蓮如上人仰せられ候、「不審と一向知らぬとは格別なり。
知らぬことをも不審と申すこといわれなく候。
物を分別せずして、あれは何と、これは如何、などいうようなる事が、不審にて候。
子細も知らずして申す事を不審と申し紛らかし候」由仰せられ候。
(御一代記聞書221)
蓮如上人、よく不審といわれる。
「命の内に不審もとくとく晴れられそうらわでは定めて後悔のみにてそうらわんずるぞ」
蓮如聖人が不審といわれているのは疑情のことをいわれている。
生きている内に疑情を晴らしなさいよ。
そうしないと後悔しますよ。
ところが、その無明とか疑情ということが分かるのはそうとう聴聞しないと分からない。
よーく聞いている人が初めて、無明疑情不審というものに気がついてくる。
合点を過ぎて、かなり聞いた人が初めて出てくる心、ところが全然聞いていない人、それは不審ではない。
一向知らぬ。不知といわれる。
「不審と一向知らぬとは格別なり。
不審と不知とは全然違うぞ。
不審というのは、よーく聞いて分かっている人がどうしてもここ一つわからん。
それが不審。ぜんぜんまだ何も聞いていない人は不知。
何もしらん。格別なり。全く違うことですよ。
知らぬことをも不審と申すこといわれなく候。
何も聴聞しないでわからんわからんといっていることをこれが不審だ、それはいわれのないこと。
不審とは言えないこと。
物を分別せずして、あれは何と、これは如何、などいうようなる事が、不審にて候。
たとえていうならば、物事をよくわきまえて分別できた人が、
あれはなんだ、これはどうだ、こういうことが不審。
よく知っている人があれはなんだ、これはなんだ、それが不審。
ところが
子細も知らずして申す事を不審と申し紛らかし候」
ろくに何も知らないのにそれを不審といって勘違いしている。
混同している。そういう人が多い。
わたしが不審を晴らしなさい、といっているのはそういうことではないぞ。
たとえば、みなさんが仏法、仏ということすらわからないときに、
よく分かりませんといっているのは不知。本当に分からない。
ところが聞いていってなるほどなるほど、理解が進んで、わかった合点した。
更にそこから進んでいよいよ分からなくなってくるのが不審。
その前でわからんわからんといっているのは不知、何も知らない。
それをこれが不審だ、といっているのはだめですよ。
それが聞いていって分かって、分かってから出てくる、疑問。
ここ一つわからん、ここ一つはっきりしたい。
それを蓮如上人ははらしなさい、といわれている。
それが一念で晴れる。破無明闇。
そういう蓮如上人のお気持ち、それはこの辺の人はまだわからん。
それは無理もない。
けれどそういう人が多かったので、蓮如上人はそれは違うよ、
といわれている。
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