昔、メキシコオリンピックで体操。
加藤が個人で金メダルとった。
日本で最高、金メダル8つもっている。
この間テレビ見て、金メダルならべてた。
ところがどう見ても6つしか並んでない。
ほかは銅メダルにしか見えない。
「どうもメッキはげちゃいまして」。
金メダルメッキはがれたら銅メダルみたいになっちゃう。
幸福は色あせるというけれども、本当に色あせる。
金メダル取るためにみんな必死になっている。
それでも色あせる。
それにくらべたら法施、真実の仏法を伝える。
板敷山の弁円は
「山も山 道もむかしにかわらねど かわりはてたる我が心かな」
と歌った。
それはそう。
今までまったく知らなかった人生の目的、それを知って達成したら大変わりする。
あの弁円一人に伝えるために親鸞聖人数珠ひとつもたれて、
左右なく、左右なくとは一人で、右も左もない。
そのすがたに弁円もうたれた。
まさしく身を捨てよ。
かわりはてたる我が心。心がおお変わりする。
そしてその心は永遠に変わらない。
死が来ても。
郷ひろみと松田聖子がデートする。
郷ひろみと別れて4ヶ月後に再婚。
それがまたデートしてトルーラブストーリー。
人間の心、あてにならない。
日本で一番幸せだといわれたのが。
息子二人が横綱。
その家庭がいまや崩壊。
人間の幸せなんていつどう崩れるかわからない。
そんな幸せと次元の違う幸せを伝える、それが法施。
その次に上げられるのが財施。
これもまた尊い善。
時間やお金を施す。
結局仏法の為にこれらを使うということは法施にもなる。
仏法のために財施をするならば、
それが仏法の為につかわれるならば、それは間接的な法施。
本当に生きた時間、生きたお金。
たとえば一生懸命受験勉強した、それが報われた、
それは大学に合格したときに言える。
無駄じゃなかった。
それは合格したときに言える。
金メダルとっていままで苦しい中頑張ってきてよかった、といえる。
けれども絶対に大学に受からない、その大学目指して勉強する。
勉強する気になる?やっぱり落ちた。
報われなかったということ。
絶対にデートできない彼女口説こうという気になる?
結末が絶対報われないと分かったら、どうして努力しようとなる。
その努力報われる?生きた努力といえる?
絶対当たらない宝くじ。買うきする?
私たちは自分の努力が報われて幸せに成れたときに、
あのときのお金、時間は無駄じゃなかった、と思う。
ところが結果不幸になった。
そうしたらそれは生きた時間、生きたお金とはいえない。
悲劇になってしまう。
どれだけの財産があってもそのために息子たちがけんかしてしまったら、
生きたお金といえるか。
そのお金も死に金。
財施がなぜ尊いのか。
それは仏法の為に費やされた体力、お金、努力、絶対にそれは廃らぬ、無駄にならないから。
だから生きたお金、時間、労力になる。
私たちはそういう布施の精神、しっかりと持ちたいと思う。
このまえの投書。
中年のサラリーマンの投書。
電車に乗った。
回り中、金髪とか。音楽聴いている人もいる。
携帯でしゃべりっぱなしのひともいる。
ああ、俺たちが戦後過労死するほど働いてきた結果がこの日本か。
そうおもっていると、そばで勉強している学生がいた。
いやー日本もすてたもんじゃないな、と思った。
ところがその中年の男性腹痛起で突然うずくまった。
そのとき、いままで音楽聴いていた、携帯ではなしてた人、口々に大丈夫、
と声かけてくれた。
ところが勉強していた人、チラッと見て、また勉強続けた。
それをみて考えがガラッと変わった。
俺は何を考えていたんだ。
こんな勉強ばっかりしている子が増えたら世の中大変だ、
そこでガラッと評価が変わった。
一生懸命出世しておれが金持ちになって、おれが世の中動かしてやる。
そういう人が増えたら大変。
それよりも布施の精神を持っている人のほうが大事。
そうしてみるとこの子達のほうが立派じゃないか。
そういう体験談。
もちろん一番いいのは勉強もしつつ、勉強も勿論大事。
しかし、それよりも大事なのは布施の心。
人間として大事なのは、生きる目的を知り、そしてそれを伝えようという気持ち。
人を蹴落としてでも、オレが幸せに成ればいい、
そういう人は決して幸せになれない。
自利利他の精神。
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