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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2020年01月05日

世界は誰が創ったの?

世界は誰が作ったのでしょうか?

仏教では、諸法無我といわれて、
固定不変な実体は何もありません。

すべては因縁がそろって一時的に生じたものです。

引き寄せて 結べば柴の 庵にて
    とくれば本の 野原なりけり


といわれています。
庵というのは、小屋のことです。
草を集めて結ぶと小屋ができますが、
それは固定不変な実体はありません。
また、ひもをほどけば野原になります。

水が低い温度で氷、100度になると水蒸気になります。
冷やすと氷になることもあります。

すべては因縁がそろって一時的に生じていますが、
実体はないということです。

これを般若心経では、色即是空といわれます。

これを成住壊空ともいわれます。

成住壊空というのは、
因縁がそろったことを成といいます。
それがしばらくとどまっているのを住といいます。
因縁が離れることを壊といいます。
因縁かばらばらな状態を空といいます。

空は目に見えない形です。
始めも終わりもない、成住壊空です。

学問は原因を追求してきました。
たとえば、天然痘になるのはどうしてか。
分からない時は、死に神のしわざと思われていました。
伝染病は病原菌によって起きることが分かりました。

雷はどうして落ちるのか。
分からないからゼウスとか雷神がいると説明しました。

地震、雷など、全部のせいでしたが、
学問が発達して原因が分かってきました。

原因は、分からないことはあります。
ところが原因がないわけではありません。
手品師も、鳩が出てきた原因がわからなくても、
必ず何かの原因があるということは分かります。

すべてのことには必ず原因があるのです。
こうして成住壊空を繰り返しますので、
仏教ではこの宇宙は誰が創ったのかといわれても、無始無終なのです。

2020年01月02日

仏と神は同じ?違う?

宇宙の力をとか仏と言っているだけでないかと言う人があります。
それは神も仏も両方知らない人の言うことです。

仏教では神と仏は違うと言われます。
キリスト教やイスラム教の人も、神と仏は違うと言っています。

神というと、有名なものに2通りあります。
キリスト教、イスラム教のゴッドと、
日本神道の神です。

キリスト教イスラム教で人 6,7割。
旧約聖書のエホバの神。
万物の創造主としています。

Createrというと神ということで、
作られたもののCreatureは生き物です。
英語は、キリスト教に影響を受けています。

仏は、作ったという存在でない、仏という悟りを開いた人です。
最高の悟りを開かれた人を仏さまという。
宇宙の真理を体得して教える人。
想像したものはいません。

このように、仏と神は、両方知るとまったく異なるものなのです。

posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年12月30日

理性でどうにもならない心

モーガン・フリーマンの時空を越えてという番組でやっていましたが、
みんな自分だけは死なないと思っています。

私達の意識は、人間に生まれたからには死ぬということは知っています。
しかし下の心は死なないと思っています。
認めない心があります。
それに今の科学は見つけつつあります。

自分は死ぬことは分かっているというのは意識です。

肺がんで死ぬ人はたくさんいます。
それは分かっています。
しかし、私は大丈夫と思っています。
自分が死ぬと思っていたらブログを読んでいる場合ではありません。

あめ休みの日、
テレビを付けたら、
名古屋大学の馬術部の女性が
知っている人でした。
びっくりしました。

人生は何が、起きるか分からりません。
馬に蹴られる確率よりも、道歩いている方が危ないといわれます。
飛行機よりも、電車よりも、危ないのが道路です。
安全なのは新幹線です。
事故で亡くなった人はありません。

私は死ぬと思っているのは、意識です。
死なないと思っているのは、下の心です。

阿頼耶識は肉体が死んでも続いていきます。
今日明日死なないと思っているのは永遠に死なないと思っています。
私達は、2つの心があります。
矛盾しています。
死なないと思っているのが本当の私です。

これが、実は永遠の私です。
意識は生まれてから死ぬまで肉体を維持するためにあるのが、意識です。
阿頼耶識が分からないと、本当の幸せは分かりません。

分かっちゃいるけどやめられないというのを感じてると思います。
昔、植木等という人が、分かっちゃいるけどやめられないという歌を流行らせました。
試験の一週間前だから、勉強やらねばならないけどもやめられません。

脳の研究をしていると自分は死なないと思っている心があります。
どちらが本当の私でしょうか?

2019年12月26日

杜子春に学ぶ生きる意味

芥川龍之介の杜子春という話があります。
主人公の杜子春は、仙人にここを掘れと言われて掘るとお金が出てきて大金持ちになります。
3年後に使い果たしてまた同じところにくると、また仙人からここれを掘れといわれて
掘るとまたお金が出てきて大金持ちになります。
3年後に使い果たしてまた同じところに来ると、仙人がまたここを掘れといいます。

ところが杜子春は、今までの経験から、大金持ちになるとみんな近づいて来ますが、お金がなくなると手のひらを返したように離れて行くのでもういらないといいます。

人間、都合のいいときは、大事にしますが、
都合が悪くなると、相手にしないものです。

現代でも宝くじを当たったら親戚が増えるといわれます。
都合で他人を判断するのが深い人の姿なのです。

お金があっても、幸せになれるわけではありません。
ある宝くじ当たった51歳の人が、
23日後に亡くなったことがありました。

お金を使うこともできませんし、
ためたお金は、全部残して死んで行きます。
お金は生きて行くために必要な、
生きる手段ですが、
本当の生きる目的は、別にあるのです。

それを果たすことが本当の生きる意味です。
posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年12月23日

布施をしても損しない方法

仏教で、布施は誰にしても布施になるのではありません。
つまり、誰にでも何かを与えれば布施の功徳があるのではない
ということです。

たとえば、泥棒にものを与えてもを助長します。
放蕩息子を甘やかすと、ますます努力をしなくなり、本人を不幸にしてしまいます。
怠け者にお金を与えても、ますます怠惰になってしまいます。

仏教では、誰でも彼でもものを与えていいのかというと、そんな人たちに与えても布施にはなりません。
何かを与えて布施になるのは、3通りの人だけです。
これを三田といいます。
これは、三通りの田んぼです。

なぜ田んぼなのかというと、
田んぼにモミダネをまくと、
秋には何十倍、何百倍にもなって、
収穫されます。

ちょうどそのように、三田に何かを与えると、
何十倍、何百倍の福徳が生み出されるというものです。

ではそれはどんな三通りかというと、
敬田、恩田、悲田の3つです。

敬田というのは、尊敬すべき徳を身につけられた人です。
能力だけではダメです。
もっとも尊敬すべき徳を身につけられているのは仏様です。
また、仏の教えを伝えられる善知識です。

次に恩田というのは、ご恩のある方です。
最もご恩があるのは、本当の生きる意味を明らかにされた仏様です。
そして、それを伝えられた善知識です。
それ以外にも、お世話になった方は、親や学校の先生をはじめとして、
たくさんあると思います。

最後の悲田というのは、気の毒な方です。
何かの病で、一時的に働きたくても働けないとか、
妊婦の方とか、大変な方はたくさんあります。

これらの三通りの方々に布施をすると、
大変な幸せが作られるということです。
この三通りにものを与えると損しなそうなことは分かると思います。
布施を心がけましょう。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年12月20日

どうしたら信心獲得できるのか

どうしたら信心獲得できるのかを教えられているのが、
蓮如上人の御一代記聞書です。
時節到来ということを教えられています。

「時節到来」という事、用心をもして、その上に事の出来候を「時節到来」とはいうべし。
無用心にて事の出来候を「時節到来」とはいわぬ事なり。
聴聞を心がけての上の「宿善・無宿善」ともいう事なり。
ただ信心を聞くにきわまる事なる由、仰せの由に候。

他力本願だから、昔から信心獲得は待っていればいいよと使う人がいたし、今もいます。
しかしそれは蓮如上人のいわれる無用心です。
何もせずに待っていればいいはずがありません。
他力とはそんなことをいうのではないのです。

「用心をもして」ということは、
心を用いてとあります。
何に心を用いるのかというと、聴聞を心がけて
と教えられています。

聞法に心がけなければなりません。
信心を聞くにきわまると教えられています。

それはブッダ大無量寿経にこう教えられています。

仏、弥勒に語りたまわく
「それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。
当に知るべし。この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」。


名号を聞いて一瞬で絶対の幸福になると教えられています。

仏教は聴聞に極まるのです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2019年12月16日

救われるかどうかの違い

蓮如上人は、御文章3帖目12通に、
救われるかどうかの違いについて、

無宿善の機は信心を取り難し。まことに宿善開発の機は自ら信を決定すべし。
と教えられています。

そして、
いずれの経釈に依るとも、既に宿善に限れりと見えたり。
と教えられています。

どのお経やその解釈をみても、
宿善で決まる、ということです。

その根拠として、大無量寿経のお言葉をあげられています。

されば『大経』に云わく、「若人無善本・不得聞此経」ともいい、

大経とは大無量寿経のことです。
若人無善本・不得聞此経」とは、もし人、善本なくんば、この経を聞くことをえず
ということで、過去に善本がなければ聞けないということです。
この過去の善が宿善です。

また、七高僧の一人の中国の善導大師の根拠もあげられています。

善導は「過去已曽・修習此法・今得重聞・則生歓喜」とも釈せり。
過去にすでにかつて、この法を修習し、今重ねて聞くことを得て即ち歓喜を生ず
といわれています。

過去に聞いてきた人が今生も聞いてすくわれるということです。
ですから、宿善が大切です。

では、宿善が薄い人はどうすればいいのかというと、
宿善は、過去のということですから、
今生に宿善が厚くなるように求めればいいのです。
昨日やった善は、宿善ですから、
今日やった善は、すぐに過去の善になって、
宿善になります。

そして最もすばらしい宿善になるのは聴聞です。
仏教講座に行って仏教を聞きましょう。


posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2019年12月13日

善導大師の二河白道のたとえ(絶対の幸福までの心の道のり)

中国の善導大師は、唐の時代に活躍された方です。
中国で唐の時代は、仏教が最も盛んだった時です。
何十万とい僧侶がありました。

今の日本は、7万のがあるといわれますが、
住職なしの廃寺のような寺もあるので
もっと僧侶は少ないです。

その善導大師がつくられたたとえ話が
二河白道のたとえです。

昔から掛け軸などでよく描かれています。
これは、絶対の幸福になる心の道のりを
たとえで教えられたものです。

二河白道の譬、どんな道を通るかというと、
火と水の河の間の白い道を通りますから
二河白道といわれます。

その道を行こうとすると、
後ろから山賊のような人がたくさん出てきます。
これを群賊といいます。
群賊最初は優しく戻ってこないかと呼びかけます。
ところがどっこい、その言葉を振り切ると、だんだん、厳しくなります。
戻ってこないと殺すぞといいます。

善導大師は、そういう中を求めきって、
阿弥陀如来の呼び声を聞き、
絶対の幸福になったと教えられています。


posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年12月10日

宇多田ヒカル一番好きな言葉は諸行無常

宇多田ヒカルは、一番好きな言葉、諸行無常といっていました。
お母さんが変わった人で、明日からどこへ行くよと言って引っ越しをしていました。
友達を作りませんでした。

諸行無常というのは、すべては移り変わって行くということで、
どんなものでも、最後は壊れてしまうということです。

最後、壊れるものばかりだと思っていないからみんな
平然としていられますが、これが分かったら
大変なショックを受けます。

例えば東大目指して猛烈な受験勉強をしていたら、
東大の受験がない年がありました。

その人は、早稲田の政治経済出身の人です。
東大の受験のない年でした。

一生懸命、勉強していた人が東大受験なしとなったら、
一体何のために頑張ったんだとガクッとなります。
そういうことがあると知ると、恐ろしく思います。

ところが、私たちは、一生涯働いて
手に入れたものを全部おいて死んでいかなければなりません。
それまで築いた家庭も、実績も何の関係もありません。
死にます。

ところがそのうち死ぬかもしれないけど、
今日や明日死なないと思っています。
今日死ぬと思ったら一日一日、一生懸命送らなければなりません。

諸行無常です。

豪雨で200人以上亡くなったりします。
雨が降っただけでと思いますが
小学1年生とか3年生くらいの子供も亡くなります。

若い頃ボクシングをやっていて、
相当のランキングまでいった人でも、
大学の理事長でもそうです。

諸行無常ですから、年をとって、だんだん老いていきます。
しかもいつ死ぬか分かりませんから、死と隣合わせです。
四苦八苦です。
そういうことが分かれば、もっと真剣に仏教を聞く気持ちになります。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2019年12月06日

仏教と科学の共通点

仏教では、すべての結果には必ず原因があると教えられています。
これが仏教を貫く因果の道理です。
すべては因果応報ということです。

物理や化学のような科学の世界でも、
原因のない結果は認めません。
因果律に則らないものは認めません。

実験レポートで困るのは、決まり通りでない結果が出たときです。
この原因なら、必ずこの結果になるはず。

それが、こんな結果になった。
「どうしてだ?」と本を調べます。
どうしてこの結果になるのかの原因をしらべるわけです。

実験がお決まり通りの結果がにならないと大変です。
ということは、お決まり通りの結果にならなかった原因が必ずあります。
そうでなかったら、レポートには、たまたまこういう結果になりました、
と書けばいいのです。

しかし仏教は偶然とか、たまたまとか認めません。
仏教は、すべて自業自得と教えられています。

お前、それは自業自得だろ、とよく言います。
それは、因果応報だろ、ということです。

お前の運命は、自業自得です。
が作ったのではありません。

ちなみに欧米なら、ここにひっかかりますが、
日本人は、これにひっかる人は少ないです。

因果の道理は非常に緻密に精密に説明されています。
七千余巻もの経典に、徹底して説かれています。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教