋。金メダル間違いない。

あの人の強さ、コーチを信頼している。
そして感謝の気持ちが非常に強い。

いざというときに、頑張ろうという強い力が出てくるのはこういう心。
恩を知る。
そういう意味で強いといった。
逆に常に自分の苦しみを他人に押し付ける人、弱い人。
またそういう人は最も不幸な人。

 

仏教では恩を非常に重視する。

仏教を学ぶときはこのサイトがいいと思う

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2017年05月15日

なぜ生きるのか忘れられている

「なぜ生きる」ということが不思議なことにわすれられている。
レストランに入って食事を忘れるひとはいない。
風呂やに入って風呂に入るのを忘れるのはおかしい。


生まれてきたのに「しまった生まれきた目的わすれた!」
これはおかしくないか?

そういう全人類に「あなた忘れてますよ!」こういうのが仏法。

かつて蓮如上人はご文章で明らかにせられた。
蓮如上人にご文章なければあれだけのことはできなかった。、

蓮如上人は親鸞聖人の教行信証をすりきれるまでよまれてそして、
そのエキスをご文章にしてくだされた。
だから愚鈍なひとたちも親鸞聖人の教えがわかった。

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posted by 陽葵 at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教