蓮如上人の御一代記聞書です。
時節到来ということを教えられています。
「時節到来」という事、用心をもして、その上に事の出来候を「時節到来」とはいうべし。
無用心にて事の出来候を「時節到来」とはいわぬ事なり。
聴聞を心がけての上の「宿善・無宿善」ともいう事なり。
ただ信心を聞くにきわまる事なる由、仰せの由に候。
他力本願だから、昔から信心獲得は待っていればいいよと使う人がいたし、今もいます。
しかしそれは蓮如上人のいわれる無用心です。
何もせずに待っていればいいはずがありません。
他力とはそんなことをいうのではないのです。
「用心をもして」ということは、
心を用いてとあります。
何に心を用いるのかというと、聴聞を心がけて
と教えられています。
聞法に心がけなければなりません。
信心を聞くにきわまると教えられています。
それはブッダが大無量寿経にこう教えられています。
仏、弥勒に語りたまわく
「それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。
当に知るべし。この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」。
名号を聞いて一瞬で絶対の幸福になると教えられています。
仏教は聴聞に極まるのです。
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