無常も罪悪も気にかからない私はどう求めればいいでしょうか。
人間というのは、薄〜い氷の上を、その氷の下には凍てつくほどの冷たい水、
落ちただけで身体が凍り付いてしまうような、
そんなところを重〜い荷物を背負って歩いているようなものだと教えられます。
重たい荷物とは罪悪。
薄い氷とはいつ死ぬか分からない無常の身を現しています。
先日、ある映画の一場面を見ました。
よく、氷の下にスターが落ちていくという場面あるでしょ。
氷の下に落ちた場合、普通の人間は泳げないらしい。
筋肉が凍ってしまう。
気絶するそうです。
つまり、この下の世界は想像をはるかに超える。
あそこから出てこれるのは映画の世界だけ。
私たちも、あんなところ入ったことないから、そりゃひどい世界だろうな、
とか思っていても、実際入ったならば、想像を絶するものです。
一度入ったならば、後悔します。
あんな風に歩くんじゃなかった、もっと慎重に歩くべきだった。
しかし、上にいた時考えていたことは、もっと大きな荷物を持って帰ろうとか
もっと滑って行こうとか、そんなことしか考えてません。
薄い氷の下のことにはもう目がいきません。
「生」と「死」というのは、背中合わせにある。
表裏一体という言葉もありますが、仏法では生死一如といいます。
裏も見せ表も見せて散るもみじ、と言われるように、
必ず、光があったら闇がある、表があったら裏もある。
ところが我々の目に映ることは、どんな風に異性をゲットして、
どうすれば就職出来て、どうすれば赤点を乗り切れて・・・そんなことばかりで、
薄い氷の下にはどんな世界が広がっているのか、まったく気にしていません。
お釈迦様は「出息入息不待命終」と言われます。
また「一息つがざれば千載に長くいく」ともいわれます。
しかし、そこで想像している後生の一大事とはまったく違う世界が待っている。
にもかかわらずその世界に心がかからない。
心にかかるとかかからないとかに関わらず、
厳粛な事実としてこうしたことはあるのです。
もしみなさんの家が焼けたら驚くでしょう。
夫が死んだら驚くでしょう。
しかしもっと驚かなくてはならないことが待っているのに、
驚くべきことに驚かず、恥ずべきことに少しも恥じずにいる心、
それに驚くのが罪悪観・無常観ということです。
この自分の相を、よくよく聞かせていただくのが、聴聞です。
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