自力の悟りを目指す修行者の理想的な人が弥勒菩薩。
弥勒菩薩と言うのは、悟りの52位を自力で登っていった
理想的な修行者なんです。
その弥勒菩薩が今51段。
親鸞聖人の教えはそんな修行なんか一日もしない。
教行証というのは、教えを信じて修行して、ようやく悟りを開く。
その行の厳しいこと。
室衣座の三規なんかまだまだ初歩だから。
で、弥勒菩薩はその行を忠実に実行して51段まで悟った人なんです。
だから自力の仏教では理想的な人、理想的な菩薩なんです。
その弥勒菩薩が今51段。
ところが親鸞聖人の唯信独達の法門というのは、一日も修行しないで、
信ずる一つでその弥勒と肩を並べる。
51段を高飛びするっていう教え。
とんでもない教えでしょう?
あまり驚かないのは全然修行してないから。
台湾の仏教の人はいろいろな仏を前に並べて、
日曜日になると、朝から晩までその三つ並んでいる仏に向かって礼拝する。
その礼拝の仕方が唯手を合わせて頭を下げる程度じゃない。
立った人が座って、頭を絨毯につくほど下げて、そしてまた立って、そしてまた座って。
それを朝から晩まで繰り返す。
それが台湾の仏教で言う行なんだね。
そういう人たちに親鸞聖人のこの唯信独達の教えと言うような話をしても
理解できない。
「で、結局何をするんですか」と、「どんな行があるんですか」、
こう聞いてくる。
「いや、行は無いんです。信心一つで51段高飛びするんです」
と言っても、理解ができない。
「それどういうことですか」と、
「私信じてますよ。信じて、だから何をやるんですか」と、
必ず聞いてくる。
何かやらないと、もう落ち着かない。
何か行をしないと。
「行は何ですか」と必ず聞いてくる。
それくらい、「いや、教えはわかりました。だから、行は何ですか」。
これが普通なんですよ。
「教えは信じますから、行を教えてください。その行を私はやりたいんです」
と、こういう事なんです。
ところが、「いや、行は関係ない。信ずる一つで悟りが開ける。51段を高飛びする」。
もう、理解ができない。
「いや、それどういうことですか?信ずる一つってどういうことですか」。
こういうわけです。
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