信の一念が肝要である。
では次に信の一念の意味。
「信の一念」には二つの意味がある。
一つは時尅の一念。これは救われる時、時間です。
それが一念である。アッという間もない短い時間。
それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。
「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
(教行信証信巻)
もう一つは、信相の一念。
信相とは、信心のすがたということです。
救われた人の、信心のすがた。心の状態。
それが一念である。
二つの意味、この二つをよく知って下さい。
時尅の一念は阿弥陀仏に救われる時間が一念、
それが時尅の一念。
信相の一念は救われたときの心のすがた。信心のすがた。
それが一念である。
「一念」と言うは、信心二心無きが故に「一念」と曰う
(教行信証信巻)
二心がない。二心とは?
二心とは無明の闇。
人生の目的?とてもそんなものわかりませんよ。
生きている間はどうにもなりませんよ。
生きている目的、そんなものどうにもなりませんよ。
そうやって諦めている心が無明の闇。
世界中の人が何のたに生まれて来たのかという
この質問に答えられない。
それを無明の闇というんです。
人生に対する大いなる諦め。
『人生の目的』という本を書いた五木寛之さん、
真っ暗な無明の闇を抱えている。
ハッキリしない。もやっとしている。
こっちにしようかあっちにしようか決められないでしょう。
そういう心を二心という。
そういう心のなくなった状態を一念という。
無明の闇がなくなった状態を一念という。
それが信相の一念。救われた心のすがた。
その信相の一念が初めて立つのが時尅の一念。
ここからが信相の一念の始まり。
その二つを信の一念という。
信の一念といった場合二つの意味がある。
真実の信心は一念におさまる。
その根拠は
「一念」と言うは、信心二心無きが故に「一念」と曰う。
無明の闇が晴れた状態。
それが真実の信心。
晴れたときが時尅の一念。
晴れたことが信相の一念。
だからここから先はずっと一念。
時尅の一念は一回だけ。
信相の一念はここから死ぬまでずっと信相の一念です。
そういう違いがあるけどね。
何れもこれは『大無量寿経』の
「信心歓喜乃至一念」の願成就文の一念について
親鸞聖人が仰有ったこと。
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