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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2020年03月11日

大切な人だから腹が立つ

怒りの原因の一つとして、
大切な人だから腹が立つ
ということがあります。

例えば、パートナーが靴下をほおっていた。

給料が少ないと言われると腹を立てます。
お前たちのために稼いでいるのに、
こんなにしているのに、という
恩着せ心があります。

夫からだめな女だといわれると腹を立てます。
食事に気を使ってやっているのに、
あなたのために、どれだけやっているのか分かってるの?
と思います。

このように、大切な人には、いつも色々やってやっている、
ということで腹が立ちます。

そこで仏教では、三輪空が大事といわれます。
三輪空とは三つのものを空じるということで、
人に親切したとき、私が誰に何を、という3つを忘れる
ということです。

私がしてやったという思いを忘れなさい
ということです。

仏の智恵を身につけると怒りの心がおさまります。

タグ:智慧 仏教 怒り
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2020年03月08日

親鸞聖人の教行信証の最初の喜びの言葉

親鸞聖人の主著は教行信証です。

教行信証は、
喜ばしきかなで始まり、
喜ばしきかなでおわっています。

その教行信証の総序の喜びの言葉の一つにこういうものがあります。

噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
もしまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
(教行信証総序)


まず最初に噫(ああ)、といわれています。
小学校の友達に町で突然会ったりすると、
あ、とか、あらといいます。

あら、と蓮如上人も言われています。
多生というのは、生まれ変わり、死に変わり、輪廻転生した、多くの生です。
億劫というのは、1劫は4億3200万年ですから、その億倍です。

真実の浄信は、絶対の幸福のことです。
50年ぶりに会っても驚きます。

億劫ぶりでもなく、億劫にもなかったことです。
生まれ変わり死に変り、蛇でさえ気持ちがわかります。

多生の間求め続けてきたものが、
今、達成できたぞというよろこびです。

あうはいろいろあります。
会うとか逢うとか遇うなど色々です。
ところが
値という字は、
一度しかないあいかたです。

過去にも未来にも一度しかない。

遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
遠い過去からの仏縁を喜ばずにおれない
宿縁ともいう。

絶対の幸福になると疑いなく分かります。
遠い過去からの仏縁です。

評論家の亀井勝一郎は、教行信証には、
大歓喜が満ち溢れていると言っています。

日本一の読書家です。

世界中の本を読んでいたが、
教行信証を読んで、人生にこれにかけると
人生は、邂逅である。
邂逅とはめぐりあいによる
どんな教え、人にあうかで決まります。

世界の思想に通じた人ほど、教行信証にたどり着く。

親鸞聖人は、
三恒河沙の諸仏の出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり
といわれています。

ガンジス河の砂の数ほどの仏のもとで菩提心をおこした。
これだけの仏縁がないとあえないということです。

90歳で聞けた人が喜ばれたが
若い時に聞きたかったと言われていました。

もしまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。

この人生も疑網に覆蔽せられなば、心の闇がはれなければ、
長い間、六道を輪廻しなければなかった。
合格しなければ浪人だったと。1年。
絶対の幸福にならなかったら、輪廻していた。

誠なるかなや、摂取の不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
本当だった、誠だった。
摂取の不捨の真言も超世希有の正法も阿弥陀如来の本願のことです。
弥陀の本願にウソはなかった。

だから年をとってから仏教を聞くというのではありません。
今、聞きなさい、ということです。
優先すべきことを優先しなさいといわれているのです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2020年03月05日

仏教で最高のお経とは?

阿含経は、よく一番仏説に近いと言われます。
では、阿含経には何が説かれているか。
それは、色々な物語を通して、因果応報の因果の道理が教えられています。

因果の道理というのは、
善い種を蒔けば善い結果
悪い種をまけば悪い結果
自分のまいた種は自分が刈り取らなければならない
ということです。

これは物語が多いですし、因果応報は子供の時から聞いていますので、
誰でも分かります。
なんと分かりやすいお経かと思います。

仏教でも一番分かりやすいお経です。

ブッダは、最初に華厳経で非常に難しい話をされたので、
あんな難しい話とこんな分かりやすい話できるのか、凄いなあと
みんな思います。
 
テレビのコメンテーターでも、
法律もいろいろ知っていて、
それをふまえてコメントします。

その上で分かりやすいたとえ話なども話すと、
凄いなあと思います。

そのあとブッダは、
方等経、般若心経で有名な般若経、法華経などを説かれます。

たとえるなら以下のようになります。
阿含経 幼稚園
方等経 小学
般若経 中学
法華経 高校

昔は高校卒業が多かった。
中学に対して、高等学校です。
法華経が一番という人もあります。
ところがまだその上に大学があります。

最高学府は大学です。
その大学にあたるのが大無量寿経です。

法華経までと、大無量寿経と大変な違いがあります。

posted by 陽葵 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2020年03月01日

禅宗の僧侶・白隠が殿様に大喝

白隠という禅宗僧侶が江戸時代にいました。

ある時、殿様が白隠に使者出して、
いついつ話を聞きたいと言いました。

普通なら、最優先です。

ところが白隠は、約束あっていけませんと断りました。

断られましたと使者が報告すると、
殿様は、むっとしたが、
では何月何日にと日程の調整が行われました。

白隠がそれならいいですよと、当日出向くと、
殿様は、すだれで向こうに座っています。

その時、白隠は、私が説くのは、仏教の正味ばかりである。
すだれでこすものは何もない、
と殿様に大喝して、すだれをあげさせています。

仏教を聞く時には、身分に関係なく、頭を下げて聞かなければとても聞けないのです。

なぜかというと、仏教はブッダが仏の智慧によって
私たち人間の迷いを教え、
真理へ導こうとして説かれたものだからです。

それなのに、自惚れて、自分のほうが上だと思っていたら、
とても聞けるものではありません。

この白隠のエピソードも、
仏教を聞く心構えを教えられたものです。


posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2020年02月27日

紀州のドンファン55歳年下の女性と結婚して死亡

ブッダは35歳で悟りを開かれました。

それまで悩み苦しんでおられました。
王様の子供で、地位も名誉も、お金もありました。
お父さんは浄飯王、英才教育、優秀で、普通ならそれで満足だと思いますが、虚しかった
やがて老病死で壊れてしまいます。

和歌山の紀州のドンファン。
77歳で55歳年下の女性と結婚した。
50億というお金は凄いが、憧れるか。
年をとるのは嫌なもの、病気も嫌なもの。
線維筋痛症。
一番イヤなのは死ぬこと。
そして紀州のドンファンもすぐに死んだ。

ブッダは500人の美女に囲まれて生活をされていた。

だけど、老病死を考えると幸せでない。
お父さんは、何が不足なのか、何でもいえ。
では、年取らない、病気にならない、死なない身にしてください。
それは、無理。

老病死を越えた幸せを求めたいと、出家された。

仏教の目的は老いと病と死を超えた絶対の幸福。
それを35歳で発見されました。

悟られたということは、発見されて体得されたということです。
それを80歳まで教えられたのが仏教です。
45年間教えられた。
それが一切経に書き残されています。

posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2020年02月24日

悪口言われても変わらない心ってある?

私たちの心は変わりやすいものです。
人から何かを言われるとすぐにぐらつきます。

誰かが自分の悪口を言っていたと聞いたら、大変です。
すぐに暗く沈んでしまいます。



ところが仏教では、絶対変わらない心が教えられています。
これを金剛心といいます。
金剛石といったらダイヤモンドのことで、一番固い石です。
つまり変わらないということです。

ダイヤモンドのように、固くて変わらない心が
金剛心です。

どのくらい変わらないかというと、
4通りの人から非難攻撃されても微動だにしないと
善導大師が教えられています。

善導大師の主著の観無量寿経疏にあります。
観経四帖疏といわれて、

観無量寿経疏。
玄義分、序分義、定善義、散善義とありますが、その中の散善義にあります。

一番目が、世間の人間から攻撃されても、微動だにもしません。
智者や学者が攻撃してもですから、これだけですごいです。
普通は仏教大学の教授とかから何か言われたら心は崩れてしまいます。

二番目が、頭だけでなくて修行をして40段目以下のさとりを開いた人から攻撃を受けてもびくともしません。
なぜなら、金剛心の人は、51段だからです。

3番目が、41−50段のさとりを開いた人です。
これも、下の人ですから問題ありません。

4番目が、もし仮に仏が攻撃したとしてもびくともしません。
もう諸仏の王である阿弥陀如来に救われてしまっているからです。

大宇宙のすべてから総攻撃を受けてもびくともしないのが金剛心です。
悪口を言われたくらいで何ともありません。
posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2020年02月21日

崖で藤蔓にぶら下がった旅人。藤蔓が切れると?

ブッダは、私たちすべての人の本当の姿をお経に旅人のようなものだと説かれています。

それは崖から藤蔓にぶら下がっている旅人です。

その藤蔓は、白と黒のねずみがかわるがわるかじっています。
寿命を昼と夜が縮めて行っているということです。

人生はろうそくのようにどんどん短くなっています。

旅人はお腹すいたと思って、藤蔓をゆさぶると、上から何か、落ちてきました。
お腹がすいているのでなめてみるとはちみつでした。

五欲を蜂蜜に譬えられています。
五欲というのは、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つの欲望です。

食欲というのは、食べたいという欲望です。
魚や牛は、食べるためと思っている人もいます。
そんな風に思っている動物はいません。

財欲というのは、お金が欲しいという欲望です。
儲かったということは、損した人がいるからです。
自分の業績が伸びるということは、ライバルは業績が落ちます。
借金を抱えて倒産してしまったりします。
事業を拡大すると人を困らせることがあります。

色欲というのは、男女間の欲です。
略奪愛というのがあって、他の人から奪います。
復縁を求めて親を殺した人もあります。

名誉欲というのは、誉められたい、悪口言われたくないという欲です。

睡眠欲というのは、眠たいという欲望です。
うるさいと隣の家に殺しに行きます。

そして欲望が妨げられると、怒ります。
怒ると赤くなります。
かっと腹立てて殴ったり、殺人事件になることもあります。

愚痴とは、嫉妬や怨み呪いの心です。

そして旅人は、藤つるが切れたら深海に落ちます。
これは死後にある一大事です。
これを後生の一大事といいます。

しかし、死んだらどうなるかまったく考えずに、
あっという間の人生、生きている間だけの
蜂蜜のことばかり考えています。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2020年02月17日

死の恐怖のブッダのたとえ

ブッダお経に説かれたすべての人の姿のたとえで、
ある時、旅人が、白骨をみて驚きます。

これは、何をたとえているかというと、
他人の死を見たり聞いたりして驚いたということです。

私たちも、他人の死を見たり聞いたりして驚きます。

テロ見ると驚きます。

年をとるとだんだん友達が死んで行きます。
仲の良かった友達の死などを聞いて驚きます。

距離的にも遠くよりも身近で死ぬ人がいると驚きます。
交通事故6000人死んでいると聞いたり、
飛行機事故で一度に520人死んだと聞くと驚きます。

そして、自分も巻き込まれたら怖い、
自分の死の恐怖に驚くのです。

しかしそれは必ず実現することです。
死を免れる人はいませんから、必ず自分の死がやってきます。
そのすべての人の最大の問題を解決するのが仏教なのです。


2020年02月14日

浄土真宗の異端・カルト

浄土真宗では、異安心といわれる異端があります。

安心というのは信心のことで、親鸞聖人と異なる信心を
異安心といいます。

現代にも存在します。

たとえば、いつどこで救われられたか、を強調します。
これは親鸞聖人も蓮如上人もいわれていないことです。
箝口令が敷かれているかのようにどこにも言われていません。

そして、異安心の人は、自分は救われたと言っているが布教はしません。
親鸞聖人も蓮如上人も救われたと言われていて、恩徳讃の気持ちで布教されています。

もちろん布教していないから、救われてないとはいえません。
三業で他力信心ははからうことはできません。
それも異安心です。

そこにいたら異安心ともいえません。

誘った人は異安心でも、真実にあえるということはあります。

救われたらどうなるかというのはありますが、
こうなっているから救われているというのはありません。

三業で信心をはからおうとしているのは自力の信心てす。
予測されることはあっても断定はできません。
こう言っているから信心決定していないともいえません。
親鸞聖人の教えの理解が浅いだけかも知れませんし、
親鸞聖人の教えを理解していても、ウソを言うこともできますから、
分かりません。

しかしながら、他力の信心を獲ていない人は、みんな自力の信心なので、
共鳴しやすいのです。
すぐに洗脳されてしまいます。

そして、他力の信心からあっという間に離れて行きます。
そしてお世話になったら感謝すべきでしょうに、
他力の信心の人を怨み呪い、批判し始めます。
恐ろしいのは自力の信心です。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2020年02月11日

他力信心の一番の特徴

他力信心には、蓮華のような特徴があります。
中でも最大の特徴は、花果同時の徳です。

蓮華は、ぱさっと一気に開きます。
そして花が開いた時には、実ができているという特徴があります。

それと同じように、真実の他力信心は、一念で獲る信心です。
一念というのは、何億分の一秒よりも短い時間です。
信じた瞬間に、絶対の幸福になれます。

信じているという場合、時間で深めていくものですから、
一念で助かる、本当かと思います。

助かるというのも、一瞬で助かるということは、ありません。
借金をずっとしてきたのを返すの相当時間がかかります。

それについて曇鸞大師は、
譬えば千歳の闇室に光若し暫く至れば即便ち明朗なるが如し。
闇・豈・室に在ること千歳にして去らずということを得んや。

(浄土論註)
と教えられています。
闇がはれるのは、光が来た瞬間です。
千年も真っ暗だったからといって闇が晴れるのに時間がかかるということはありません。
たとえ飛鳥時代の古墳に入っていく時でも、
懐中電灯を照らした瞬間、明るくなります。

ちょうどそのようなもので、
心の闇が破れて
信心獲得するのは一瞬なのです。

ところが他力の信心は、時刻の極促でえられます。
時剋の極促とは、時間の窮まりということで、
時間はかからないということです。

どうして他力の信心は一念でえられるのか
覚如上人が教えられています。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
若し多念をもって本願とせば、命一刹那につづまる無常迅速の機いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要一念往生をもって淵源とす。
(口伝鈔)

ですから、息が切れるまであきらめる必要はありません。
今救われていなくても、臨終まで救われるかどうかぎりぎりまで分かりません。
一念で助かるということは、
意識のある時に助かっていなくても、
助かっている人もいるということです。

posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心