救われるかどうかの違いについて、
無宿善の機は信心を取り難し。まことに宿善開発の機は自ら信を決定すべし。
と教えられています。
そして、
いずれの経釈に依るとも、既に宿善に限れりと見えたり。
と教えられています。
どのお経やその解釈をみても、
宿善で決まる、ということです。
その根拠として、大無量寿経のお言葉をあげられています。
されば『大経』に云わく、「若人無善本・不得聞此経」ともいい、
大経とは大無量寿経のことです。
「若人無善本・不得聞此経」とは、もし人、善本なくんば、この経を聞くことをえず
ということで、過去に善本がなければ聞けないということです。
この過去の善が宿善です。
また、七高僧の一人の中国の善導大師の根拠もあげられています。
善導は「過去已曽・修習此法・今得重聞・則生歓喜」とも釈せり。
過去にすでにかつて、この法を修習し、今重ねて聞くことを得て即ち歓喜を生ず
といわれています。
過去に聞いてきた人が今生も聞いてすくわれるということです。
ですから、宿善が大切です。
では、宿善が薄い人はどうすればいいのかというと、
宿善は、過去の善ということですから、
今生に宿善が厚くなるように求めればいいのです。
昨日やった善は、宿善ですから、
今日やった善は、すぐに過去の善になって、
宿善になります。
そして最もすばらしい宿善になるのは聴聞です。
仏教講座に行って仏教を聞きましょう。
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